表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/9

第3話 記憶をなくした騎士

 朝の霧が、修道院の畑を薄く洗っていた。

 鐘が一度鳴り、私は薬草室で布を煮沸する。湯気に混じるカモミールの香りは、人の痛みを柔らかくほどく。

 扉が叩かれ、若い修道士が顔をのぞかせた。


「療養兵が到着しました。院長がお呼びです、リナ姉」


 外へ出ると、石門のところに灰色の外套がいくつも並んでいた。馬の鼻息、革の軋み、低く交わされる声。

 その列の中に、私はすぐに見つける。

 背筋の伸び方で分かる。歩幅の区切り方で分かる。

 ——リヒト。


 彼は隊列の後方にいて、左の掌を布で雑に巻いていた。血が滲み、指の付け根に赤い線が走っている。

 院長に促され、私は一歩前へ出た。修道院の白衣に、薄い亜麻色のヴェール。

 彼の視線が、こちらに向く。

 昨日、王都の柵越しに向けられたよそよそしさと同じ、しかし、違う。霧のせいか、ほんのわずかに柔らかい。


「傷の手当をします。こちらへ」


 彼は一瞬ためらって、それから頷いた。

 薬草室に入ると、外の喧噪は遠くなる。彼は椅子に腰かけ、私は水差しを手にして彼の掌の布をほどく。

 布の結び目は、彼の癖でいつも二重。私は迷いなく爪の腹で引き、するりと解く。

 彼の長い指が、わずかに動いた。


「……慣れているな」


 低い声。喉の奥に砂利を敷いたような響き。

 私は微笑もうとして、やめた。手に集中する。消毒した水で血を洗い、切り傷の深さを確かめる。皮一枚。剣の鍔で擦ったのだろう。

 棚から小瓶を取る。黄色い軟膏。

 指で薄く塗ると、甘い草の匂いが立った。


「この匂いは……」


「カレンデュラ。炎症を鎮めます」


「いや、もっと昔の記憶の……」


 彼の言葉が、そこで途切れた。

 私は顔を上げない。上げたら、彼の眼の中で何かを探してしまう。

 布を巻く。掌の付け根を過ぎて、甲へ。

 いつも通り、彼の動きを邪魔しないように、剣を握る筋の上は薄く。最後に、私だけが知っている“結び方”で止める。

 ——二度、引いて、ひとつ。

 彼の筋肉が、その結び目の位置に合わせるように、自然に収まる。

 彼は息をひとつ吸って、細く吐いた。


「……過保護だな」


 ふっと、空気が揺れた。

 その言葉。そのタイミング。私が彼の傷に薬を塗るたび、彼が冗談めかして言った、あの文句。

 私は思わず顔を上げる。

 彼も私を見た。灰の瞳が、霧を集めたみたいに濡れている。


「今のは……」


「昔、誰かに、そう言っていた気がする」


 彼の視線が、私の指先に落ちる。

 私は手を引っ込めず、布の端をもう一度押さえた。指先が、彼の脈を拾う。早い。

 心臓が鼓動を打つたび、あの王都の柵の前の冷たさが、薄皮一枚はがれていく。


「私は、修道院の奉仕者です。リナと呼ばれています」


「俺は——」


「知っています。書類にありましたから」


 彼はわずかに笑った。

 笑うと、目尻に浅い皺が寄る。

 そこに、私は名前を置きたくなる。何度でも。

 けれどそれは、今の私には許されていない。私はレイナではない。私は、リナ。


「手、使えばすぐに開きます。今日は剣に触らないでください」


「それは難しい注文だ」


「では、せめて巻き直しに戻ってきてください。夕方に」


 彼は頷き、立ち上がった。

 扉に向かいかけて、ふいに振り返る。

 ——二度、軽く靴で床を鳴らす。

 嘘をつく前の癖。彼が昔から持っている、無意識の合図。

 私は息を飲む。彼はそれに気づかないまま、言った。


「初めまして、リナ。世話になる」


 初めまして。

 たしかに、初めてだ。

 けれど、初めてではない。

 私の喉に、言葉が絡まる。

 扉が閉まり、薬草室にカモミールの香りだけが残る。


 ◇


 昼、孤児たちに読み書きを教えていると、開け放した窓から外庭の声が入ってくる。訓練も療養も、修道院では音を潜める。

 小さな男の子が、私の袖を引いた。


「ねえ、姉さま。灰色の人、かっこいいね」


「そうね。怪我をしているから、静かにね」


「姉さまの匂いがするって言ってた。さっき、外で」


 胸が跳ねる。

 私は教本を閉じ、ページにひもを挟んだ。

 ——匂い。

 婚約の前夜の神殿で焚かれた乳香と、私の髪に移ったラベンダー。

 彼は、覚えているのだろうか。香りの重なりとして。

 心は、言葉ではなく、もっと古い場所で覚える。


 夕方。

 彼は約束通り戻ってきた。今度は掌だけでなく、肩の筋を痛めたと、少し照れた顔で言う。

 私は彼の外套を脱がし、布の上から指で筋の流れをなぞる。

 彼は目を細め、かすかに身を預ける。

 指が肩甲骨の縁を越えたところで、彼が低く言った。


「不思議だ。初めての場所なのに、胸が落ち着く」


「修道院は誰にでもそう感じさせます」


「いや……あなたの手が、だ」


 言葉が耳の後ろまで熱くなる。

 私は誤魔化すように、棚から別の小瓶を取る。

 白い花弁の浸出油。

 軟膏を薄く延ばすと、部屋の空気がやわらぐ。

 彼が鼻で笑った。


「また、その匂いだ」


「嫌いですか」


「好きだ」


 短く、まっすぐに言う。

 私は視線を逸らし、包帯を取った。

 最後の結び目を作るとき、彼がじっと私の指を見た。

 喉の奥で、彼の名が熱に変わる。

 私の名は、まだ彼の中で形にならない。

 それでも、指の結びの記憶は、彼の体が覚えている。


「……レ」


 彼の唇が、音にならない音を紡いだ。

 私は顔を上げる。

 彼の灰の瞳が、私の喉元に落ちる。そこには、薄く消えかけた紋章の焼印がある——はずだった。

 今は、何もない。

 彼の視線は、その空白に小さく引っかかって、それから離れた。


「……礼を言う、リナ」


 私は微笑んだ。

「どういたしまして」


 彼が扉に向かう。

 扉の前で、もう一度振り返る。

 靴が、石床を一度、二度——鳴らない。

 今度は、素直な目だ。

「明日も、来てくれますか。理由は分からないが、その……落ち着く」


「もちろん。あなたが必要とする限り」


 彼は短く頷き、去っていった。

 その背を見送っていると、院長が静かに入ってくる。

 灰の瞳が、私の顔色を撫でた。


「距離を取りなさい、リナ。あなた自身が薄くなる」


「……はい」


「それでも、人は人に触れずにはいられないのね」


 院長は、窓の外の夕焼けを見た。

 西の空が、薄く金に燃えている。

 私は包帯の端を整えながら、指先の微かな震えを抑える。

 彼は、覚えていない。

 けれど、忘れきれてもいない。

 心と身体のどちらかが、どこかで私を覚えている。


 夜の祈りの鐘が鳴る。

 ——二度。

 胸の奥の灯が、もうひとつ、確かに点いた。

 私は目を閉じ、唇の形だけで自分の名を呼ぶ。

 レイナ。

 聞こえないはずの名が、暗闇の中でかすかに響いた気がした。


 そしてその夜の更け際、修道院の外門の影で、誰かが古びた紙を焼いた。

 火は静かに紙片を縮め、灰にする。

 ——そこには、王立神殿の儀式帳の複写があった。

 鐘が鳴ったという、空白の夜の記録。

 火は、祝福の言葉を最後まで読ませないまま、黒に変えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ