第三話 人気漫画家殺人事件
「私は犯人じゃ無いわ」
椅子をくるりと回転させ、長い黒髪を靡かせる。井納と向き合うと、吹雪ははっきりそう断言した。
「だって犯人は『人気順に作家を殺していく』んでしょう?」
「嗚呼……」
井納は床に正座したまま、沈痛な表情で項垂れた。彼は今、吹雪の”職場”に来ていた。
部屋は薄暗かった。真っ白な正方形の部屋には、扉がひとつと窓がみっつ。窓は遮光カーテンが締め切られていた。中央に大きな机がひとつあり、その上に原稿用紙やインクやら、漫画制作の道具が必要最小限置いてある。
それ以外は何も無い。
本当に何も無いのだ。TVも、ラジオも、パソコンも。食べかけのお菓子も、可愛らしいぬいぐるみも、お気に入りの映画スターのポスターも。時計すら置いてなく、あるのは使い古されたストップウォッチのみ。殺風景な部屋だった。吹雪はアシスタントも雇っていない。この部屋の中で、吹雪は毎日過ごしているのだ。
まさかこんな事になってしまうなんて。
井納は言葉にならない唸り声をあげた。連載中の漫画家が何者かに殺されてしまうなんて、前代未聞だ。しかも犯人は、これで終わらせるつもりはないらしい。現場には厭那奴蔵の死体と、『人気順に殺していく』と言う犯人からの挑発的なメッセージ、次の殺人予告とも取れる文章が残されていた。
「だったら犯人はまず、私を一番に殺すはずでしょう?」
「…………」
「あんな、過去の栄光に縋った遺物、金の力で偽りの人気を得た俗物に、私が負けるはずが……」
そこで吹雪は言葉を切った。井納が顔を上げると、すでに吹雪は回転椅子を元に戻して、原稿用紙に向き直っていた。休憩の15分が終わったのだ。彼女にとって何より重要なことは『漫画を描くこと』で、それ以外は、たとえ身近で殺人事件が起きようが、どうでもいいことらしかった。
カリカリとペンの音だけが部屋に響く。
吹雪は、すでに井納の話に興味を失っているようだった。井納は呆れた。
「ちゃんと聞いてくれよ。警察だって、君のこと疑ってるんだぜ!?」
カリカリ。
「だってあんなことあったばかりだろう? 授賞式で……厭那先生と大喧嘩してさ。その後すぐに先生が殺されて、あんなメッセージが残されて。そりゃ誰だって怪しむよ……」
カリカリ。
「なあ……『漫画のためなら人を殺したって構わない』って言ってたって……本当?」
カリ。
返事はない。
これから90分、恐らく何があっても返事はない。井納は立ち上がり、恐る恐る吹雪に近づいた。吹雪は瞬きもせず、無表情で原稿用紙を睨み、素早くペンを動かし続けていた。きっと、すぐ隣に井納が立っていることすら、気づいていない。
「吹雪くん。漫画描いてて、楽しい?」
散々無視され続けた井納は、思わずそう呟いていた。もちろん返事はない。聞こえているかどうかも分からない。相変わらずペンだけが、踊るように動き続けている。カリカリ。カリカリ。
彼は小さくため息をついた。
もちろん井納だって、吹雪が犯人だと思っているわけではなかった。しかし同じ雑誌の同業者が殺され、しかも自分にも容疑がかかっているのに。彼女はルーティーンを崩そうともせず、ひたすら漫画を描き続けている。それが井納には理解できず、空恐ろしかった。
どうにも居心地が悪くなり、彼が諦めて部屋を出ようとした時、
「楽しくないと描けないの?」
「え?」
吹雪の声がして、驚いて井納は振り返った。吹雪は相変わらず同じ姿勢のまま、手を動かしながら小首を傾げた。
「もしかして他の人って……チヤホヤされてないと描けないの?」
それだけ言うと、彼女はもう何も言わなかった。井納はゾッとした。彼女の言葉を聞いたその時、ふと彼の脳裏を、
"もしかしたら深沢吹雪は、漫画を好きで描いてるんじゃない。
彼女は漫画を愛しているんじゃない、実は、漫画を憎んでいるんじゃないか……?"
そんな不安が、彼の脳裏を過ぎったのだった。
部屋を出ると、途端に冷たい北風が井納に吹き付けてきた。ちょうど小型のバスが、目の前に伸びる細道をガタガタ音を立てながら通り過ぎて行く。バスは、1時間に一本あれば良い方だ。コートを手繰り寄せ、井納は、仕方なく歩くことにした。
雑木林を抜けると、行く手をぐるりと囲むように、連なる山脈が遠くに現れた。道は別れることなく真っ直ぐ続き、その両脇を、刈り取りの終わった田んぼがつらつらと広がっている。山の頂上は、すでに白いものがちらほら見え隠れしていた。空はどんよりと曇っている。もう一週間も経たないうちに、また、雪の季節がやってくるだろう。
人影はない。寂しい景色だが、それでも吹雪の部屋よりは、実に彩りに溢れていた。広がる緑、足元に咲く赤、どこまでも続く土の色……それで井納は気がついた。吹雪の部屋には色彩がない。まるで漫画みたいに、白黒だ。
彼女は……一体何故漫画を描いているのだろうか? 井納はふと立ち止まった。パーティ会場でのひと騒動、何故吹雪は、あんな啖呵を切ったのだろう? 同業者を『対戦相手』或いは『敵』と呼ぶなど、一体何が彼女をそんなに駆り立てているのか?
そこまで敵意を剥き出しにしながら、それでいて、誰よりも漫画に熱心である。
それが井納には分からなかった。
分からないまま、小一時間歩き続け、彼は町の警察署に辿り着いた。これから関係者への事情聴取が行われると言うので、呼び出されていたのだ。署内に入ると、なんと先ほど別れたばかりの吹雪の姿があった。
「ケーサツが押しかけてきたのよ!」
白いワンピースの上に、真っ赤なダウンジャケットを羽織った吹雪が、イライラした顔で吐き捨てた。さすがの彼女でも、警察には従わざるを得なかったらしい。
狭い廊下の先、壁際にパイプ椅子がいくつか並んでいて、吹雪はそこに腰掛けていた。”連行”されてきた吹雪の隣には、同じく事情聴取を受ける関係者……厭那の元でアシスタントをしていた3人が並んでいた。
曰く、
『遊ぶ金欲しさ』
『神のお告げがあって』
『ムシャクシャしてやった、後悔はしていない』
の、犯行動機……いや、志望動機の若者3人である。厭那先生は性格も人使いも荒く、すぐにアシスタントが辞めて行ったので、結局この3人が充てがわれたのだった。
厭那が職場で亡くなった時、死体を発見したのがこの3人だった。
「あれ?」
井納は『遊ぶ金欲しさ』を見て驚いた。
「君、就職したんじゃなかったの?」
「ハァ……」
手越光は、何とも煮え切らない表情を浮かべた。
「あれから仕事は見つかったんスけど、初日、緊張しすぎて社長にゲロぶっかけちゃいましてね」
「え」
「もう気まずくて気まずくて。これヤベェだろってなって、そんで、転職サイトで性格診断とかしてたら、”クリエイターに向いてる”って言われて。やっぱ俺、”そうなんだ”って。ンで、何を作るかはまだ決まってないスけど。とにかく俺、やっぱクリエイティブなことがしたくて。そんでこないだの編集者さんに、そんならってんで、先生のアシ紹介してもらったンです」
「そう……」
井納はもう、それ以上聞かないことにした。
「それより、なんでこの女がまたいるンすか!?」
『クリエイティブ・クリエイター』とでも言うのか、何だか謎の存在になってしまった若者が、吹雪を見て怯えた。
「アンタのせいで、こっちはまだ箸もまともに握れないんだぞ!?」
それでどうやって漫画のアシスタントをしていたのか……いや、井納はもう、それ以上聞かないことにした。
「心配しなくても、誰もアンタの事なんか眼中にないと思う」
「ハァ!?」
吹雪は『遊ぶ金欲しさ』の方を見もせずに告げた。
「まぁまぁ。それにしても、不思議ですよねぇ。聞きました?」
すると、険悪になりかけたムードを見かねて、30代くらいの小太りの男、『神のお告げ』がさりげなく話題を変え始めた。
「さっき警察の人から聞いたんですけど、死体の下にあった原稿用紙……そこに飛び散ってた血は、先生の血じゃなかったんですって」
「え?」
「血液型が違ったんですよ。先生はO型で、原稿用紙の返り血はA型。どうも、犯人の血じゃないか、って」
「A型……」
井納はA型だった。彼は思わず4人を見渡した。全員黙っていたが、誰も否定しない。
「ここにいる全員、容疑者ってわけだ……」
それまでじっと押し黙っていた『ムシャクシャ』が、低い声を出した。こちらは40代くらいで、脱サラしてアシスタントになったクチだが、何だか野武士のような無骨さがある。
「はっきりさせようじゃねえか。この中に、先生を殺す動機を持った奴がいたかどうか……」
薄暗い廊の下、
『遊ぶ金欲しさ』
『神のお告げ』
『ムシャクシャ』
の3人が、一斉に『宣戦布告』吹雪を見た。
「なぁあんた……噂は聞いてるぜ。先生に喧嘩売ったそうじゃねえか……」
「そ、そうだよ! こいつは俺の指をいきなり逆に捻じ曲げたんだ。とんでもない女だよ!」
「まさか貴女……神の御意志に背いて先生を……」
3人が口々に騒ぎ始める。吹雪は身じろぎもせず井納に尋ねた。
「死体には、首に傷があったのよね?」
「あ、嗚呼……」
井納は頷いた。確かに厭那の首には、掻っ切られたような痕が残っていた。
しかし、それなのに血液型が違うとは……?
「秒で分かったわ」
「え?」
「『動機』よ。はっきりしてるじゃない。先生を殺す『動機』」
「『動機』?」
井納も、その場にいた3人もたじろいだ。まさか彼女は……謎が解けたと言っているのか?
まさか……。
吹雪は椅子に座ったまま、3人の容疑者を睨め付け、獣のように唸った。
「こんな事件、さっさと解いてしまいましょう。じゃないと、漫画が描けないじゃない」
『漫画を描くため』なら、どんな難事件もあっという間に解決してしまう。1秒が惜しい。そんな表情で、深沢吹雪が立ち上がった。白く細い指を伸ばし、その先を一人の人物に向け、
「犯人は、貴方ね」
凛と透き通る声で言った。
《To Be Continued……》