破局
駅から自転車で三十分程の漁港近くに林立する団地の中に毅の家はあった。防砂林である松林の中を通る細い道を抜けて団地の入り口に来た毅は、駐車場の端に自転車を止めた。住民はすっかり寝静まって、団地は無機質で大きな直方体そのままだった。涼しい海風が波の音を運んできている。
外灯の下にさしかかったとき毅のスマホが鳴った。
「たけしでしょ」
入り口の反対側の奥に人影が確認できる。小さな和美の声が波音の合間を縫うように毅に届いた。和美が走り出す。履き古したローファーの底が、駐車場のアスファルトを叩く音が、毅に和美の記憶を呼び戻す。見慣れた美しいフォームで彼女が近づいてくる。
外灯の光に和美が浮かび上がり、跳ねる度に短い髪が跳ね上がった。息のかかる距離に和美が止まる。髪の毛の一本一本がさらさらと元の位置に戻った。髪の毛を随分と短く切ったようだった。しかし、毅には以前の和美の髪型を思い出すことができなくなっていた。潮風に乗って和美の懐かしいシャンプーの匂いがした。彼女の白いシャツが外灯の白い光を、ぼんやりと蛍のように周囲に弱い光を放つ。
「どうしちゃったの」
和美の顔が一瞬くしゃくしゃに崩れた。こんな顔を見るのは初めてだった。
「・・・・・・」
「こんなに痩せちゃって・・・・・・」
彼女からのラインのメッセージにも電話にも何も応えていない。ここ数日は和美からも音沙汰が無かった。恐らく今夜は自分に会うまで、帰る気は無かったのだろう。
清らかで真っ直ぐな和美に、もう触れることはできない。そう思う一方で、和美をどうにかしたい衝動も毅に湧き上がる。もう、どうしたいのか分からない。得体の知れない衝動は凄まじい力で渦巻きながら、毅自身をその渦の中に引きずり込んでしまいそうだった。毅は一歩、二歩と後ずさりした。和美に背を向けて歩き出した。
「どうして逃げるの?」
後ろから和美が右腕を引っ張る。
「ベンチ入りできなかったくらいで! だらしない! 敵前逃亡よ!」
そう和美が責め立てる。
「俺が紹介する女と寝ろ」古泉の声が聞こえてきた。
背番号配布の翌日だった。最初に学校を休んだ日だった。駅前の病院でつけたばかりのギブスをぼんやりと見つめながら歩く毅は、古泉に声をかけた。
「セックスしろ」
意味をとりかねている毅に、古泉は畳み掛けた。
「はい」と答えた自分の声を毅は思い出した。昨日までの自分の全てを捨てたい。自分の一切と離別したい。そう思っている毅を、古泉は連れ出したのだった。
毅の逡巡を許さない古泉の視線の奥に、微かに甘美な光も混じって見えた。
なぜ、あの時に自分は拒まなかったのだろう。和美への懺悔や後悔が毅の身を焦がす。
「ごめん」
小さな声で、毅は呟いた。
初めて大人の女と寝た日のことが目を閉じた瞼に映し出される。
古泉と連絡している女が現れるまでの一時間、古泉と二人で過ごした。駅前の喫茶店。古泉はアイスコーヒーを、毅はオレンジジュースを頼んだ。少し経って、グラスに汗をかいたジュースを一思いに飲み干す。毅を見て古泉は笑った。この男も笑うのか、そう思いながら、指先でストローの入っていた紙屑が水を吸い込んで伸びるのをぼんやり見ていた。
「こんなはずじゃなかったんだよ。俺だって」
振り返った毅から、今度は和美が後ずさる。毅は右手で和美の腕を掴んだ。ギブスを着けた人差し指が痛んだ。
「痛い! 離して」
毅は遠ざかる和美の背中を、呆然と眺めていた。




