近すぎ
影が消えてからも、僕は、しばらく立ち尽くしてたと思う。
あの存在に上手く理解が追いついかない。
いったい、何だったんだ?
混乱はしてたけど、戸締りを確認して一人でベッドに潜り込んだ。
アレは僕を元の姿に戻せるって言ったけど、元の世界に戻せるとは言わなかったな。そんな事を思いながら目をつぶった。今となっては——自分だって戻りたいのか分からないんだけど。
スパイクさんに布団を剥ぎ取られて、目が覚めた。
「んとに、アンドリューさんは朝が弱すぎっすよ!」
「………はい」
朦朧としながら、ああ、眠ったんだなって思って、僕って意外に肝が太いなって驚いた。
寝間着を脱がされ、熱いタオルで顔を擦られる。
「今日は帰還の日なんですから、午前にはクリムゾンを出ますからね。さっさっと支度してくださいよ」
「………はい」
「ぼんやりしてますねー。昨夜は遅かったんですか?」
「………いえ」
「食堂に行ったら、面白いものが見られましたよ」
「……面白いもの?」
僕にシャツを着せかけて、ひょろ長いスパイクさんが笑った。
「王太子がミザリア嬢に手ずから食事を運んでました」
「はぁ」
「はぁ、じゃないでしょ? あの王太子が、ですよ!」
「ええと。マルペーザはレディファーストの国でしょ? 女性を立たせないようにするのは紳士だからじゃ?」
「そうっすけど、それ以上に権威主義の国っすから。王太子が人の世話を焼きたがるなんて、普通じゃないんですよ。人に指示するならわかりますけどね。だって、そういうの見た事ありました?」
「いえ、無いですけど」
「でしょー」
鼻がくっつきそうな距離に顔を詰められて、僕はちょっと身を引く。
「魔王の復活なんて、面倒だって思ってましたけどね。良い変化も起こってるなって思うんですよ」
彼の目が開かれて、キャラメル色の瞳が優しく笑う。
「僕はこの国が好きですからね。次期国王と王妃の関係が良好なのは目出度い事です。あなたに感謝しないと」
「……僕…にですか?」
「そうです。あなたの存在が王太子を揺さぶって、ミザリア嬢へも変化を起こしてる」
「いや、それは僕の力じゃ——」
僕の力じゃない——って言おうとしてたら、スパイクさんの体が引き離された。
「おっと、お?」
眉を吊り上げたジンが、スパイクさんの肩をトンッと突き飛ばし、僕と彼の間に体を入れた。
「何してんだ」
「おやおや、ジンさん。見てわかりませんでしたか? アンドリューさんの着替えを手伝ってたんっすけど?」
「そういう距離じゃなかったろ」
「襟元のボタンを留めてたんすよ。アンドリューさん、朝はポンコツだから」
「へぇ。あんた器用なんだな。手元じゃなく、裕翔と見つめ合いながらボタンを留められるなんて」
スパイクさんが長い首を傾げた。
「ゆうと?」
「……リューのことだよ」
両手をパッと上げたスパイクさんは、いつもの細い目でヘラっと笑った。
「ジンさんは、アンドリューさんをゆうとって呼ぶんっすね。僕もそう呼ぼうかな」
「!!」
「……冗談ですよ。怖いなぁ。僕は侍従ですから、砕けた呼び方や愛称では呼びませんよ。では、後の支度はペアのジンさんに任せますんで、早めに食事を取って出発時間に間に合わせて下さい」
彼はヘラヘラっと笑いながら部屋を出て行った。僕を振り向いたジンが少し拗ねた表情でしゃがみ込んで、スパイクさんが着せかけたシャツのボタンを留める。
「目は覚めてんのか、裕翔」
「へ? ええ、ああ」
「なら、あとは自分でやれよ」
立ち上がって、畳んであったズボンと靴下を投げるように渡すと、スパイクさんが用意してくれてたお茶を入れてくれる。
「お前、いくら朝が苦手だって言ったって、着替えくらい自分で出来るようになれよ」
「いや、いつもなら一人で着替えてる」
「ふーん? なら、今朝はいつもと違うわけだな? スパイクさんとキスでもしてたのか?」
「……え? キ、キス? なんで、そうなるの? そんなことしてない」
「そういう距離だったろ」
「距離……」
ああ、確かに鼻がくっつきそうな距離だったか?
でも……あの人って、最初からあんな感じだったからなぁ。
「パーソナルスペースって知ってるか? 人は近すぎる距離に人が入ると緊張するもんだけど、お前って、そこが変だろ」
「変? そう?」
「そう! さっきの距離は幼い子供と親とか、夫婦とか、恋人の距離だ」
「……え? えっと。考えたことなかった」
ジンは僕にお茶を渡しながら冷たい目で見る。
「だろうな。お前は俺との距離も初めから変だもんな」
「………え。もしかして嫌だった? ごめんね」
「そうじゃない。気をつけろって言ってるんだよ」
「え? ……うん」
分かってないんだろうなって顔で、ジンは深い息をついた。




