功治、新しい夢との出会い
六月三〇日
噴き出す汗を拭うのを功治は諦めた。ダブルヘッダーの二試合目を完投した功治は、珍しく全身に疲れを覚えて荷物を肩に担いで改札を出た。改札口を出て駐輪場に向う道に、強い陽光を周囲に目映く散らした大型の白い車輌が見えた。
不意に涼しく薄暗い車内が恋しくなった功治は、バックのポケットから取り出した財布から献血カードを出した。そこには三月十日と記されていた。最後に行ってから三ヶ月は経っていた。早く中に入りたくて、早足になって受付のテントの日陰へ急いだ。
日曜の繁華街、歩行者天国の端に構えられた献血用のバスは空っぽだった。カーテンで外からの陽が遮られ、冷房が効いた車内は薄緑色の弱い光に照らされていた。
「まぁ、何て刺しやすい腕と血管」
差し出された左腕を見て、若い看護師は嬉しそうに言った。
「よくそう言われない?」
「はい。よく言われます」
看護師は、功治の肘に浮き出た青く太い血管を人差し指で触れた。
「たとえ血管でも褒められるのは悪い気はしませんよ」
看護師は声なく笑った。
入口の扉が開く音がして外の騒音が飛び込んできた。それを追うように熱風も吹き込む。ビジネスマン風の男が一人、硬い靴音を立ててステップを上がってきた。歩行者天国では、ブラスバンド演奏が始まったらしくそれらしい音が束の間聞こえたが、功治にはそれはどんな楽器が奏でる音なのか、何の曲なのかも分からなかった。すぐに喧騒は失せて、再び訪れた静寂の中で、看護師はまた話し始めた。
「高校生なのにえらいね」
「いえ」
「良い血ねー。君だったらもう、四〇〇もらっちゃっても絶対大丈夫そうだけど、まだ十七歳だもんね。十八歳になったら、四〇〇」
「大丈夫だよ!」
苛立ちの込められた怒鳴り声を、功治は入り口の方から聞いた。男は午後四時になるこの時まで朝から何も食べていないらしく、その状態で献血をすることを、他の看護師に咎められている。
「いつも食事は夕方と深夜にとっているんです。それでいつも何も問題ない。血液が不足してるのに、誰も献血しに来ないじゃないですか。足りてないなら、とっとと取って病院に持っていけばいい」
そう捲くし立てる男に、ベテランの看護師はバスに用意してあるジュースとビスケットを食べてから献血をするようにと釘を刺した。
男はさっきまでの剣幕が嘘のように、意外なくらい静かに分かりましたと言って功治が横たわるシートの横の椅子に座った。男が渡されたものを食べ始めた。車内の音といえる音は、彼の歯がビスケットを噛み砕き、ジュースとともに強引に胃へ流し込む音と、それと功治の心臓の打つ音だけだった。眩しく賑やかな外から切り離されたように隔離されたバスの中は、功治にいつもとは違う世界を思わせた。
窓から入る眩しい外光に、本数を減らされた蛍光灯は、逆に車内の暗さを強調するだけだった。功治は血を抜かれながら黙ってしばらく天井を見ていたが、不意に顔を横に向けると窓から受付のテントが目に入った。そこを訪ねる人はおらず、暇をもてあました職員がテントの陰で談笑していた。
「きみ、どこかで見たことがあると思ったけど、高岡で野球やってるのか?」
看護師の献血が終わったことを告げる言葉と同時に掛けられた男からの予期せぬ声に、すぐさま反応することができず、功治は次に彼から出てくる言葉を待つしかなかった。
「中学はどこの中学だった?」
人違いだとすぐに分かった。
「自分は神奈川の三浦半島の中学でした」
「あー、そうか。ごめんな。それなら人違いだな。いやーそれにしてもよく似てる奴を知っててさ」
功治は彼の静かな車内に通る声に、ただ相槌だけを打った。
「俺が十年前にそこの中学校でさ、ほら、駅からちょっと行ったとこにある栄中学って知ってる? そこで教育実習に行った時に教えたやつに君が瓜二つでさ」
「十年前ってことは、その人はもう大学を卒業してる歳じゃないですか」
看護師が功治の左肘の処置を終えた。
「確かにそうだな」
そう言って、男は擦れた声で笑った。余計な肉のない顔はしわくしゃになった。
功治が体を起こすと、男が横になった。体にも無駄な肉はなく、半袖のワイシャツから出ている褐色の腕に功治は木の枝を思い起こした。
「きみは、いい体してるな。ピッチャーか?」
「投げることもありますけど、基本は野手です」
「東京の大学でも充分勝負できるぞ」
「体だけですよ。最近の打率は一割台で」
功治は眼鏡を中指でずり上げた。
「肉刺のでき方がいい。腰周りの肉付きがいい。体のバランス感覚がいい。とどめは、目がいい」
度の強い眼鏡をかけている功治は、目がいいという意味が視力の良さを指しているのではないということは理解した。
「高校生なのに献血なんて、二十歳にならないとできないんじゃなかった?」
「いえ、十六からできます。ただし二〇〇mlしか」
「『結局、ぼくみたいなまだ高校も卒業していない者が本当に人の役に立てるなんて献血くらいしかないって』彼、そんな大人びたことを言うんです」看護師が頼もしげに功治の背中に視線をやる。
「募金だって、募金するお金はみんな親からの小遣いとか、親戚からもらったお年玉だったりしますし。でも、何も持っていない代わりに体は元気ですし、できる社会貢献なんてこれくらいですから」
左頬のニキビがむず痒くて早く掻きたかったが、男の視線が気になって功治はそれを我慢していた。
「俺が終わるまで、待ってな」
そう言って男は黙って視線を真上に向け目を閉じた。
幼い頃父に連れられて、よく献血に付き合わされた。父が横になって血を献上しているときに、息子は大人しく横で座って待っていた。功治は静かに待つということが、自分の務めであるかのように感じ、できるだけ静かに息をこらして父の献血が終わるのを待っていたのだった。功治は半透明の袋に男の血が溜まっていく様子を見ていたが、なかなかいっぱいにならなかった。父は身体も心も大きくて頑丈な男だった。針の刺さった太い腕、シートに収まらない肢体。重なるはずのない父の残像を男に重ねてしまった。
「見つめる鍋は煮えねえよ。何だったら外で待ってな」
「いえ、涼しいんでここで待ってます」
功治はついさっき渡されたブルーベリーが練りこまれたビスケットを食べながら、不思議な大人との交わりをすっかり疲労感の退いた体は歓迎しているようだった。
「大学時代に、リーグを代表するバッターがチームにいてさ。そいつはきみより背は低かったが、雰囲気は良く似てるなあ。サウスポーの高めのクロスファイアをレフトスタンドに軽々もっていくんだ。惚れ惚れするぜ。放り投げられたバットがくるくる廻ってなあ」
「いいっすね~」
功は左投手が投げたインコース高目の球を想像し、上半身だけでバットを振りく格好をした。白球がどんどん小さくなって青い空に吸い込まれていく。
「大学は木製バットだから。金属では分からない面白みがある」
「はあ」
「軟球と硬球の違いをきみはどう説明する?」
「そうですねぇ。まるで別の球技みたいです」
「そうだろう」
男は注文どおりの球が来たかのように満足げに笑った。
「木製バットと金属バットの違いもそんな感じですか」
「どうかな、それはきみが自分で確かめるのが一番。俺が言えるのは、誤魔化しが効かない野球になるってこと」
外では相変わらず大勢の人が余暇を目いっぱい楽しんでいた。随分と長い時間を献血バスの中で過ごした気がしていたが、たった十五分が経過しただけだった。
功治は男に言われたように献血バスの裏に廻ってバットを振った。腕組みをして見ていた男は、スイングの際に膝が硬いことを指摘した。
「膝が上手く使えるようになれば、もっと打てる球が増える。特に低めの球。誤って手を出したボールでもヒットゾーンに運べるようになる。それ以上は実際に球を打ち返すとこを見てみないとわかんねえな。もっとバットを振り込めばスイングはまだ速くなるな。バットを速く振ろうと思ったらウェートトレーニングじゃねえ、とにかくティーバッティングと素振りだ」
功治は礼を言って、自転車の置いてあるパチンコ屋の前に向った。
目がいい。男の言った言葉が功治の胸で響いた。初めて逢ったその痩せた男の言葉は、野球と宇宙だけを追いかけて来た功治への応援歌のように高らかに真夏の空に響き渡った。
再び噴出してきた汗など気にも留めず、功治は大股で歩きだした。




