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第6話 失われた誓い

 夜の祈りを終えた礼拝堂は、まだ香の余韻を残していた。

 床に伏せた灯が静かに揺れ、蝋燭の影が天井を撫でている。

 私は椅子に腰をかけ、指先で薬指の白い輪を確かめた。――確かに濃くなっている。

 巫女が言っていた通り、「芯」はまだ生きていた。


 その輪に、もう一つの温もりが重なった。

 リヒトが隣に座り、包帯を外す。肩の傷は癒えていないのに、剣を抜いたあとのように手の節が硬い。


「眠れないのか?」


「ええ。……あなたも?」


「同じだ」


 彼は私の手元を見つめ、短く息を吸う。

「その痕。初めて見た気がするのに、懐かしい。……何度も見ていたような、そんな感じがするんだ」


「昔、指輪をしていたんです」


「婚約者の?」


 その問いに、私は小さく頷いた。

 彼は言葉を失い、手を膝の上に置いた。

 その手が震えている。

 包帯の端の、結び目が解けかけていた。


 私は指を伸ばして、彼の手首を取る。

 二度、引いて、ひとつ。

 いつもの結び方。

 それが終わると、彼の瞳に光が宿る。


「……この結び方」


「え?」


「戦地で、同じ結び目をしてくれた人がいた。

 雨の日に、俺が手を切ったとき……薬草の匂いがして、包帯を結んでくれた」


 その記憶が、彼の中で小さく燃え始める。

 目を閉じれば、そこに私がいた。

 けれど、彼はまだ名前を呼べない。

 呼べないのに、涙が滲んでいる。


「その人は……俺の婚約者だったのかもしれない」


 彼の言葉に、胸がきしんだ。

 言いたい。「そうよ」と。

 でも、言葉は禁じられている。

 世界がまだ、輪を許していない。


 沈黙を破ったのは、鐘ではなく、遠くから聞こえる蹄の音だった。

 修道士たちが走る。巫女が扉を押し開け、鋭い声を上げる。


「“名喰い”の使いが来た!」


 外の闇に、光の矢が走る。

 それは実体を持たず、ただ「名」を狙って飛ぶ。

 リヒトの胸が輝いた。

 彼の“半帳”が狙われている。

 覆いの下の名を暴こうとする、呪いの矢。


「リヒト、下がって!」


 私は彼の腕を掴み、前に出た。

 矢は私を貫く寸前、何かに弾かれて地面に落ちた。

 巫女が印を結んでいる。

 しかし、次の瞬間にはもう一本の矢が放たれていた。


 ――その矢が私の胸に触れた瞬間、世界が裏返った。


 音が遠ざかる。

 光が反転し、香の匂いが冷たい金属に変わる。

 気づけば私は、あの神殿の中央に立っていた。

 あの夜と同じ白い床。

 巫女の声。

 そして、鐘が二度。


『おめでとうございます。――これで、彼は生き延びます』


 儀式の夜。

 あの時、私は眠らされたのではない。

 自ら望んで「外された」のだ。

 リヒトを守るために。

 彼の名を喰う呪具から、私の名を差し出して。


 私の唇が動いた。

 “私を外して”。

 “彼の名を守って”。


 その祈りの残響が、今の世界にも残っている。

 彼が私を覚えていなくても、私が彼を覚えていれば、それでいいと思っていた。

 けれど、今の私はもう違う。

 名前を取り戻さなければ、彼はまた狙われる。


 意識が戻ったとき、リヒトが私を抱きしめていた。

 息が荒く、声が震えている。


「リナ、何が起きた……! お前の体が、光に――」


 私は彼の胸に額を預け、囁いた。


「あなたを守るために、私は一度、消えたの」


「消えた……?」


「でも、もう一度、あなたを選びたい」


 その瞬間、巫女が走り寄り、私たちの手を握った。


「二人とも離れるな! 輪が閉じる!」


 足元の床が光り、薄い文字が浮かび上がる。

 “返環の儀”の未完の頁――燃え尽きたはずのそれが、灰の中から形を取り戻していく。

 巫女が唱える。

 彼の声と、私の声が重なる。


 リヒトが私の頬を両手で包み、まっすぐに見つめた。


「思い出した。お前の名を」


 彼の唇が、確かに動いた。

 「レイナ」。


 その瞬間、薬指の輪が光り、空気が弾けた。

 彼と私を結ぶ二つの環が、音もなく重なり合う。


 そして――鐘が二度ではなく、一度、深く鳴った。

 断絶ではなく、再生の合図。


 外の闇が薄れ、夜明けの光が差し込む。

 世界が息を吹き返す音がする。

 私はその光の中で、リヒトの胸に顔を埋めた。

 彼の鼓動が、確かに私の名を打っている。


「おかえり、レイナ」


 彼の声が耳元で溶けた。

 その一言で、全ての夜が報われた気がした。


 だが、巫女の顔は安堵ではなく、強張っていた。


「まだ終わっていないわ。輪は戻った。でも、“名喰い”は……」


 扉の向こう、黒い影が再び動いた。

 今度の狙いは、ふたり同時。


 ——そして、物語は次の夜明けへと続く。

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