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第4話 二度目の出会い

 翌朝の霧は、昨日よりも濃かった。

 鐘の音も、鳥の声も、柔らかな白の膜に吸い込まれていく。

 私は礼拝堂の掃き掃除をしていた。扉が軋み、外の空気が流れ込む。

 振り向くと、彼が立っていた。リヒト・アーヴェント。

 灰の外套はもう脱いで、素の軍服のまま。昨夜より顔色がよく、傷の布もまだ白かった。


「昨日の礼を言いに来た。……助かった」


「それはよかったです。傷は痛みませんか?」


「もうほとんど。だが、手を出すとまた怒られそうだな」


「怒るんじゃありません。心配するだけです」


 ふと、自分の声の柔らかさに気づいて、息を詰めた。

 彼はわずかに笑う。静かな、けれど確かに昔と同じ笑い方だった。


「心配、か……。奇妙だ。初対面のはずなのに、懐かしい気がする」


「そう感じるのは、きっと神様のいたずらです」


「俺は信心深くない」


「でも、“感じる”というのは、信じるのと同じことですよ」


 彼は言葉を失い、目を細めた。

 窓から差し込む光が、彼の睫毛の影を伸ばす。

 その静寂が、私の胸をゆっくり満たしていく。


 ◇


 昼の祈りが終わるころ、修道院の裏庭に子どもたちの笑い声が響いた。

 私は洗濯籠を抱えて通り過ぎようとしたとき、彼の声を聞いた。


「そこの布、手伝おう」


「大丈夫です。療養中の方に手を煩わせるわけには」


「指一本なら使える。……こういう作業は落ち着く」


 彼はためらいもなく、干し竿を押さえた。風に翻る白布の間で、彼の影が揺れる。

 まるで、昔ふたりで花冠を編んでいた日の、陽の光みたいだった。


「不思議だな。これほど静かな場所に来ると、音が戻ってくる」


「音……ですか?」


「忘れていたはずの音。誰かの声とか、笑いとか」


 彼の灰の瞳が、ふと遠くを見る。

 ——それは、記憶を掘り返そうとする人の目だ。


「俺には、思い出せない時期がある。戦の後だ。

 気がついたら、昇進の話と、新しい名が与えられていた。

 それ以前のことは、夢みたいにぼやけている」


「怖いですか?」


「怖いというより……落ち着かない。

 夢の中で、大切な誰かを呼んでいる気がする。

 でも、名が出てこない」


 胸の奥が痛んだ。

 私は指先で洗濯籠の縁をなぞり、唇を結ぶ。


「その人は、あなたを呼び続けているのかもしれません」


「俺を?」


「ええ。あなたの名を、何度も何度も」


 彼は静かに頷いた。

 しばらく風の音だけが流れ、やがて彼が言った。


「なら、俺も呼び返さなきゃな。

 ……いつか、その声に追いつけるように」


 その瞬間、白布の影の中で、私の心が音を立てた。

 まるで、閉ざされた扉が少しだけ開いたように。


 ◇


 その夜。

 寝台の上で、私は灯を消せずにいた。

 彼の言葉が、胸の中で繰り返し鳴る。

 “いつか、その声に追いつけるように。”


 私は両手を胸の前で組み、そっと祈る。

 どうか、この奇跡が永く続きますように。

 どうか、彼の心がもう一度、私の名前を思い出しますように。


 外では、夜風が鐘を揺らす。

 二度、澄んだ音が響いた。

 ——それは、かつての婚約の夜と、同じ合図だった。

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