功治vs柏木 2
功治は足を投げ出してバッターボックスに座っていた。キャッチャーが功治の眼鏡を拾って渡す。三塁上の野村と目が合う。珍しく野村が身を乗り出してこちらを窺っている。
土埃のついた眼鏡をタオルで磨きながらつとめて冷静さを取り戻した。
功治は柏木を見た。陰の向こうで動じない目が一瞬功治の視線と交錯したように思えた。
柏木の五球目は、功治の網膜に迫り来る白球の赤い縫い目と、空の色を刻印するように残していた。
―次の球はアウトローへのスライダー。このバッテリーなら読みどおりで間違いない。
柏木はキャッチャーのサインに首を振って、一度プレートを外した。三塁手が声をかけにマウンドに歩み寄る。それを制してロジンを摘んで一度掌に載せ、滑り止めを馴染ませる。
一塁側のスタンドからは、山郷コールが続いている。
―じらすなよ。そんな小芝居など打つ必要はない。勝負球はスライダーと決まってるだろ。
柏木は再びサインを見て頷いた。左足を心持ち高く上げてワンテンポためを作った。
ホームベースに向かって真っ直ぐボールが進んでくる。真ん中からアウトローに曲がり始めた。
―よし、来た。もらった。
思い切り踏み込んだはずの功治の左足から力が抜けた。腰は砕けるように開き、目いっぱいのばしたバットの先をボールは避けて行った。一塁ベンチにいる選手たちが天を仰ぐように上を向く。坂田は目を瞑った。
スイングの際にバランスを失った功治は、あぐらをかくようにバッターボックスに座り込んでいた。こんな無様な三振をしたのは野球を始めてから初めてだと功治は目を瞑った。
ー終わった……
三塁から駆けて来た野村が、功治の背中についた土を払った。
試合終了のサイレンが鳴る。両チームのナインが握手を交わす。
功治は柏木を探した。
「あのシュート、狙ったのか」
「こっちも必死だ」
功治は肘から下のない左腕を近くで見てみたかった。
「俺も踏み込んだしな」
「上でまた勝負しないか。今度はそっちが本調子の時に」
そう言うと柏木はグローブを持った右手を別れの合図に挙げて、「1」と書かれた細い背を向け、校歌斉唱の列に二、三歩歩き出した。
柏木は急に振り向いて、功治に向けて笑顔を作った。
「君の友達にも、よろしく」
―そうか、今日のお前との勝負はとっくについていたんだな。
―じゃ、いったいいつからついていたんだ?
―分からんな。
清水南の校歌を聴きながら、グラウンドを見回す。決して下は向かない。堪えていた涙が堰を切ったように流れ始めた。やり残したことも、後悔もなにもない。どうして自分の身体から涙が流れるのか功治は不思議だった。
所詮勝負は時の運だ。眼鏡の向こうにある最後の景色を自分の身体に覚えこませておきたいと、胸いっぱいに息を吸い込んだ。潮風と土の匂いが胸に広がる。涙でぼやけた視界を見回す。献血車で出会った男のことを思い出した。まだ自分が踏み入れたことのない世界がこのグラウンドの上にはある。
―今日からまた新しい勝負の始まりなのかな。
「俺は、大学でも野球をやるな。今日の試合でごまかしのきかない本当の野球をしたくなったんだ。だからおまえらも甲子園に行って、それがすんだら俺のいる神宮へ来いよな」
すすり泣く声が聞こえる試合後のロッカールームで、後輩達に告げた言葉を功治は反芻した。一つの季節が終わった。ただそれだけのこと。季節に区切りはあっても、自分の時間は続いていく。果てはきっとある。その果てまで続く時間の中で、無数に繰り返される「今」を燃やしていこう。新たな息吹が自分の中で芽吹いていることを功治は感じた。
あいつはスタンドのどこかで俺と柏木の勝負を見ていたに違いない。きっと校庭に来ているはずだ。功治は毅を探している。
功治は、大学生の先輩が連れて行く打ち上げには顔を出さず、暮れかけの空を一人グラウンドへ自転車を走らせた。




