第2話 追放と再誕
夜明けの色は、王都の端に行くほど薄くなる。
灰色の空の下、荷車が石畳を軋ませて進む。
私はその荷台に腰を下ろしていた。修道院へ向かう奉仕志願者たちの列。自分の足で立っているはずなのに、遠くから見れば、ただの「一人の旅人」にしか見えない。
——それでいい。
レイナ・グラナートは、もうどこにもいない。
荷台の上で外套の襟を立て、息を整える。昨日までの記憶は、まるで絵の具のように乾きかけて剥がれていく。それでも、心臓の奥で脈を打つ痛みだけは、確かに残っていた。
修道院は、王都の北端から二日の距離。
「失われた者たち」を受け入れると噂の古い場所だった。身寄りをなくした孤児、記憶を失った兵士、罪を償う者。——そして、私のように、存在を忘れられた者。
道の途中、同行者のひとりが声をかけてきた。
「嬢ちゃん、王都からか?」
「ええ……」
「変わったな、あの街。最近は“存在を消す魔女”の噂まで流れてる。人の名が戸籍から抜けるんだとよ」
私はその言葉に、喉の奥がひりつくのを感じた。
「その……魔女は、どこにいるんですか」
「北の修道院に幽閉されてるとか、いや、それももう昔の話だってな」
男は笑って、馬車の揺れに身を任せた。
私は膝の上で指を握りしめる。昨夜見た巫女の瞳。その奥に一瞬、何かを知っているような光があった。あれが“魔女”なのだろうか。
◇
昼過ぎ、修道院が見えた。
白い石造りの高い壁。門の上には古い文字が刻まれている。「忘却と赦しの園」。
門番の修道士が名簿に目を落とす。
私は身分を偽る必要もなかった。ただ新しい名前を書けばよかった。
「……名前は?」
短い沈黙ののち、私は言った。
「リナ・グラン」
ペン先が紙を走る音が、世界の境界線を描く。
レイナ・グラナートは、完全に過去になった。
◇
修道院での生活は、静かだった。
朝は鐘の音で起き、庭で草を刈り、昼は孤児たちに読み書きを教え、夜は祈りの間で蝋燭を灯す。
人々は優しく、私の過去を問わない。
だけど、夜の祈りの最中に、時折——誰かが私の名を呼ぶような気がした。
「……レイナ」
耳元で囁く声に目を開けても、そこには風しかいない。
それでも、その声が消えるたびに、胸の奥で灯が一つ、静かに点るようだった。
ある晩、修道院長が私を呼んだ。
年老いた女性で、透き通るような灰の瞳をしている。
「リナ。あなたの手は綺麗ね。昔、何かを創っていた人の手だわ」
「刺繍を……少し」
「なら、薬草室の布を頼めるかしら。明日、騎士団の療養兵が来るの」
——騎士団。
心臓が跳ねた。あの制服の灰色が、頭の中に浮かぶ。
「どこの隊の方ですか」
「王都直属。名前は……確か、リヒト・アーヴェント、だったかしら」
世界が一瞬で音を失った。
息を呑む私に、院長は穏やかに微笑んだ。
「明日の朝、彼が来る。あなたは、ただ静かに祈りなさい」
膝が震える。
神は残酷に、再び彼を私の前へ送る。
けれど今の私は、もう“令嬢”ではない。
ただの無名の修道女——リナ。
それでも、心のどこかで、祈らずにはいられなかった。
どうか、彼の記憶が少しでも、私の名を憶えているように。
その夜、外の風が壁を叩き、灯が揺れた。
遠くで鐘が二度、鳴った。
——まるで、婚約の夜がもう一度、始まるかのように。