だめなことしか、したくなかった
点滴の針を抜いたとき、看護師の声が背中に刺さった。
「だめですよ、○○さん!」
私は急いで病院のスリッパのまま、エレベーターを降り、裏口から抜け出した。
しばらく走っていると道ばたに止まっているタクシーを見つける。迷わず、そのタクシーの窓を叩く。中に居た運転手は、私の顔を見て少しだけ眉をひそめ、「どこまで?」と嫌そうな声色で言った。「祇園まで。できれば、鴨川沿いを通ってください」 と私はそれに強気な口調で答える。運転手はそれ以上は何も聞かずに車を走らせた。
八坂の塔が見えたとき、胸が少しだけ痛んだ。あれは、彼と最後に見た景色だった。 あのとき、私はまだ生きるつもりだった。 鴨川のほとりでタクシーを降り、スリッパのまま石畳を歩いた。川の音が、心臓の鼓動と重なる 。誰かの笑い声が遠くで響く。
私は、そこに混ざれない。たったの五歩歩いただけで、急に胸に鋭い痛みが走る。堪らずベンチに腰を下ろす。 …あぁ整わない。 肺が、もう水の中みたいに重い。 それでも、私は立ち上がる。
最後に行きたい場所があった。 南座。 あの赤い提灯の下で、彼と待ち合わせしたことがあるのだ。 南座の赤い灯が、その先にぼんやりと浮かんでいる。 あの光に向かって、私は一歩ずつ足を運ぶ。
しかし足がもつれて、道路に倒れ込む。誰かの悲鳴。 誰かの足音。 誰かの靴が、私の腕を踏む。 痛い。 逆に、それが生きている証拠みたいで、少しだけ嬉しかった。
ぼやけた視界に、ふと舞妓の姿が目に入った。白塗りの横顔が、ふと彼に似て見えた。違うとわかっていても、胸がざわつく。でも今は、声を出すことすら億劫だった。




