毅と和美、功治と宇宙
和美が自分を置いてどこかへ行ってしまう、そんな彼女の後姿を、毅は思い浮かべてしまうことがあった。付き合いが始まった時、和美に一方的に想いを告げられ、毅は気の利いた文句一つ吐けずに、黙って首を縦に小さく振った。2年になったばかりの4月の2週目の月曜日だけが、少しずつ毅の内側に彩り鮮やかに塗り替えられていく。入部したばかりの1年生達に、グランド整備を教えている時だった。
聞き覚えのある声に、毅は体育館の裏に呼ばれた。同じ中学出身の赤星佐智子が体育館の前にある水飲み場の横から手を振っているのが見えた。毅が招きに応じて佐智子の方に歩いていくと、水飲み場の影からちらりと少女が顔を出した。その時の興奮を、毅の全身がいつでも思い出すことができた。佐智子は和美の親友だったのだ。佐智子の毅を茶化すように笑う悪戯な子供のような目から、毅はすぐにそれを知った。
あの竹内和美が自分を求めている――。
腿や膝から力が抜け、次に心臓の打つ音が、ドン、ドンと鳴り、ビュンッビュンと頭に響く。その高鳴りに合わせて目の前の景色が微かに白く明るくなる。嬉しいことのはずなのに、その場から逃げ出したくなる心持ちだった。雲のように柔らかい和美へと続くアスファルトを歩いた。
毅がグランドを走る和美を見ていたのは入学当初からだった。竹内和美は入学式の直後から全校に知れ渡った才女だった。和美は二、三年生との対面式で式辞を読んだのだ。入試の成績がトップだった野球部の坂巻が読んだのは入学式で中学の教師が入れ知恵して書いたであろう抑揚のない無難な挨拶文だった。
名前を呼ばれた坊主頭の坂巻は、顔を赤らめ、緊張を隠すようにわざと気だるそうに腰下で履いたズボンを引きずりながら壇上に上がった。子供が言い訳をするような調子で、式辞文を棒読みした。
その後の上級生と新入生の対面式で、式辞を読み上げたのが次点の和美だ。体育館で在校生と新入生が向き合う狭間に立ち、和美は全校生徒の視線を一身に引き受けながら、緊張した気色を微塵も見せず、背筋の伸びた姿勢で堂々と中央に歩み出た。メモなど持ち出す気配もなく、前を見てマイクの向こうにいる先輩たちを真っ直ぐに見て、自分で考えたことがありありと伝わる挨拶をした。
「-ー私たちは、決して名門高岡高校に入学したという名誉に甘んじることなく、日々学び、自分たちの可能性を探求していくことをやめません。仮に私たちが日常の喧騒や誘惑に流され、妥協している姿があれば、どうか先輩方は叱咤し、激励を以って私たちに向き合ってください」
そこで和美が最後に述べた言葉を毅は忘れられない。挨拶というよりは、高校生活への決意表明のような力の漲る一連の言葉たちは新入生全員の浮かれた気分に容赦なく鞭を打った。
体育館のギャラリーから注ぐ春の陽射しに暖められた体育館の空気が、見る見るうちに引き締まっていく様を毅は目撃した。
全校生徒の前で大役を果たした彼女は、その入学初日にして目映い容姿と物おじしない凛々しさから注目を浴びるようになったのだった。半年後の秋の文化祭では、順当にミス高岡高候補に選ばれ、先輩から声を掛けられている姿を毅もあちこちで見かけた。
しかし、和美はその誘いをひらりと舞うようにかわし、誰とも付き合い始める様子は無かった。
背丈は毅よりも高い一六七㎝。毅はミスコンのプロフィールでそのことを知った。毅の身長は一六〇㎝から伸びていなかった。
気高く上を向く鼻が引き立てる横顔。伸びた背筋。腰から真っ直ぐ大地に伸びた長く白い脚。許されるならば永遠に見ていることができるほど美しく映る彼女を、毅は入学から一年間追いかけていた。
陸上部に入部した彼女は、その競技の中でも最も過酷と言われる400mを専門としていた。高岡高の運動部は全国大会常連のサッカー部以外はグランドを共にしている。野球部やハンドボール部、陸上部とは同じグランドで練習をしているのだ。
春夏秋冬、どんな時も彼女は爽やかな風を身にまとって毅の前を通り過ぎていった。陸上トラックの三つ目のコーナーが、毅の守るセカンドのすぐ前を通っていた。ノックの最中も、陸上部の生徒たちがそこに走りこんでくる。毅は待機しながら、右側から集団の先頭を走ってくる和美を観察した。
どんな顔をしてどんな腕の振りをしているのか。何度も何度も観た走りを、飽きずに今日も明日もまた観る。何度繰り返し観ても、すぐにまた観たくなる。遠くから徐々に近づく土を蹴る陸上スパイクの音は、季節やグランドの状態によって変化した。
しかし、先頭を走る和美の足音だけはいつでも変わらぬリズムで毅に心地よく鳴り響いた。白いTシャツに赤いランニングパンツが近づいてくる。集団の足音と荒い呼吸を聞くと、毅の心には漣が立つ。
手を伸ばせば簡単に触れることのできそうな距離。毅の目の前を走り過ぎる和美の視線は、毅が思ったこともないほど遠くを見据えているように見える。触れようと思えばいつでも触れられるその距離の近さから、彼女との本当の距離を思うと、毅の胸はすぐに萎み、何かに挑むように先頭を走る和美を観る度に、野球を始めてから万年補欠の毅は、自分の恋心の無謀さに、ボールを追う力を吸い取られてしまうようだった。
そんな和美に好意を告げられた後、自分が何と答えたかは記憶にない。
「いいよ」
そうとぽつりと応えたと和美が後から話してくれた。覚えているのはその先で、しばらく大きな波が、自分を抱いて揺らしてから、彼女が自分を求めているということをやっと信じてみようという気になったことだ。
校舎をフェンス代わりに囲む柳の緑と、時が来たと咲き誇る桜の木が強い春の風を受けて揺れている。ポケットからスマホを取り出して、功治の投稿した詩が読めるサイトを開いた。日付は五月二十二日、昨日。
どうする?
ニュートンが見つけた宇宙の法則が全てを支配するならば
りんごは木から等加速直線運動で加速していき、やがて地面に落ちると決まっている
地球は一年に太陽を一回廻ると決まっている
俺の打った球は、ピッチャーが投げたボールの速さとバットの重さとバットのスピードで勝手にどこまで飛んでいくか決まっている
そんな風に俺の将来だって決まっている
俺の心臓がいつ止まるかだってきっと決まっている
アインシュタインが考え出した数式では
宇宙の始まりを表すことができない
時間を0にすると、空間が∞になってしまう
空間を0にすると、時間が∞になってしまう
その式を使って宇宙を説明しようとする人たちは何を考えている?
何もかも全部、間違いだったらどうするの
ねえ、どうするの?




