第3話 記憶をなくした騎士
朝の霧が、修道院の畑を薄く洗っていた。
鐘が一度鳴り、私は薬草室で布を煮沸する。湯気に混じるカモミールの香りは、人の痛みを柔らかくほどく。
扉が叩かれ、若い修道士が顔をのぞかせた。
「療養兵が到着しました。院長がお呼びです、リナ姉」
外へ出ると、石門のところに灰色の外套がいくつも並んでいた。馬の鼻息、革の軋み、低く交わされる声。
その列の中に、私はすぐに見つける。
背筋の伸び方で分かる。歩幅の区切り方で分かる。
——リヒト。
彼は隊列の後方にいて、左の掌を布で雑に巻いていた。血が滲み、指の付け根に赤い線が走っている。
院長に促され、私は一歩前へ出た。修道院の白衣に、薄い亜麻色のヴェール。
彼の視線が、こちらに向く。
昨日、王都の柵越しに向けられたよそよそしさと同じ、しかし、違う。霧のせいか、ほんのわずかに柔らかい。
「傷の手当をします。こちらへ」
彼は一瞬ためらって、それから頷いた。
薬草室に入ると、外の喧噪は遠くなる。彼は椅子に腰かけ、私は水差しを手にして彼の掌の布をほどく。
布の結び目は、彼の癖でいつも二重。私は迷いなく爪の腹で引き、するりと解く。
彼の長い指が、わずかに動いた。
「……慣れているな」
低い声。喉の奥に砂利を敷いたような響き。
私は微笑もうとして、やめた。手に集中する。消毒した水で血を洗い、切り傷の深さを確かめる。皮一枚。剣の鍔で擦ったのだろう。
棚から小瓶を取る。黄色い軟膏。
指で薄く塗ると、甘い草の匂いが立った。
「この匂いは……」
「カレンデュラ。炎症を鎮めます」
「いや、もっと昔の記憶の……」
彼の言葉が、そこで途切れた。
私は顔を上げない。上げたら、彼の眼の中で何かを探してしまう。
布を巻く。掌の付け根を過ぎて、甲へ。
いつも通り、彼の動きを邪魔しないように、剣を握る筋の上は薄く。最後に、私だけが知っている“結び方”で止める。
——二度、引いて、ひとつ。
彼の筋肉が、その結び目の位置に合わせるように、自然に収まる。
彼は息をひとつ吸って、細く吐いた。
「……過保護だな」
ふっと、空気が揺れた。
その言葉。そのタイミング。私が彼の傷に薬を塗るたび、彼が冗談めかして言った、あの文句。
私は思わず顔を上げる。
彼も私を見た。灰の瞳が、霧を集めたみたいに濡れている。
「今のは……」
「昔、誰かに、そう言っていた気がする」
彼の視線が、私の指先に落ちる。
私は手を引っ込めず、布の端をもう一度押さえた。指先が、彼の脈を拾う。早い。
心臓が鼓動を打つたび、あの王都の柵の前の冷たさが、薄皮一枚はがれていく。
「私は、修道院の奉仕者です。リナと呼ばれています」
「俺は——」
「知っています。書類にありましたから」
彼はわずかに笑った。
笑うと、目尻に浅い皺が寄る。
そこに、私は名前を置きたくなる。何度でも。
けれどそれは、今の私には許されていない。私はレイナではない。私は、リナ。
「手、使えばすぐに開きます。今日は剣に触らないでください」
「それは難しい注文だ」
「では、せめて巻き直しに戻ってきてください。夕方に」
彼は頷き、立ち上がった。
扉に向かいかけて、ふいに振り返る。
——二度、軽く靴で床を鳴らす。
嘘をつく前の癖。彼が昔から持っている、無意識の合図。
私は息を飲む。彼はそれに気づかないまま、言った。
「初めまして、リナ。世話になる」
初めまして。
たしかに、初めてだ。
けれど、初めてではない。
私の喉に、言葉が絡まる。
扉が閉まり、薬草室にカモミールの香りだけが残る。
◇
昼、孤児たちに読み書きを教えていると、開け放した窓から外庭の声が入ってくる。訓練も療養も、修道院では音を潜める。
小さな男の子が、私の袖を引いた。
「ねえ、姉さま。灰色の人、かっこいいね」
「そうね。怪我をしているから、静かにね」
「姉さまの匂いがするって言ってた。さっき、外で」
胸が跳ねる。
私は教本を閉じ、ページにひもを挟んだ。
——匂い。
婚約の前夜の神殿で焚かれた乳香と、私の髪に移ったラベンダー。
彼は、覚えているのだろうか。香りの重なりとして。
心は、言葉ではなく、もっと古い場所で覚える。
夕方。
彼は約束通り戻ってきた。今度は掌だけでなく、肩の筋を痛めたと、少し照れた顔で言う。
私は彼の外套を脱がし、布の上から指で筋の流れをなぞる。
彼は目を細め、かすかに身を預ける。
指が肩甲骨の縁を越えたところで、彼が低く言った。
「不思議だ。初めての場所なのに、胸が落ち着く」
「修道院は誰にでもそう感じさせます」
「いや……あなたの手が、だ」
言葉が耳の後ろまで熱くなる。
私は誤魔化すように、棚から別の小瓶を取る。
白い花弁の浸出油。
軟膏を薄く延ばすと、部屋の空気がやわらぐ。
彼が鼻で笑った。
「また、その匂いだ」
「嫌いですか」
「好きだ」
短く、まっすぐに言う。
私は視線を逸らし、包帯を取った。
最後の結び目を作るとき、彼がじっと私の指を見た。
喉の奥で、彼の名が熱に変わる。
私の名は、まだ彼の中で形にならない。
それでも、指の結びの記憶は、彼の体が覚えている。
「……レ」
彼の唇が、音にならない音を紡いだ。
私は顔を上げる。
彼の灰の瞳が、私の喉元に落ちる。そこには、薄く消えかけた紋章の焼印がある——はずだった。
今は、何もない。
彼の視線は、その空白に小さく引っかかって、それから離れた。
「……礼を言う、リナ」
私は微笑んだ。
「どういたしまして」
彼が扉に向かう。
扉の前で、もう一度振り返る。
靴が、石床を一度、二度——鳴らない。
今度は、素直な目だ。
「明日も、来てくれますか。理由は分からないが、その……落ち着く」
「もちろん。あなたが必要とする限り」
彼は短く頷き、去っていった。
その背を見送っていると、院長が静かに入ってくる。
灰の瞳が、私の顔色を撫でた。
「距離を取りなさい、リナ。あなた自身が薄くなる」
「……はい」
「それでも、人は人に触れずにはいられないのね」
院長は、窓の外の夕焼けを見た。
西の空が、薄く金に燃えている。
私は包帯の端を整えながら、指先の微かな震えを抑える。
彼は、覚えていない。
けれど、忘れきれてもいない。
心と身体のどちらかが、どこかで私を覚えている。
夜の祈りの鐘が鳴る。
——二度。
胸の奥の灯が、もうひとつ、確かに点いた。
私は目を閉じ、唇の形だけで自分の名を呼ぶ。
レイナ。
聞こえないはずの名が、暗闇の中でかすかに響いた気がした。
そしてその夜の更け際、修道院の外門の影で、誰かが古びた紙を焼いた。
火は静かに紙片を縮め、灰にする。
——そこには、王立神殿の儀式帳の複写があった。
鐘が鳴ったという、空白の夜の記録。
火は、祝福の言葉を最後まで読ませないまま、黒に変えた。