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二つの孤独

和美とよく訪れた商店街の中ほどにあるカフェ&ベイカリーのひときわ白く明るい照明を放っていた。毅の目の前で、いつかの自分が急いで自転車を停めて、店の二階に駆け上がっていく。


 毅は一階の店員に挨拶をして二階に上がった。練習を終えたばかりで自転車を漕いだ毅の背中は汗でびしょ濡れになり、シャツがへばりついている。昨日のことのように過ぎ去った和美との時間が蘇える。三〇人ほどで満席になる二階には夜の店で働くらしい数人の女たちが隅の一角で仕事前のひと時を貪っていた。その反対側の窓際のいつもの席に和美は座っていた。彼女は決まって英単語帳を開いて英単語の暗記に勤しんでいるのであるが、その時も窓の上がってきた毅にはまだ気づかず一心に英単語を覚えていた。


「ごめん!」


駆け寄りながら言った毅と顔を上げた和美の目が合った。振り向きざまに勢いで柔らかい数本の髪の毛が口の端に僅かに入り、向き直りながら髪の毛を元に戻した。不意を突かれ一瞬無防備になった和美にいつも毅は揺れた。自分の顔にすぐに赤みが差すのが分かった。


「お先にいただいてまーす」


そう言って彼女は挨拶代わりに笑い、何もなくなった皿を指した。そしてすぐに不機嫌な顔を見せて頬を膨らませた。その頃の毅は一瞬一瞬変化を見せる彼女の表情にいつも翻弄されていた。和美の中で起きた小さな喜怒哀楽の波が空気を伝わって毅の中に入って来て、大きな波となって彼の奥にまで打ち寄せた。しかもその一波一波は毅に打ち寄せた後も余韻として空洞になった胸の中に様々な音を響かせた。


常に自分を翻弄する彼女を、空気の様な存在と形容したり、毅の世界に定かな居場所を与えることはできなかった。籠の中で大人しく囀る小鳥などとは程遠く、毅の中を奔放な限りに飛び回り、時には毅の胸の壁を引き裂いて飛び立って行った。居場所を見つけたかと思うと、すぐに和美はそこから出て行ってしまう。和美は一体自分にとって何なのかと、ことあるごとに考えたが、友人たちが無邪気に戯れる相手を呼ぶように恋人というのも何か的が外れていると思った。とにかく、ただ失いたくないという思いだけが、はっきりと毅のまっさらな胸には残された。


「ホットケーキセット、毅の奢りだからね。いっつも待たせて!」


「わりっ」


そう言って毅は顔の前で右手だけ挙げて拝んだ。


「いつも待つ代わりに、ホットケーキとカフェオレは俺の奢りで食べられてるんだから許してくれよ」


「食べものよりも、早く毅に来て欲しい」


「ミーティングが長引いてさ」


「女の子は待たされるのはいつだって嫌なの」


「おじさん、俺はケーキセットにカフェオレと・・・それと中華丼も、大盛りで」


カウンターの奥で店長の斉藤が了解とばかりに右手を肩の高さまで挙げた。


「ケーキセットに中華丼ってどんな組み合わせなのよ」


そう言って和美は吹き出すように笑った。


「そんな組み合わせを用意している店に言ってくれよ。ここの中華丼は絶品だぜ。コーヒーの香りと中華丼のごま油の香ばしさ、こりゃヤバイよ」


「その感覚絶対おかしいっ」


「確かに、否定はしないけど、でもヤバイよ」


声を合わせて笑っている、こんな恋人同士のありふれた場面がとても当たり前に思えなかった。もの凄い勢いを持った何かが自分の中で息吹いている。その自分の中に渦巻いていた和美に対する喩え難い、畏れにも近い思いや、どこから来るのかも知れない不安が吹っ切れたように消えていった。毅は和美と笑っている自分の心は青空にいくつかの雲の切れ端が浮かんでいる様だと思った。安心して解けた空気は訳も無く彼の中から次の笑いを引き出し、和美もそんな彼を見て笑っていた。視界の隅で店の隅に座っていた女たちが勘定を済ませて出て行くのが見えた。


「ああいう女、俺は嫌いだな」


階段を下りて行く彼女たちの背中を見ながら呟いた。


「どうして?」


「金髪にしてあんな分厚く化粧してさ」


「キレイじゃない?」


「なんか、好き好んであんな仕事するようには思えないだろ。特別な理由があってあんな夜の仕事させられてんだったら本当に可哀想だよな」


「まるでショーワ。今どきそんなこと考えてるの毅くらいだよ。今は女の子の中では人気だよ、キャバ嬢って。わたしも大学生になったらやってみたい!」


「さみしい女が夜の酒場に呑まれていく。あーさみしいさみしい。あいつらは孤独な人間の集まりだー」


口一杯に広がった香ばしい中華丼の香りを湯気と一緒に鼻から吐き出した。毅は中華丼の最後の残りをレンゲで口の中に押し込む。


「あーうめぇ!中華丼とコーヒーとイチゴショート。この協奏曲は無敵なんだ。ご馳走様でした」


毅はカウンターの向こうで珈琲を淹れている斉藤に片手を挙げて聞こえるように言った。


「あっ!知らぬ間に苺食べたのかよ?」


「毅がキャバ嬢に見とれてたときにね」


「全然気づかなかったな。ま、苺一つ無くったって別にいいけど」


和美は舌をペロリと出して見せた。舌に苺の赤い色が少しついている。彼女は最近のチームの調子を訊いた。毅は簡単に和美に話した。今月は大黒柱の功治の調子が悪く相変わらず四番を張っているが打率は一割台に落ち込んでいる。その影響でチームの調子も悪く、格下の相手にも練習試合で負ける。


「本当に甲子園行けるの?」


そう聞かれた毅は急に胃の中から食べたものがせりあがって来た。確かにもう五月も終わろうとしている。七月から始まる甲子園への最後のチャンスまで調整期間は一月しかない。一番の心配を突かれた。その不安はチーム内に漂い、不調に輪をかけていた。


「ここまで来たら行くしかないだろ。今年はまたと無いチャンスなんだ。今年の静岡は例年以上の戦国状態。春の大会で県ベスト8に入ったところにはどこにでもチャンスがある。うちだってチーム力は強豪に負けない。あとはチームの歯車が噛み合うかどうかだよ。春先に柴田が怪我したのが痛かった」


「柴田君ってキャッチャーの?」


「そう。二番手キャッチャーの松川もいいキャッチャーだけど、リードの面では柴田には敵わないんだ。あいつはホントにピッチャーを乗せるのが上手いからな。ピッチャーが打ち込まれる分を功治がカバーしようとしてあいつはプレッシャーで調子を狂わせた。投打ともに柱が不調になっちゃったんだ。先週から柴田が試合に出始めたから何とかチームは持ち直すと思うけどな。いや必ず元に戻るよ」


「功治君って意外と繊細よね」


「繊細も繊細。あのデカイ体からは想像もできないくらいのガラスのハートでさ・・・・・・でもあいつが乗ってるときは誰も止められない。地面につきそうな低目の直球もタイミングさえ合えば左中間の一番深いところにもってっちゃうからな。相手ピッチャーがかわいそうだよ」


 功治が繊細だとは彼の最近の極度の不調を目にするまでチームの誰も感じたことのないことだった。それまではスランプというものとは無縁なほどに彼は打ちに打ちまくっていた。


「すみません! ショートケーキ一つお願いします」


熱くなった毅を冷ますように和美はケーキを注文した。


「気が利くね。それとも、俺の苺食べたのを反省したの?」


「違うの。苺食べたら急にわたしもショートケーキ食べたくなっただけ」


何食わぬ顔をして舌を見せる和美。悪戯に挑むような視線を毅に向ける。この小生意気で透き通るような色白な顔が好きだ。全てが自分を虜にさせておくために計算しつくされている挙動なのかと毅に思えるほど、和美の日常に取込まれていってしまう。大きな和美に消されてしまいそうだ。悦びと恐れが密着するようにして毅の中にあった。


自分の目の前の女は本当に自分の恋人と呼べるのだろうか、そんな不安がまた毅に沸いた。悪魔に心を乗っ取られてしまった人がいると聞いたことがある。それらの人は、初めこんな気持ちだったのではないか。とても魅惑的で、とても危うい匂いを漂わせている誰かに誘われた。気が付いたら彼らにはどうすることもできない魔法がかけられていた。きっとそういう顛末に違いない。


これまでのことは実は嘘であなたと付き合っていたようにしていたのは演技でした、そんな自分に掛けられた魔法を解く台詞がいつ彼女から吐かれるのかと毅は急に不安になった。


「おーい、どしたの?」


「・・・・・・いや、よく食べるな。ホットケーキにショートケーキかよ。女の子には別腹がいくつもありますってか?」


「そういうこと女子に言う? そっちこそ、そんなに小さい体で一日五食も食べてるのはどこの誰かな? 私だって部活の後はいくら食べても足りないの」


「『小さい体して』は一言余計だ」


「すみませんでしたー」


和美はまた舌を出した。二人は運ばれてきた一つのショートケーキを交互に黙って味わった。暮れていく夕日は強いオレンジ色に変わり、次第に弱くなりやがて消えた。代わりに二人を照らすのは暖色の照明になった。食べるものも飲み物も無くなり、一通り互い胸に忍ばせてきたことを話し終えた。少しの間、二人は相手の次の言葉を待っていた。


沈黙に耐え切れなくなった毅はテーブルの端に置かれた砂糖の入れ物をいじり始めた。コーヒーに入れる真っ白な砂糖をスプーンで掬っては戻し、掬っては戻した。数えきれない綺麗な甘い砂がサラサラと流れるように落ちていく。オレンジの柔らかな光が一粒一粒の砂糖に当たる。小さな砂糖一つ一つが思い思いの方向に受けた光を反射する。スプーンから落ちていくほんの僅かな間にその光が踊りながら落ちる。毅は、和美と共に過ごす時間にこれほど相応しい過ごし方は無いのではないかとも思った。和美と自分の間に置かれた砂糖入れの小さな世界で無数の星が戯れていた。不意に訪れた二人だけの小さな空間と時間を手に入れた気がしていた。


「何か、きれいじゃね?」


『きれい』という言葉を発するのが照れくさかったが、その言葉は思ったより楽に毅の口から出て行った。


「そうね」


 和美の声は、その温まった毅の心を温め返すでも冷ますでもなく、そのまま受け取ったような声だった。毅はこの目の前のささやか過ぎる温もりの伝え合いをできる人を恋人と呼んでもいいのではないかと思った。


「きれいだな」


 毅はさっきよりもずっと滑らかにそう言った。毅はその言葉を何かに包んで目の前の「恋人」に届けたいと願った。


「そうね」


 店内は閉店の時間を過ぎたのか、二人のいる席を照らす照明以外は消えていた。もう少し気の利いた言葉一つ出てこないものかと毅は自分を責めた。


「なぜかね・・・・・・」


「なに?」


「なぜか、分からないけど・・・・・・毅とこうしている時、決まってわたし、悲しくなるの」

 和美の言う意味が飲み込めず毅はただ時が過ぎるのに任せるしかなかった。自分は何かいけないことをしてしまったのだろうか。ぼんやりとした、まだ痛みにならない感覚が、温まった胸を冷まし始めた。


「本当にごめんね。こんなこと言っちゃって・・・・・・」


「いや、別に」


毅は真っ直ぐ自分を見る和美の目から何かを読み取ろうと懸命に彼女の目を見た。


「ねえ、毅」

「なに?」

「聞いてくれる?」

「お、おう聞くよ」

「毅ならわたしの言うこと分かってくれると思うから・・・・・・このきれいなお砂糖。でも、この小さな綺麗なお砂糖、毅に見えているものとわたしに見えているもの、同じものだとは思えないの」


「・・・・・・」


「それは、この一かけら一かけらのお砂糖はこの世に一つしかないものよ」


そういうと和美は毅からスプーンを取り、自分で何回か掬って零した。


「なんて言えばいいんだろう」

和美はそう言い淀んだ。

「続けてくれよ」

「このコップだってそう。この世に一つしかないものでしょ? でも毅の目とわたしの目に同じようには映らないの」


眉間に皴を寄せて懸命に和美の言葉を残さず聞き取ろうとしている毅に、壊れやすいものを二人の間に一つずつ置いていく様に和美は話しをすすめた。毅は机の上の木目をじっと見て和美の言葉に聞き入った。


「このコップの色だって、お砂糖の白い色だって誰一人わたしと同じように見えている人はいないはず」


和美は砂糖から見る先を窓の外の下を歩く人々に向けた。


「例えばね、下を歩く人たちは、毅にはどう見える?」


颯太は急に自分に向けられた意図の量りかねる質問にしばしぽかんとして


「どう見えるっつっても、みんな急いでるなって」

「本当にそれだけ?」

「ま、そうだな・・・・・・みんな自分勝手に適当に歩いてさ、自転車で通る時邪魔なんだよ。特におばちゃんはさ。おしゃべりさせて歩いたら最強。あの迫力にはチリンチリンも鳴らせないよ」

「やっぱりね・・・・・・わたしには全く違って見えるもん」


和美は穏やかに続けた。


「同じものを見聞きしていても、毅とわたしは別のものを見て、聞いているのよ」

「それは見た感想が違うってことじゃないのか」

「違うの」

「違うの?」

「いいから聞いて。見えるもの、聞こえる音、感じる温度、空気の匂い、みんな一人ひとり違うものを感じているの。その感じ取ってきたものをもとにして、自分で自分の中に自分だけの世界を作り上げてる。その一人で作った自分だけの世界の中で生きてるの。わたし達、それぞれ違う世界にいるのよ。それだから感じることも違ってくるの。毅はわたしの一番好きな時間ってどんな時だか知ってる?」


「急にそんなこと聞かれてもな・・・・・・」


毅は和美の顔を改めて見つめたが答えと言えるものが何か沸いてくるでもなかった。


「グランド走っている時?」


校庭を走る和美が浮かんだがあの辛そうな顔から好きな時間ということを連想するのは少し無理があるとも思った。


「はずれ」


「じゃあいつ?」


自分と一緒にいる時だという答えを期待しながら毅はそう言った。


「波の音を聞いているときよ」


「毅の一番好きな時、当ててあげようか?」


「野球してる時でしょ? 試合には出られないから、あくまで野球の練習だけどね」


相変わらず穏やかな顔で柔らかく語りかける恋人に毅は無表情に答えた。


「正解」


「本当ははずれでしょ?」


「正解」


和美は笑った。毅は笑わなかった。


「孤独だっていう和美の言い分は分かったよ。でも俺はそんなこと納得しない。まあ仮にそうだとしても、それが大切なこととは思わないよ。そんなこと何の役にも立たないじゃないか。人間みんな一人だとか、孤独だとか、そういうことがなんで一番っていうくらい大切なんだ? そのことを知って俺が明日から何か偉くなれるのか? 何かができるようにでもなるのか?」


一息でそう言い終わって毅は二人の間に置いてあった水を一気に飲み干した。生ぬるくなった水は、乾いた毅の体の隅々にまで広がっていかずに、喉のすぐ下で留まっている感じがした。


「よく聞いて。大切かどうかと、役に立つかどうかは関係ないの」


「じゃあ、聞くけど、大切なことってどんなこと?」


「それは本当のことよ。嘘じゃない、真実だけが大切なことなの。その本当のことを受け入れることで人は幸せになれるのよ。幸せになるためには、その真実を見つけることがまず先なの」


毅はまた机の木目に見入った。ずっと形を変えずにそこに刻まれている木目がどうも気になった。


「和美が言うように、みんな違う世界にいるんだったら、その別々の世界の中でもまた本当のことが違うってこともありうることじゃないか? そして、また幸せも違うんじゃないのか? 本当のことを知らない幸せもあろんじゃないのか? 世の中には知らないほうがいいことってのもあるって言うし」


「それは、真実を受け入れられない人がそういうこと言うの」


店の柱時計が鳴った。誰もいない二階の部屋に響いているつもより大きなその音は、毅の耳から体に入って胸で響いた音が和美の胸でも同じように響いていることを願った。


「真実を受け入れられない人がそう言うの」

柱時計の鐘の音とともに和美の言葉がいつまでも二階で響いていた。

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