第四話 俺たちの戦いはこれからだ!
「お、俺……?」
『ムシャクシャ』が、顔を強張らせた。吹雪は何も言わず、ジッと男を睨んでいた。
「何をバカな……」
「ちょ、ちょっと吹雪くん!」
井納は慌てた。
いくら何でも、推理小説じゃあるまいし、いきなりヒトを犯人呼ばわりして良いわけがない。確証はあるのだろうか? もし間違っていたら……野武士のような見た目の『ムシャクシャ』は、少し余裕を取り戻したのか、低い声で凄んで見せた。
「俺が先生を、殺したってのか?」
「いいえ」
「は?」
「貴方は殺した訳じゃないわ。あのオヤジ……厭那先生は、事故死だったの」
「何だって?」
「さっきケーサツがパトカーの中で言ってたんだけど」
顔を見合わせる井納たちとは対照的に、吹雪は落ち着き払った声で告げた。
「死因は『出血死』……だけど頚動脈の出血じゃなくて、硬膜外出血だって」
「硬膜……?」
硬膜外出血は、頭蓋骨を骨折などした際に脳内の動脈が破綻し、頭の中に血腫が溜まって行く損傷である。
大体1〜2時間で50g血腫が溜まる。その間、患者はふらつきなどを感じるだけで、いつもと変わりなく動き回ることができる。
致死量である150〜200g溜まるまで6時間から12時間かかるので、頭を打って、だけど特に異常はないから普段通り生活を続け、翌朝気がついたら亡くなっていた……なんてこともあり得る。ふらついた時点で手術をすれば助かる可能性もある。頭を打ったら、過信せず病院に行くことをお勧めする。
「じゃあ先生の死は……殺人じゃなかった?」
井納は驚いた。
「おそらく何処かで頭を打って……それ自体は誰にでも起こり得ること。ましてやあんな酒癖の悪そうな人ならね。それから職場まで来て亡くなった。傷を負った場所と、死亡現場が違うから、良くミステリーなんかでネタになりやすいの。首の傷のせいで、私たちはてっきり先生が、職場で誰かに殺されたものだと思い込んだ」
「待ってくれ。じゃあ……」
「先生が亡くなった後、死体を発見して、首に傷をつけたのが貴方」
吹雪が『ムシャクシャ』を睨んだ。男は息を詰まらせ、身を固くした。
「血液型が違ったでしょう? 死体を切っても、心臓は止まってるから、出血はしないの。貴方は先生が殺されたように偽装しようとして……だけど失敗した。不審な傷だけが残り、それで慌てて自分の血で誤魔化した。原稿用紙に残ってるのは貴方の血。そんな物的証拠を残して、どう言い訳しようとしたのか、聞いてみたいものだわ」
「何のためにそんなことを?」
『神のお告げ』が目を泳がせた。
「恐らくは私に罪を被せるためでしょうね」
吹雪は表情を変えず言った。
「それで、私が書いたかのようなメッセージを……貴方は『ムシャクシャ』していた。『ムシャクシャ』して、ベテラン作家や、私のような新人を妬んでいた。もしかして、最近原稿用紙を盗んでたり、指を折ったのも貴方なんじゃない? 或いは厭那先生の指示で、貴方が実行犯になっていた……だけどそれが明るみに出そうになって、今度は厭那先生が邪魔になった。事故に見せかけて、本当は……」
「待ってくれよ」
そこでようやく、『ムシャクシャ』が声を荒げた。
「それは飛躍し過ぎ、妄想のし過ぎだ。漫画家の悪い癖だぜ。それに、たとえ原稿用紙に俺の血がかかってたって、ここにいる2人のどっちがか……」
『ムシャクシャ』がジロリと残りの2人を睨んだ。
「『遊ぶ金欲しさ』か『神のお告げ』が、俺に罪を被せるために、わざと残しておいたのかもしれないぜ。俺の血液をこっそり入手してさ。何てったってあの場には、俺たち3人ともいたんだからな」
苦しい言い訳だと井納は思った。
病院じゃあるまいし、他人の血液をそう簡単に入手できるものだろうか?
「それに、箸やペンすら握れない人が、まともにナイフを持てるかしら?」
吹雪もまた、思案げだった。
「どんな風に切られたかは死体を見れば分かる。だから、『動機』なのよ。『遊ぶ金欲しさ』だったら、お金が無くなってないとおかしいでしょう? 『神のお告げ』だったら、あんなメッセージは残さないんじゃないの? それだったら『神様の言う通り』とか何とか……『人気順に殺していく』神様って何?」
「デタラメだ」
『ムシャクシャ』が吐き捨てた。
「状況的に怪しいってだけで、証拠はない! 作家にありがちな、理由の後付けだよ。俺が犯人だって証拠はあるのか!?」
「いいえ」
吹雪はゆっくりと一歩彼らに近づいた。ずるずると彼らに滲み寄って行く。
「別に私は、貴方たちの誰が犯人だって良いの」
「何……?」
「証拠とか、動機とか。探偵じゃないんだから。事件さえさっさと終わっちゃえば、別にそれで。これから貴方たちの指を、一本づつ折っていくわ。誰かが自白するまで。それで良い?」
「ダメ、ダメ!」
井納が慌てて吹雪を止めた。
騒ぎを聞きつけて、警察官も飛んできて揉みくちゃになった。大勢に取り囲まれ、さすがに誰も抵抗しようとはしなかった。
「どうしてあんな事を……」
それぞれ別室に”連行”されていく中、井納は、『ムシャクシャ』に尋ねた。『ムシャクシャ』は、観念したのか、顔をムシャクシャさせて、
「ム……ムシャクシャしてやった。後悔は、していない」
それだけ言うと、扉の向こうへと消えて行った。
吹雪たちが解放されたのは、それから6時間も経った後だった。
随分と遅くなったが、どうやら日付が変わる前には家に帰れそうだ。
井納はホッとした。
『ムシャクシャ』が、最後には自白したらしい。一体どんな尋問が行われたのか、野次馬根性が疼くところだが、少なくとも指を折るような真似じゃないことは確かだ。大筋は、吹雪が”推理”した通りだった。
外は寒かった。
すっかり辺りは暗くなり、2人は夜のバス停にいた。と言っても、道端にベンチがポツンと置いてあるだけだ。吹雪と井納以外は、誰もいない。曇天の下、井納は吹雪の隣に座っていた。吹雪は、6時間も描けなかったので、事件が無事解決したと言うのにイライラしていた。
「それにしても……」
待っている間、井納は感心したように言った。白い息が夜空に吸い込まれていく。
「良く知ってたね。硬膜外出血とか……」
「パパが……」
バスは、1時間に一本くれば良い方だ。吹雪がじっと前方を見つめたまま無愛想に答えた。目の前に広がる道路を、ガタゴトガタゴト、軽トラックがゆっくり横切って行った。
「同じような病気で死んだの」
「え……」
「パパも漫画家でね、私が6歳の頃、30過ぎて間も無く死んだわ。ずっと徹夜続きで、過労死だったって」
「…………」
井納は言葉を詰まらせた。それで、か。彼女がやけに健康にこだわったり、まるで怒ったように漫画を描いているのは。吹雪が、同業者を敵視しているのは、
「もしかして……」
「単行本を出してくれたら、あとがきに書くわ」
「……はい?」
「夢だったの。あとがきとか作者コメント欄に、ある事ない事好き勝手書くの」
「へ、へぇ……」
変わった夢だ、と思ったが、井納はそれ以上聞かないことにした。と、向こうからバスがやってきた。大きく伸びをして、井納が立ち上がった。
「あ……」
雪だ……。
寒い寒いと思っていたが、少し早い初雪が、はらはらと空から舞い降りてきた。冷たく、触れると溶けてしまいそうな、細やかな雪。白い結晶の軌跡をしばらく眺めていると、やがて目の前でバスの扉が開いた。
井納は肩をすくめ、小さく息を吐き出した。やれやれ。今日は大分草臥れてしまった。事件は概ね解決したが、〆切が伸びた訳でもない。これからまた彼の日常が……戦場が戻ってくる。
「楽しいわよ」
「え?」
「漫画を描くの。こんなに楽しいこと、やめられるワケないじゃない」
そう言って井納を見上げた吹雪の顔は、今まで見たことがないくらい、満面の笑みを浮かべていた。
《〜Fin〜》




