第5話 禁忌の儀式
その朝は、鐘が三度、鳴った。
修道院で鐘が三度鳴るのは異例だ。祝いでも弔いでもない、合図。
院内の者にだけ通じる——「外からの来訪者」を知らせる音。
礼拝堂の扉が静かに開き、薄青の外套をまとった女が入ってきた。
夜の色を混ぜたような髪、白磁の額、細い銀の指輪。
王立神殿の印を胸に付けた巫女だった。あの夜、私の額に冷たい指を置いた、あの声の人——ではない。だが、同じ香りをまとっている。乳香と、白い薔薇の乾いた気配。
院長が先に歩み出て、互いの礼を交わす。
私は礼拝堂の後方で、掌を重ねて立った。
遠くの席で、リヒトが一瞬だけこちらを見る。彼は今日は訓練ではなく、仲間の付き添いという名目で院内に留まっている。
「王立神殿より、記録の照合に参りました」
巫女は穏やかに言った。「昨夜、儀式帳の複写が盗まれた形跡がありまして」
——燃える、紙。
昨夜の、黒い灰の匂いが喉に甦る。誰かが、空白の夜の記録を焼いた。
空白に意味があると、誰かが知っている。
院長はわずかに目を伏せ、「ここで話すことではありません」と答えた。
「客間へどうぞ」
巫女の視線が一瞬だけ私をかすめ、止まりかけて、すぐに離れた。
知らない目。
けれど、そのまぶたの開き方、息継ぎの間合い。私は身体が覚えている。
——同じ一族だ。王立神殿の、忘却の儀を司る側。
◇
昼下がり、院長に呼ばれて客間へ入ると、窓の鎧戸は閉められ、外の光は細く切られていた。
巫女は椅子に浅く座り、膝の上で指を交差させている。指輪に刻まれた紋章が、白い爪の根元で鈍く光った。
「お名前は?」
「……リナ・グラン」
「そう。ですが、あなたは“別の名”で呼ばれていた」
巫女の声は柔らかいが、砂糖の甘さではなく、舌の奥で解けない氷砂糖の感触を残す。
「レイナ・グラナート」
喉がひとつ跳ねた。
院長は何も言わない。灰の瞳だけが、私の震えを計っている。
「あなたは『双環の儀』を受けた。婚約の祝福に似せた形式で、実際には“結び目を解くための儀”」
巫女の言葉が、部屋の温度をわずかに下げる。
「二つの輪を神前に捧げ、片方の輪の名を世界から外す。——“絆を断つ祝祷”です」
「断つ……」
「あなたと、相手を。より正確に言えば、あなたの名と、その名で結びついていた全ての記録と記憶を、世界の表層から滑らせる」
巫女は手近の器に入った水面を指で撫でた。
波紋が走り、輪がほどけていく。「ただし、中心は消せない。芯は残る。だから、匂いとか、結び方とか、手癖とか——“芯”に近いものは、時折浮かぶ」
リヒトの結び目。彼の癖。
そして、私が彼に塗る軟膏の匂い。
——芯。
「どうして、そんなことを」
自分の声が、思ったよりも冷静でいられるのが不思議だった。
巫女は視線をわずかに落とし、言葉を選ぶ間をつくった。
「戦の終わりに、呪具が放たれたのです。名を射抜く矢。結ばれた二つの名を互いに喰い合わす“名喰い(なぐい)の矢”」
彼女は胸元から、薄い革の袋を取り出す。中の黒い欠片が、光を吸い込んだ。
「照準は——あなたの婚約者に。彼は名を狙われ、繋がる名が引火する。あなたの名が最も近かった。王都の術士たちは計算し、片方の輪を先に外した。あなたを、外した」
口中が乾く。
世界の輪郭が、音もなく足元をずらされる。
私を救ったのか、捨てたのか。その判断はどちらの手にあったのだろう。
「彼の方は?」
声が細い糸になって出た。
「彼には『半帳の覆い』を」
巫女は空の器に綺麗な布をかぶせ、ゆっくりと半分だけ外す。
「名の半分を隠す。完全な忘却ではない。あなたとの結び目だけを鈍らせる処置です。彼が騎士として立ち続けるために、最低限の形で」
「……最低限」
それは、彼の眼の灰色の底にあった冷えと、よそよそしさの理由か。
忘れきれないのに、思い出さないように、半分だけ覆った名。
「“双環の儀”は禁じられている」
巫女は淡々と続けた。「本来は罪人の名を外すために生まれた術。誰かの人生を“なかったことにする”のだから。……だから、儀式帳には空白が多い。鐘が二度、鳴った夜ばかり」
私の背の上を、冷たい指が歩く。鐘が二度。
婚約の前夜。修道院に来てから、夜ごと鳴る二度の鐘。
祝福ではなく、断絶の合図。
「記録を焼いたのは、誰ですか」
問うと、巫女はわずかに瞬いた。
「誰かが、あなたを完全に外へ押し出したいのです。空白を固定してしまえば、芯さえ痩せていく。あなたの指輪焼けも、そのうち消える」
私は無意識に薬指に触れた。白い輪郭は、昨夜よりも薄い気がした。
——消える。私の連続が、擦れて薄くなる。
「戻す方法は」
言いながら、喉が痛むのを感じた。「あるはずです。芯が残るなら、輪をかけ直せば」
巫女は、はじめてわずかに口元を動かした。笑いとも、嘆きともつかない微かな動き。
「理屈では、可能です。『返環の儀』。双環で外した輪を、戻す儀式。けれど、それを行うには——もう一度、二つの名を結び直す“証”が要る。しかも、誰にも邪魔されない場所で」
「証?」
「互いにしか分からない、たった一つの印。名だけでは足りない。世界が“確かにこの二人”だと頷く印。……ふたりでしか作れない結び目」
結び目。
私は包帯の端に、人差し指をかける感覚を思い出す。二度、引いて、ひとつ。
身体が先に覚える、私たちの印。
でも、それだけでは足りないということだ。
「巫女殿」
院長が静かに口を開いた。「この院で、返環を行うことはできませんか。ここは“忘却と赦しの園”。断ち切る役目も担ってきたが、戻す祈りを拒む場所ではない」
巫女は院長の瞳を見た。
その視線の上に、王都の塔の影が一瞬、差す。
「危険です。名喰いの欠片は、まだ生きています。輪が再び結ばれると知れば、狙いを定め直す。……彼が、狙われる」
リヒトが。
胸の奥の灯が、吹き消されかけて、また燃え上がる。
「では、私を——」
言いかけて、院長の視線が鋭く私を止めた。
「言ってはいけない。『私を生け贄に』なんて二度と。ここは赦しの場所であって、やり直しの場所なのよ」
巫女は立ち上がった。外套の裾が床に触れ、衣擦れの小さな音がした。
「しばらく、ここで様子を見ます。儀式帳の空白を追っている誰かが、また動くはず。あなたは——“薄くなりすぎないで”。あなた自身を忘れてしまったら、返環の証はもう作れないから」
彼女は去った。
部屋に残ったのは、院長と私、そして薄くなった昼の光だけ。
院長が小さく息を吐いた。
「あなたに、選ばせるつもりはないわ。けれど、あなたの心はもう決めている」
私は頷くことも、否定することもできず、ただ指先で机の縁をなぞった。
その面に刻まれた古い切り傷は、何度も手で撫でられて滑らかになっている。
——擦れても、跡は消えない。
私の芯も、きっと。
◇
夕刻、庭の石畳を踏む足音がして、リヒトが現れた。
肩の包帯を巻き直しに来たのだ。
薬草室で向かい合うと、彼は黙って腕を差し出す。私は結び目の前で一拍、指を止める。
「今日は違う結び方にします」
「いつものが、楽だ」
「だからこそ、今日は違う形に。……忘れないために」
彼は不思議そうに私を見て、それから静かに頷いた。
私は結び目を、わずかに変えた。二度引いて、もう一度、ひとつ。
たった一手の違い。だが、それは指にしか分からない印だ。
彼の筋肉が僅かに戸惑い、それから新しい位置を「覚える」。
皮膚の下で、その印が根を下ろす感触。
「……変だ。けど、悪くない」
「ええ。悪くない」
私たちは短く笑い合った。
その笑いの余韻が部屋に溶けるころ、扉の隙間から風が入り、蝋燭の炎が揺れた。
風に混じって、遠くの鐘が鳴る。
二度——そして、間を置かず、三度目の短い打音。
胸が強く締めつけられた。
合図だ。誰かが、門の外にいる。
私は立ち上がる。リヒトも同時に腰を上げ、いつの間にか外套の下に手を入れて剣の柄に触れていた。
「座っていて。療養中なんだから」
「俺の仕事は、人の前に立つことだ」
扉を開ける前に、院長が現れた。
灰の瞳は静かだが、声は低い。
「リナ、外に出ないで。——名の匂いが濃い夜になる」
「名の匂い?」
「呼ばれている、ということよ。あなたの名も、誰かの名も」
彼女は扉を押し開け、先に出た。
私とリヒトは廊下に並び、礼拝堂へ向かう。
回廊の影に、薄い人の気配。巫女の青い外套が、柱と柱の間をすべる。
礼拝堂に入ると、香炉の煙がいつもより濃い。
巫女は祭壇の前に立ち、指先で空中に細い円を描いた。
その動きに呼応するように、空気の層が薄くたわむ。
——輪。
見えない輪が、ここにある。
「返環はしない」
巫女が小さく告げる。「今はまだ。……ただし、“芯”を守る」
彼女は香炉の上に手をかざし、古い言葉を唱えた。
音ではなく、息のかたち。
聞くのではなく、「触る」祈り。
次の瞬間、礼拝堂の空気がわずかに暖まり、私の薬指の白い痕が、かすかに濃くなった。
リヒトが息を呑んだ。
彼の胸の前、見えない何かが、そっと結ばれる。
半分覆われた帷が、少しだけ持ち上がる。
——その刹那。
礼拝堂の脇扉が音もなく開き、黒い影が滑り込んだ。
フードの縁から覗く顎。手に、煤けた紙束。
巫女が振り返るより早く、影は紙を香炉の火へ投げ入れた。
「やめて!」
叫びは煙に吸い込まれ、紙は瞬く間に黒い花へ変わる。
焦げた紙の端に、細い文字が見えた。
——『返環』。
儀式の手順。空白を埋めるための、唯一の頁。
リヒトが影に飛びかかり、腕を掴む。
影は驚くほど軽く、布を裂いて抜けた。
床に落ちた黒い外套の下から、見覚えのある制服の裾が覗く。王立神殿の従者。
影は走り、回廊の闇に溶けた。
香炉の火が一気に高く上がり、礼拝堂の空気が“ひび割れる”。
世界の薄皮が、ぱきん、と鳴った。
私の視界の端から、色が削れていく。
文字が読めなくなる順番に似て、輪郭から、名が、剥がれる。
「——リ、」
リヒトの声が、手探りのように私に伸びる。
彼の瞳の底で、覆いがばさりとはためいた。
私の名の半分が、彼の唇にのぼる。
あと、一音。
その音が出る前に、鐘が、二度。
巫女が私の額に手を置いた。あの夜と同じ冷たさ。
祈りの言葉が走り、私の身体を縫い止める針になる。
剥がれかけた名が、縁で踏みとどまる。
「間に合った」
巫女の額に汗がにじんでいる。「空白を“固定”されるところだった」
院長が深く息を吐き、私の肩を抱いた。
足の裏が戻ってくる。床の硬さ。香の熱。
私は震える指で薬指を見た。白い輪郭はさっきよりはっきりしている。
——芯は、まだ生きている。
リヒトが数歩、ふらついた。
私は反射的に彼の腕を支える。
彼は私の指に自分の掌を重ねて、じっと見た。
包帯の新しい結び目が、彼の皮膚にかすかな跡をつけている。
「言えそうで、言えない名がある」
彼は自分に言い聞かせるように低くつぶやいた。「けれど、指は覚えている。結び方も、強さも。……この指の、温度も」
巫女は香炉に新しい炭を足し、火勢を落ち着かせた。
「今夜は礼拝堂で眠りなさい、レイナ——いいえ、リナ」
彼女ははっきりと私を見た。「芯を濃くする。夢で、名を呼び合いなさい。呼ぶたび、返環の証に近づく」
院長は頷き、礼拝堂の隅に床を用意する。
私がそこに座ると、巫女は扉の前に立って見張りをし、リヒトは少し離れた柱の陰にもたれた。
眠りは浅く、風の音と鐘の余韻が混じり合う。
私は目を閉じ、唇の形だけで、何度も呼ぶ。
——リヒト。
そのたびに、遠くで誰かが応える気がした。
——レ……
最後の音は、まだ届かない。
けれど、届くまで呼び続ける。
世界が名を剥がすなら、私は名を縫い戻すまで、呼び続ける。
夜半、風が弱まり、香の煙がまっすぐ立った。
鐘は、二度。
私は夢の中で、細い糸を結ぶ。
二度、引いて、ひとつ。
それは、ふたりにしか分からない、印だ。
——返環の儀まで、あと一歩。
けれど同時に、空白を愛する誰かの気配も、確実に近づいていた。