毅の躍動、しかし……
七回のピンチを切り抜けた芝川は、八回を三者凡退で切り抜けた。八回裏にもヒット二本を連ねてツーアウト二塁三塁とし、ヒット一本出れば逆転というチャンスを作った高岡に試合の流れが来ているようだった。
九回裏ワンアウトから一番野村が、右中間を破る三塁打で出塁した。
毅に打順が回ってきた。
ここでは、二つのサインが出る可能性がある。
一つはスクイズバント。
投手が投げると同時に野村がホームに走り出し、毅はどんな球が来てもバントでボールを転がす。内野手がそのボールを取りにいく間に野村がホームを落とし入れる。
二つ目はヒッティング。
毅と投手の勝負だ。九九パーセントの確率でスクイズだと毅は考えた。しかしサインは状況に応じて変わる。投手が一球投げるごとに変わるし、牽制球が入るだけでも変わることがある。ボクシングの選手が最初から勝負を決するアッパーやストレートを打たないのと同じように、こういう場面互いのベンチも初球から思い切った動きを起こすことは少ない。相手の出方を見ながら、自らの目論見が企てとして成功しやすい状況を引き寄せてからカードを切るのである。
バッテリーも同点のランナーを気にしすぎて、毅をフォアボールで出すことにはしたくはない。それは逆転のランナーを出すことになるからだ。スクイズを警戒するあまり、ボールが先行するのも避けたいのである。そうなると攻撃側の高岡ベンチとバッテリーの心理戦は、完全に高岡側が有利に進む。
そう考えて、左バッターボックスから毅はベンチのサインを見る。監督の坂田が初球に出したサインは「待て」だった。
ー初球は見逃せ。
毅は顎を引く程度に頷いた。内野は定位置よりも前を守る前進守備。絶対に一点を取られたくない時にとる守備位置だ。最終回、俊足の同点のランナーを還したくない。この守備位置は定石通りだと言える。前進守備は野手の正面に打てば三塁ランナーは生還できないが、逆に少しそれれば外野に打球は抜けていく。当たりの悪いボテボテのゴロならば野村の走力と内野手の守備力との勝負になるが、よほどの好守を見せない限り、野村が勝つだろう。もちろん外野フライでも野村は生還できる。最悪なのは、毅が三振するか内野フライをあげること。バッテリーも控えの毅に本来の二番バッターの打力があるとは考えないだろう。毅の打力をバッテリーがどう見積もるかということも勝負のあやとなる。
大抵勝負の山場は、選手同士の力関係を中心に、両チームの様々要因がいくつも絡み合って展開する。いくら控えのバッターと言えど軽率な投球はしまいとピッチャーはマウンドでの動作が少し固くなっていた。それを自覚してかピッチャーは、一つ三塁に牽制球を送った。走者を刺す気のないただ自分の間合いを確かめるような牽制球だった。三塁手からの返球を受けた後で両肩から力を抜く動作をし、プレートをスパイクの刃で撫でている。毅はその束の間に、ベンチの功治が右手拳を握って小さく振ったのを確認した。
ー初球は必ず甘い球が来る。
功治からのメッセージだった。
―しかし、ベンチからのサインは「待て」のはずだ。
迷いを抱きながら、毅はピッチャーが投球モーションに入るのを見ている。力のないストレートが真ん中やや高めに入って来る。
毅の体は考えるより先に動いていた。上手くバットを上から被せるようにボールを叩いた。投げ終えてまだ体勢を整えきれないピッチャーの右肩の上を抜けていく打球の軌道を毅は二歩三歩と一塁ベースへ駆け出しながら見ていた。スローモーションのように自分の打ったボールがセカンドベースの真上を抜けていくのがはっきりと見えている。三塁走者の野村は悠々とホームインするだろう。
絵に描いたような完璧なセンター返しだと思った次の瞬間にはもう毅は一塁ベースを回り、センターが打球を一瞬ハンブルした隙を突いて二塁ベースに頭から滑り込んでいた。
両足で二塁ベースに立ち、盛り上がる三塁側のベンチを眺めながら、口の中にたくさん吸い込んでしまった土を噛んだ。あっという間の出来事だった。目の覚めるようなヒットを打った感触を右手左手の両掌に探したがその微かな余韻すら覚えていない。
三番村上がデッドボールで歩き、不調にあえいでいる四番の功治が2―0からの三球目を狙い澄ましたようにレフトへホームランを放ち、六―四で高岡のサヨナラ勝ちだった。球威の落ちてきたピッチャーを毅の初球攻撃が追い詰め、功治が止めを刺した、胸のすくような試合だった。
試合が終わるといつものようにベンチ前に集合しすぐにミーティングが始まった。
「最終回の山浦。あれはだめだ。単なる結果オーライだ。あれじゃ野球は勝てん。山浦だけじゃなくて他のもよく聞いとけ。野球の一球は自分の一球とは違う。チームの一球だ。自分が打ちたい球が来てもチームのために我慢しなきゃならん時もある。それが野球だ。野球は可能性のスポーツだ。局面局面でより成功する可能性の高い選択を積み重ねていく。その先に勝利があるんだ。いいか! その可能性を判断するのは監督の俺だ。俺が勝負の責任をとる。その俺の意図を正確に汲んで選手のお前らが動かなかったら勝てる試合も勝てない。ピッチャーと山浦の力関係、山浦の打率の低さを考えればあの場面は絶対スクイズだ。スクイズがしやすいカウントまで持っていくのも勝負の内だ。それで、そのスクイズを確実に決めるのもバッターの仕事だ。山浦は四番じゃない。レギュラーでもない。たまたま出た試合で、図に乗るのもいい加減にしろ。チームの歯車になる気がないやつはつかいものにならん」
練習試合後、珍しく監督からジュースの差し入れがあった。それを見ると、監督としても今日の勝利に勝ちを観たのだろうと、功治は帰りの電車の中でようやく腰を下ろせた安堵感から欠伸交じりに毅に笑顔で今日のことを詫びた。
「悪かったな」
「いや、いいんだ。一試合目でヒットを打てただけでも自信になったよ」
「監督さんはああ言ってたけど、試合で結果を出したことにはかわりないと思うけどな」
「まあな」
「目の覚めるようなクリーンヒットだったな。俺もお前の作った流れに乗せられて一発かませたからな」
忘れていた感覚が一気に蘇えったと、功治はいつも以上に饒舌だった。
「まあいいよ、すんだことだ。俺も打ちたかったから打ったまでだ。それよりさ、下人って許されるかって話してた。マウンドで」
「ピンチのマウンドでようやるな。やつらも」
「お前はどう思うよ」
「さあな、お前の彼女だったら絶対に許さないだろうな」
「たしかに」
「自分が生きていくためには、許されるって言い分もおれにはわかるけどな」
「たしかに」
「生き方に上等と下等があるか。生き方についての問題かもな」
「安い物にばかり飛びついて、安ものに成り果てていくなってのがお前の持論だろ」
「でもさ、あの下人の生き方ってのは、必ずしも安くなかったって気もするな」
「そっか?」
「門の上で、盗みをしているばあさんを発見して、何かが燃え始めたんじゃねえのかな。っていうか、自分の中に隠れていた何かを見つけてしまったってことかな」
「別に下人は楽な生き方を選んだわけでもないと」
「そうな。自分らしい生き方ってもんが分かった・・・・・・そんな読み方もできるんじゃねえ?」
自分らしい生き方。その功治の言葉に、毅は、知らぬ間に古泉の後姿を思い描いている自分に気がついた。




