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背番号配布

六月二一日


 昨日まで夕焼けに染まる空の下でされるグラウンドの土を均す作業が、今日は青空の下でされている。何よりその空の色の違いが、今日がその他の三六四日と違うことを示していることを、そこにいる全ての部員が理解していた。


 練習は早く切り上げられ、グラウンド整備が下級生を中心に進んでいる。手持ち無沙汰になって、ベンチで談笑する部員たちの喧騒から逃れるように、毅はピッチャーの投球練習のためのブルペンの隅で一人バットを持って素振りをしていた。


 ここ数日の毅の調子は悪くなかった。先週日曜の練習試合もミスなく無難に切り抜けた。今日の朝のバッティング練習も何度もいい当たりを飛ばした。


 ダイアモンドに目を向けると、下級生に混じってキャプテンの野村だけは、自分の守るショートの守備位置に落ちている小石を拾っている。頭を低くして異物が土に混入していないか注視し、邪魔物を見つけると三塁側のファウルグラウンドに放り投げる。それがすむと、熱心にレイキで土を掻いている。土に出来たほんの小さな溝も、土の固まりも見逃さない構えだ。普段の練習からイレギュラーバウンドを嫌う潔癖症の彼だけはいつもと変わらぬ表情でグラウンドとも格闘しているようだ。


 先の練習試合で初めて体験した奇妙な内野手の密談は、野村の発案だった。どんな場面でも動じない飄々とした表情と、神経質な自己管理は同じ人物の側面とは思えなかった。グラウンドから目を部室棟に向けると、一階の野球部の部室の前で、功治が一人スパイクの手入れをしている。


 周りのことから目を背けるために、毅はバットを振った。いつもより重く感じるのはなぜだろう。そう思いながら休まずバットを振るのは、必要のない雑念から自分を解き放ちたかったからだった。


「あがり!」


一度体育教官室に戻った監督の坂田が教官室から出てきたのを見て、野村がグランド整備をしている下級生に終了の号令をかけた。


 バットを倉庫に片付けてグランドへ出ると坂田が背番号を右手に抱えてグラウンドに一礼して入ってきたところだった。いよいよだと毅の身体が反応した。指先が冷たくなり、血液が瞬く間に足元に沈殿してスパイクが重たくなった。毅は時間の流れを止めたくなった。ベンチに腰かけた坂田の前に部員全員が半円を描いて体育すわりをする。


坂田がこれから夏の大会の背番号を配布することを短く伝える。

エース番号である一番から順に背番号が渡されていく。


「一番芝川」


 正方形の布地に太い黒字が一つ。一桁の数字がレギュラーの勲章。


「二番柴田」


 選手達はここ一番の声で返事をして、賞状をもらうように、背番号を手にしていく。



次第に早まる鼓動と、すでに収まりどころを失くした緊張とを毅は両手で抱きすくめるようにして座っていた。慄きが、今までにない強い力で、彼の全身を掴んでいく。時が流れるのが怖かった。暮れかけてからの夏の夕闇は、思いのほか早くグラウンドを包んでいる。選手が一人呼ばれるごとに、夕焼けの色は深まっていくようだった。


 夏の甲子園の地方予選のベンチ入りは二〇人。十五人目までは毅にも予想がつく。自分が入るとすれば、最後の五人の内の一人だ。

十五番を越えると毅の頭には、さまざまなことが次々と浮かび、思考の焦点が定まらなくなった。今日の練習のこと、去年の夏の地方大会の予選のこと、今年もスタンドで応援するであろう和美のこと、功治と会った古泉のこと、功治と入った夜の牛丼屋で見た醜い人々、今、過去、未来、それらのすべてが混然となって凄まじいスピードで毅の目の前を通り過ぎていったかと思うと、また訪れる。気がつくとまだ、十八番目の選手が呼ばれただけだった。


耐えられず、毅は立てた膝と膝の間に頭を沈めた。目の前の土に指で触れてみた。冷たい土が、そこにはあった。火照った掌を置いた。毅の中で暴れる熱を、なだめるように鎮めてくれるようにそこにあった。


―この土はいつからここにこうしてあったのだろうか。

―この土は幾人の球児に踏まれてきたのだろう。

―この土はいつまでここに留まっているのだろうか。

 いつか功治に聞かされた宇宙の話を思い出した。

「地球は元々宇宙に散らばる塵やガスが集まったものらしい」

 その塵やガスがどのくらいの時間をかけてここに土としてあるのか。途方もない時間の経過があったに違いない。その長い時間の中では、自分が背番号をもらい、ベンチに入るかどうかを考え込んで座っているこの時間や、これから始まる地方大会、甲子園での戦いなどはほんの一瞬でしかない。


そんな一瞬の中で、自分は悪戦苦闘し、抱えきれない葛藤に打ち砕かれそうになっている。しかも、ベンチ入りしようがしまいが、チーム力にほとんど影響を及ぼさない自分の存在は何なのだろうか。その虚しい自分の野球人生は、ベンチにすら入れないとしたら野球に懸けてきた高校生活は水の泡だ。何もないと同じだ。もし、だめなら自分はどうやって立ち直れと言うのだろう。そもそもこの体で甲子園を狙うチームで野球がしたいなんて考えたことが失敗の始まりだった。


消え入りそうな自分を奮い立たすように毅は掌で黒い土の表層をならし、20という数字をその土に指で書いた。

20

20

20

そして、言えるだけたくさんの20を毅は胸の中で呟いた。チームとしての勝負どころは、これからやってくる公式戦だが、自分の勝敗はもうすぐに決まる。仮に自分がベンチ入りしたところで、自分の出番はない。しかし、スタンドからチームを応援するのと、自分もそのチームの一員としてグラウンドで声を枯らすのとは違いすぎるほど違う。一度もベンチ入りしたことがない毅は、まだ本当のグラウンドの中を知らない。本番はいつもグラウンドの外からしかグラウンドを見たことがないのだ。


19番目に呼ばれたのは同じ3年の矢吹だった。矢吹は3塁手だが、器用な選手で内野はどこでもこなせた。2塁手は紺野、兵藤、そして万一の時には矢吹が。矢吹が後方から立ち上がり、小走りで走り出す。スパイクの土に刺さる音が何故かうるさいくらいに大きく響く。

安堵の表情で矢吹が戻ってくる。


ざくりざくり、大きく、不意にはっきりとゆっくりスパイクの音がと毅に迫ってくる。今まで聞こえていた自分の鼓動が遠のき、潮が引くように血の気が引いていくのが分かる。


鳴いていた蝉も静まった。


―次に呼ばれなければ、自分の夏が終わる。―自分の全てが終わる。

黒い土の上に、幼い頃にブラウン管に映し出された球児たちの行進が、眩く蘇えった。聖地の歓声が耳元で聞こえた。幼い頃に想い描いた自分を、自分はまだ越えていないのだ。その思いが胸に痛く響いた。今日も紺野たちが追いついた球を自分は取ることができなかった。抑えていた彼らへの羨望が突如として湧き起こり、息苦しく胸の奥で渦巻いている。  

土の上に、強く、20を書いた。


 20番目に誰が呼ばれたかは判らなかった。  

自分と違う名前が呼ばれた瞬間に、自分の体から何かが沈黙のうちに抜けていった。


今、書いたばかりの20の上に×を書いた。右手の人指し指に力をこめてもう一度×を書いた。指が乾いた音を立ててぎこちなく曲がった。




 「七番山浦」

一年生から同じ番号を手渡されていた功治ですら自分が呼ばれた時には、返事の声が震えていた。錆びたブリキの玩具のように強張った体に力を込めて立ち上がり、歩いていく自分の足もいつもとは少し具合が違っていた。手渡された背番号を見る。

「自分がやらなければ」題目のように何百回と唱えた言葉がまた湧いた。

自分の番が終わった後も功治は神妙な心持ちでその後を見守った。

 毅の名が呼ばれることはなかった。

 斜め前に座っている毅の背中を見やる。いつになく小さく、今にも夕闇に消されてしまいそうだった。彼は頭を膝の間に静め、小さく丸まっていた。

 背番号の配布の後の坂田の話は功治の心を打った。チーム内の競争が強い戦闘集団を作る。今日背番号を貰えなかった選手もまた、チーム力向上に一役も二役も買ったのだ。明日からはまた、レギュラーも補欠も、集大成の夏の大会優勝へ向けて気持ちを一つに頑張っていこう。そんな話がされる間も、毅の背中はずっと丸まって頭は沈めたままだった。野村の起立の声に、遅れて弱々しく立ち上がった毅を功治は視界の隅に確かめた。



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