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毅、束の間の悦び

七月十二日


 冷房が利いているはずなのに、頭から足先までが茹ったように熱かった。窓の外を覗く充子がいる。黒髪が白い背中で小さく揺れる。


 古泉の連れてくる女達の中で、充子だけがただ一人、また逢いたいと毅に思わせた。充子は美しい大人の女性なのだろうか。毅はここまで自分が充子に惹かれる訳をただ、知りたかった。充子が美しいからなのだろうか。はたまた他の何かに自分は引きつけられているのだろうか。


 充子のラインのIDが書かれた紙切れをズボンのポケットから見つけたとき、歓喜に恐れが混ざり合ってざわざわと毅の胸に広がった。それはすぐに勢いを増して、大きな流れのようになって身体を揺さぶった。何かが毅の中で呼び覚まされ、毅は溺れる時のように喉で息がつかえるような苦しさ覚えた。揺れ始めた毅の心は、未踏の世界へ開かれた扉に、次第に不安と期待で満たされていくのだった。


 毅は、充子の背中を見て、初めて裸で充子と抱き合ったときのことを思い出している。緊張で全てがぎこちなく何事も満足にこなせなかった自分を、充子は包んだ。頼りない自分を慰めるでも、責めるでもなく、ただ抱いてくれた。その胸で毅は泣いた。毅はなぜ自分が泣けてくるのか分からなかった。その時毅の脳裏に浮かんでいたのは、野球をしている自分だった。自分の全てを懸けている野球で、自分は日の目を見ることがなかった。その思いが硬く閉ざした彼の胸から溢れて出しるのだろうか。思い返せば、いつもボールはグローブを伸ばした先を外野へ抜けてき、思い切り打ったボールは内野手の正面に飛んだ。


もう少し――


もう少し自分に身長があれば、伸ばしたグローブの先にボールは引っかかるように収まっただろう。そしてバットの芯でとらえた打球は内野手の頭を越えていっただろう。


もう少し――


そのもう少しが、自分に足りないがために、自分は駄目なのだ。自分はいつも報われないのだ。充子の胸の中で、毅は自分の不幸のすべてを受け入れることが出来る気がしていた。


 わたしは、あなたの生気をもらって、こうして若くいられるの。充子の言葉が毅を巡る。この人はいったい幾つなんだろう。子供が二人いて、主人は一流企業で何不自由のない暮らしをしている、と。話の一部始終が嘘か本当か分からない。でも、それで良いのだ。それが良いのだ。自分も何も本当のことは言っていない。でも、この人ために自分の何かが役に立つなら決して悪くない。


 自分と逢う前にも、他の男と寝ていた。初めは許しがたかったそんなことも、少しずつどうでもよくなっていく。そのうち自分も忘れるだろう。充子と今を共にできたら。その今を大切にこれからも生きてゆける気がする。


 充子は毅の精をできるだけ封じておいて、最高潮に来たころを見て、吸い取るように、毅を破裂させる。すべてを吸い取られた毅の身体は、伸びきったゴムのように、だらしなく伸びきる。充子は、力の抜けた毅の体に身体を寄せながら、毅の頬や米かみ、耳へと舌を這わせる。充子によって、毅の神経は徐々に、再び、呼び起こされる。充子の体と自分の体が響きあい、あたかも一つの旋律を奏でているようにも感じられる。


 充子は一度生気を抜かれた毅の身体に再び起き上がる何かを注ぐ。そのサイクルを毅の身体は覚えていて、次の動作を待てずに自ら自動的に反応してしまう。考える前に身体が自然に動く。充子に躾けられているようだとも感じる。再び生気を取り戻した毅の体は粟のように汗を出し、幾度となく充子に尽くすのだった。

 

 毅が不意に漏らした声を聞いて、充子は綺麗に装飾された人差し指の爪で、毅をもてあそんだ。力の抜けていた体が鋼の棒のように一瞬硬くなる。吸い取られてしまったばかりの体の芯に、再び灯が点る。吸い取った精と引き換えに、充子が自分に何か別の力を注ぎ込んでいる。その何かが、体の至るところを巡っている。そして、それが自分の深淵にまで届く。充子とは、単にその女性を指すのではなかった。その交わりが自分の細胞一つ一つに新たな息吹を与え、交わるたびに新たな存在として生まれ変われるような気がした。毅は一枚一枚薄皮を脱いで成長していく蛇のように、充子と逢うたびに少しずつ変化している自分を自覚していた。それだけに充子と過ごす時間を絶対に失いたくないと思った。

 

 再び屹立した毅の性器が充子の性器の奥に沈んだ。互いの陰毛が濡れながら擦れあう。充子に覆いかぶさる様に上になって重なる。充子は眉間に皴を寄せ、目を瞑る。無数の擦過傷で性器の表皮をひりひりと痛む。全身の筋肉が熱を帯び、それはじわじわと頭の先から足の先にまで広がっていく。毅が動くたびに汗があえぐ充子の胸に滴る。


 温かく柔らかい土に、熱く硬い杭を打ち込むように、性器を充子に何度も叩き込んだ。その度に、充子は顔を引きつらせて、泣き声に似た声を漏らした。二つの体は、もともと一つだった。そんなことを充子は言う。


「それくらいよく合うの」


「・・・・・・」


「分かっちゃうのよ、いろんなことが」二人で何かを奏でているようだ、と充子は続けた。


 毅は充子がシャワーを浴びている間に、薄い銀色の煙草入れにあった錠剤を、恐る恐るマッチで炙った。毅が自分で嗅ぐよりも先に、その匂いが毅の鼻孔に侵入してきた。酸味の強い、むせるような匂いだった。


「こどもはだめ」


 充子の言葉が鈴のように鳴る。部屋の静けさに毅は沈む。硝子のテーブルの上で、暖色のライトが反射し、窓からの陽の光と交わり、弾き合っている。目の前の壁や頭の上の低い天井が音もなく遠ざかる。毅の視界にある色という色が、毅にその存在を主張しようと働きかけてくる。毅は生まれて初めて世界の鼓動を聞く思いがした。一糸纏わぬ充子が柔らかな絨毯の上を駆けてくる。


「こどもはだめよ」


 充子の言葉は、毅の耳をくすぐるように優しくゆっくりこだましながら聞こえる。

空間は拡がり、時間はゆっくりと流れ出していた。見たことのない光景が毅の前に広がり始めた。


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