幸せであれ
「どうか、無事で」
「ああ。君も」
ひそやかな恋人たちの会話を聴きながら、私は身を隠している柱に背を預けた。
……私は一体、何をしているのだろう。恋人たちの逢瀬を盗み聴きなどして。
考えれば考えるだけ、惨めさが増す。
彼らは私の幼馴染みだ。二人が互いを想いあっていることなど、それこそ本人たちの自覚するよりも前に知っていた。ずっと、見ていた。
二人とも、呆れてしまう程のお人好しで、そして己に向けられる好意にとことんにぶい。二人の仲を取り持ったのは私だ。
何度も自分の中の悪魔の声に惑わされかけ、自己嫌悪に陥りながら、二人を祝福するふりをして。
私は後悔しているのだろうか。何度自問しても答えは出ない。
彼女は親友だ。本当に幸せになってほしいと願っている。けれど、彼のことを思い浮かべるだけで、どろりと怖気の走るような独占欲が自己主張をしはじめる。想いも伝えずに身を引くなんてと、じくじくと痛むむきだしの、心の傷が訴えかけてくる。
……私は、勝てない勝負などしない主義だから。
心の中で負け惜しみを呟き、私は足音をひそませてそっとその場を後にした。
***
きりりと身の引き締まる寒さの朝方、私は整列した部下たちの前に立っていた。
しがない城勤めの騎士である私だが、部下には恵まれている。女の身で騎士などと生意気な、と言われることも多々ある中、こうしてついてきてくれているのだから。
「そちらの準備は……出来ているみたいだな」
「ああ」
私と同じように部下の点呼を取っていた幼馴染みが、鎧兜を小脇に抱えて歩み寄ってくる。
私は、偶然通りかかった体で昨日の逢瀬をからかおうとして、出来なかった。ひゅ、と喉が不自然な音を立て、思わず押さえる。
「どうした?」
「いや……」
「緊張してるのか?」
私は喉元から手を離して、苦笑いした。
「そう、かもな」
「俺は緊張してない。お前がいるからな」
そういうことを言うのは、やめてほしい。
反射的に跳ねた心臓を恨めしく思いながら、今度はうまく笑えた。
「よせ。相手は悪魔だ、気を抜くなよ」
「それはもちろん」
私の視界の端で、銀色の輝きが見えた。
もうひとりの幼馴染みが所在なさげに立っている。……彼の、見送りに来たのだろう。
「見送りが来てるぞ。少し話して安心させてこい」
「っあ、ああ!そうする、ありがとう!」
私は今、恋人たちを見守る幼馴染みの顔が出来ているだろうか?
嫉妬に狂った醜い顔はしていないか?
自分の頬にそっと触れてみても、まったくわからなかった。
我々の討伐対象たる悪魔は、珍しいことに外で目撃されたそうだ。
野放しの悪魔といえば大抵、召喚主が本か何かで得た知識で、思ったよりも強力な個体の召喚に成功してしまい、制御出来なくなって、それから通報される。
悪魔という禁忌の存在を喚ぶ後ろめたさの現れか、屋敷の中などで召喚が成されることが大半で、我々が駆けつけた時には屋敷内の生き物は全滅していることもざらだ。
「報告いたします!」
隠れることが得意で足の速い部下に、偵察を任せていたら、いくらもしないうちに青い顔で戻ってきた。
「聞こう」
曰く、悪魔は隠れるでもなく佇んでいたらしい。
足元には召喚主とその護衛らしい数名の亡骸が転がっており、悪魔自身は大柄でツノが二対……。
「ツノが二対……大悪魔か?」
「あり得るな。戦力不足かもしれないな……」
「最悪の場合は私かお前が足止めだ。残ったほうが援軍を」
「仕方ない」
私は幼馴染みと短く打ち合わせをし、そして動き出した。
確かに悪魔は、偉そうに腕を組んで待ち構えていた。背後には崖、足場に注意が必要だ。
【待ちかねたぞ。貴様ら全員我が糧としてくれる】
そうしてはじまった戦いは、中々に絶望的だった。せめて無防備になってくれれば剣も通ろうというものだが、さすがに悪魔がそんな愚かしい真似はしない。
死者こそ出ていないが、それも時間の問題に思えた。
その危うい均衡は、唐突に崩れる。
「うっ!?」
悪魔を引きつけていた幼馴染みの剣が折れ、くるくると刃先が宙を舞う。
思わず、といった風に動きを止めた幼馴染みを見下ろして悪魔はにやり、と笑い……。
「ちっ!」
私はとっさに悪魔に飛びかかり、もつれあって崖から落ちた。
援軍を呼べ、という叫びが聴こえていることを祈りつつ。
悪魔との戦いよりも崖から落ちたことで満身創痍の私と、ほぼ無傷の悪魔が対峙する。
幸い崖はさほど高いものではなかったが、それでも鎧を着けていなかったらと思うとぞっとする。
【――貴様、中々我好みの感情を抱えているな?】
不意に悪魔が話しかけてきた。
悪魔と話すような無謀はしたくないのだが、今はとにかく時間を稼がなければならない。
私は目を細めた。
けれど、次の言葉で早くも私は対話を選択したことを後悔する。
【あるだろう?心の底から渇望した願いが】
「黙れ」
私の心の奥底にある、悪魔好みの願いなど、知りたいものではない。
なんとなく予想出来てしまうから、なおさら。
私は動揺を悟られぬよう、表情に気をつけながら剣の柄を握り込んだ。
皮の手袋がぎりりと鳴った。
【いるだろう?邪魔なニンゲンが。我が消してやろう。その手を汚すことなく、だ】
「私の手を汚さず、消す……?」
思わずもれた呟きに、悪魔はにたりと嗤う。
「……。……ふふっ、ふはは!なんと愚かしいこと!」
【――何?】
先程までの緊張が、するすると私の中で消えてゆく。同時に世界が突然明瞭に映るようになった。
なんという喜劇だろう。悪魔の誘惑で気づくことがあるなんて!
私は目尻に涙すら浮かべて、笑った。
ああまったく、駄目な悪魔だ。途中までは中々調子が良かったのに、最後の最後で外すとは。
「ああ、そうとも。感謝しよう、悪魔よ!ようやく目が覚めた。……邪魔者を消す?生憎だが、私の人生においての邪魔者は、すべて私がこの剣で葬ってきた。それは変わらぬ、これからもな」
【貴様……っ】
「さらばだ、甘言の下手な悪魔よ」
それまでの苦戦が嘘のように、不意打ちで振るった私の剣で悪魔は呆気なく砂となり、消えた。
私は傷だらけの体を引きずって移動しようと試みたが、すぐに諦めた。血を流しすぎたし、体中が重たくて仕方がない。
地面に仰向けに倒れ込んだら、青い空があまりにも眩しくて、目がくらんだ。
……忘れていた。私が自分の心を押し殺してまで二人のために動いたのは、幸せになってほしかったからだ。大好きな二人ともに。
「そうだな……帰ったら、二人の婚姻式への招待状の返事を出そう」
忙しさを言い訳に、ずっと触れることすら出来なかったそれ。
きちんと『出席』に印をつけて、もうこのままならない恋心にけりをつけよう。
それで、終わりだ。
晴れ晴れとした気持ちなのに、やはり空が目に痛くて、涙が少しだけ滲んだ。