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第1話 消えた婚約前夜

 王立神殿の白い石床は、夜気を吸って冷たかった。

 鐘が二度鳴り、巫女の手が私の額に触れる。薄く香る乳香。閉じた瞼の裏で金の粉が舞い、誰かの祈りが遠ざかっていく。


「——おめでとうございます、レイナ様。これで、明日の式は滞りなく」


 声は、そこで切れた。


 目を開けたとき、私は自室の天蓋の下にいた。

 薄桃色の布に朝の光が透け、鳥のさえずりが近い。いつも通りの朝。婚約の前夜、最後の独りの朝。そう思って身を起こし、枕元の箱に手を伸ばす。婚約指輪がしまってある——はずの場所。


 空だった。


 箱の底に指を這わせる。何も触れない。胸が一度、空気を掴みそこねたようにひゅっと鳴る。


 侍女を呼ぼうと紐を引く。鈴が鳴って、ほどなく扉が開いた。


「……どちら様で?」


 聞き慣れた女の声が、見知らぬ言い回しで止まった。

 私の侍女のマリアンは、いつも半分ほど屈託のない笑顔で入ってくるのに、目の前の女は戸口で背筋を伸ばしたままだ。整ったエプロンドレス。見たことのない顔。いや、顔だけじゃない。——私の部屋の壁紙が違う。昨日までの藤色の蔓薔薇はどこへ行ったのだろう。薄い生成りの、客間用の無難な柄に変わっている。


「……マリアンは? 私の侍女の」


「お屋敷にマリアンという者はおりませんが。お嬢様、どなたに御用で」


「私は、レイナ・グラナート。ここの——」


「グラナート侯爵家のお嬢様は、セラフィナ様でございます」


 女は当たり前のように言い切った。

 胸の内側が冷える。呼吸を整えて、ベッドから足をおろし、床に触れる素足の感触を確かめる。冷たい。冷たさは本物だ。だから夢ではない。


「父と母に会わせて。すぐに」


「すぐには難しいかと。セラフィナ様は午餐の準備に——」


「セラフィナって、誰のこと?」


 女の眉が、ほんの少しだけ上がった。私の質問が、奇妙な音を立てて空中で砕ける。


 私は素足のまま廊下に出た。磨かれた床板に、知らない絵画。談話室の位置が逆になっている。家の形が、どこか違う骨組みで組み直されたみたいだ。足音が侍従を呼んだのか、執事が駆けてくる。


「失礼ですが、どちらの……」


「レイナです。侯爵の娘の。父のところへ」


 執事の目が、私の顔を丁寧に、しかし他人を見るように撫でた。

 その視線に、私は自分の顔に触れる。頬骨、鼻梁、口元。鏡で見慣れた輪郭。違いは——分からない。分からないほどの、わずかな違和。瞳の色が一段階、暗い? 髪の色に灰が混じった? そんな微差で、人は他人になるのだろうか。


「私はこの家の者です。昨日まで、確かに」


「当家の系譜に、そのようなお名前はございません」

 執事は、私が幼いころから知っている人ではなかった。見知らぬ声で、完璧な礼儀で、私の存在を否定した。


 両開きの扉の向こうから、笑い声がした。母の、よく通る明るい声に似ていた。駆ける。扉を押し開ける。


「お母様!」


 陽の射す食堂で、淡い青のドレスを着た夫人が振り向く。

 私は一瞬で近づき、その手を掴んだ。温かい。指の付け根には、母がいつもしている真珠の指輪。ほっとしかけた胸が、次の瞬間、深く沈む。


「……失礼。どちらに御用かしら?」


 夫人の後ろに、若い娘が座っていた。私より少し丸い頬。まつ毛の影が長い。彼女は恥じらうように目を伏せ、すぐに顔を上げて笑った。


「お父様、どの花を戴冠に編みましょう? セラフィナは白薔薇がいいと思うの」


 ——セラフィナ。


 私の席に、私の知らない娘が座っている。

 私は目の前の空気を押しのけるようにして、父に近づいた。父は陽光の縁で、穏やかな笑みを崩さない。肩幅の広い背中。何百回も抱きしめてくれた腕の、重さを私だけが覚えているのに。


「父上、私です。レイナです」


 父は、少しだけ眉間に皺を寄せた。何かを思い出そうとする人の癖。私はそこにしがみつきたくなる。


「……失礼、当家の者で?」


「娘の友人かしら。セラフィナ、お知り合い?」


 娘が、首を傾げる。肩の上で金の髪飾りが揺れた。

 世界の輪郭が、私の形を避けて再配置されている。私の椅子。私の皿。私の名。すべてが、知らない娘の前にある。


 私は背を向けて、走った。

 部屋に戻る。衣裳箪笥を開ける。刺繍入りのハンカチ。縁に名前。——“S”。鏡の前でスカートを持ち上げ、左足首を確かめる。子どものときに落馬してできた小さな楕円の傷痕。そこに指を当て、唇を噛んだ。消えている。

 胸元の、家の紋章の焼き印も、薄くなって、ただの肌色に溶けている。


 存在は、痕から消えていくのだ。


 神殿の巫女の声が、耳の奥で反響する。

 ——「おめでとうございます」。何に。誰に。なぜ。


 私は外套を掴み、屋敷を出た。門番に制される前に、通りに出る。王都の朝は相変わらず忙しく、パンの香りと車輪の音が混じっている。誰かの呼び声、洗濯物の水滴、馬の鼻息。すべてが確かで、私だけが薄い。


 記録局へ行けばいい。家の戸籍、社交名簿、紋章登録。私の名がどこかに刻まれていれば、この悪い夢は破れる。


 記録局の石造りの建物には、いつも通り水色の旗が翻っていた。窓口の男はペン先を乾かしながら顔を上げる。


「お名前を」


「レイナ・グラナート。侯爵家の記録の、閲覧を」


 男は慣れた手つきで帳面をめくり、横に積まれた簿冊を取り出す。指で索引の字を辿り——止まる。視線が私と紙の間を往復し、やがて彼は首を傾げた。


「……グラナート侯爵家は、現当主フェルディナンド様と令夫人オリヴィア様、令嬢セラフィナ様の三名。こちらに記載が」


「レイナは?」


「そのお名前は、確認できません」


 別の簿冊。古い紙の匂い。十年前の社交名簿。五年前の舞踏会出席者名。私は自分でページをめくる。指が震える。文字の海に目を凝らす。

 ——どこにも、ない。


 窓口の男が、気遣うように水を差し出した。私は受け取らず、代わりに指を見せる。薬指の根元には、うっすらと指輪焼けの白い痕が残っている。そこだけ肌が白い。昨夜まで確かにあった輪。目に見える証拠。私自身の身体に刻まれた、私だけの歴史。


「ここに、あったんです。昨日まで」


 男は困ったように目を伏せ、咳払いをした。

「失礼ですが、医務室でお休みになっては。体調が——」


 私は頭を振り、記録局を出た。太陽は高く、時計塔の長針がゆっくりと影をのばしている。

 ——婚約者に会えばいい。彼なら。彼だけは。


 王城へ続く並木道は、今日もきちんと刈り込まれていて、葉の影が鱗のように地面に落ちている。遠くで号令。訓練場の剣がぶつかる音。

 柵の向こう、淡い灰の制服。二列に並んだ騎士たち。私は柵に手をかける。指先の木のざらつきが、現実に、縫い止めの針のように刺さる。


 その列の端に、見知った背中があった。

 高い肩、真っ直ぐな首筋。陽に焼けた手の甲の、小さな傷。私はその傷に薬を塗ったことがある。笑われながら、「過保護だ」と言われた。声も、笑い皺の寄り方も、すべて覚えている。


「——リヒト!」


 名を呼んだ瞬間、隣にいた騎士がこちらを見た。リヒト——彼が私を見る前に、号令がかかる。列が一斉に動き、彼は眉一つ動かさず剣を抜いた。

 私は柵に沿って走る。彼の前に回り込み、呼吸を整え、もう一度。


「リヒト!」


 剣が鞘に戻る乾いた音。たくさんの視線。彼がようやく私を見た。

 灰色の瞳。いつもは金茶に近いのに、今日の陽の下では深い湖みたいに見える。視線が私の顔を、髪を、喉元を、すべって——止まらない。

 知らない人間を見る目つきで、一拍の静寂。


「……ご用件が?」


 丁寧だ。よそよそしい。他人行儀。

 私の名を呼ばない口元。私の名が抜け落ちた世界で、彼の声まで、正しく響かない。


 膝の裏に力が入らなくなる。私はそれを見せまいと顎を上げ、微笑もうとした。うまくいかなかった。


「私は、レイナ。あなたの——」


「訓練の妨げはご遠慮を」


 別の騎士の声が割り込む。私は柵から手を離した。掌が乾いているのに、冷たかった。

 訓練列が再び動き出す。彼は一度も振り返らない。

 ——彼の歩幅は、昔から変わらないのに。


 夕方、私は神殿に戻った。昨夜と同じ香の匂いがして、石畳はやはり冷たかった。巫女に会わせてほしいと頼むと、若い神官が怪訝そうに首を傾げる。


「昨夜の儀式? 存じませんが。当神殿では、婚約に関する儀は一年以上前から予約が必要で——」


「昨夜、私はここで眠りにつきました。巫女が祝福を。鐘が二度、鳴った」


「昨夜は鐘は鳴っておりません」


 神官は帳面を示した。鐘楼の記録。鐘の回数と時刻が毎日記されている。昨夜の欄は空白だった。

 私は片手で額を押さえ、深く息を吐いた。

 祈りの残り香だけが、確かに漂っているのに。


 神殿の出口の壁に、古びた掲示が貼ってあった。慈善修道院の奉仕者募集。読み書きができる者を歓迎。寝床と簡素な食事あり。

 私は紙を剥がし、折りたたんで外套の内ポケットに差し込む。

 この街にいたら、私は次第に薄くなってしまう。知っている人も、知っている場所も、私を弾く。ならば、知らない土地で、はじめから私を名づけ直すしかない。


 帰り道の橋の上で、立ち止まる。川面が、夕陽で薄く金色に揺れていた。

 私は欄干に指を置き、指先の白い跡——指輪焼けを見つめる。小さな、か細い証拠。私という連続の最後の糸口。


「たとえ、記憶が消えても」


 声に出してみる。

 風が受け止め、遠くへ運んでしまった。


 夜、屋敷には戻らなかった。宿の安い部屋で、外套を枕に、目を閉じる。暗闇の裏側で、心だけが騒いでいる。

 私は何者だったのか。

 私は今、何者になるのか。


 眠りに落ちる手前で、昨日の巫女の掌の冷たさがよみがえる。

 ——「おめでとうございます」。


 その祝福が、誰に向けられたのかを、私はまだ知らない。

 けれど明日の朝、私は王都を出る。掲示の住所へ。辺境の修道院へ。

 そこで、もう一度、名前を取り戻す。彼の名を、私の名の隣に置けるように。


 薄い夜明けの手前で、私は唇を動かした。

 自分の名を、声に出して呼ぶ。

 レイナ。レイナ・グラナート。

 私が私を忘れないように。

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