第一話 漫画家になる方法
「※※※※※みたいなの描いてよ」
「え……?」
「『※※※に俺はなる』みたいな漫画。大ヒット間違いなしだよォ」
「はぁ……」
ヤニ臭い息を吹きかけられ、手越光は困っていた。
寒さも日に日に増してきた11月ごろ。彼は今、半年かけて描いた渾身の処女作を手に、地方の小さな出版社に持ち込みに来ていた。就職活動が全て失敗に終わり、人生がすっかりどうでもよくなった彼は、遊ぶ金欲しさに漫画家にでもなろうと思っていたのだ。
もしかしたら自分には、漫画の才能があるのかもしれない。
あるだろうか……いや。きっとあるに違いない。
大丈夫だ。毎日夜寝る前には、自分が『能力者』になった妄想を欠かさずしているのだから……。
根拠のない自信に満ち溢れた彼は、作品が出来上がると同時に、居ても立っても居られず出版社に電話をかけた。
これから自分は、漫画王になるだろう。
白い息を吐きながら。期待に胸を膨らませて、彼は夢への第一歩を踏み出した。
だが、初っ端ふた回りくらい年上の編集者からかけられた言葉は、「大先生に喧嘩を売れ」だった。
「※※※※※みたいなの、って」
人気も人気、誰もが知っている漫画である。それをパクれと言うのだ。いくら新人とはいえ、そんなことをしたらこの業界で生きていけなくなる……それくらいは手越も分かっていた。
大体デビュー作からパロディって、それは王としてどうなんだ? 自由と言えば響きは良いが、漫画家になる方法として考えた時、あまりパロディに頼り過ぎるのは良くないと思う。うん。
気を付けねば。
「じゃ、そういうことで」
「どういうことですか?」
「とりあえず来週の連載会議にかけるからさ。それまでになれよ。※※※に」
「そんな無茶な……!」
「これから予定があるんだよ。こないだ行ったキャバクラのネーちゃんに、呑みに誘われちゃってさ」
無精髭の編集は、ニヤニヤしたまま手越の原稿を突っ返して来た。原稿は全部で48頁あったのだが、最初の数頁パラパラ捲られただけで、碌に読まれもしなかった。
手越は落胆した。
やはりそう甘い世界ではないらしい。最悪、漫画家にはなれなくてもいいから、とりあえず遊ぶ金だけでもくれないだろうか……彼がそう願っていると、隣のブースがやけに騒がしくなった。
狭い雑居ビルである。必然的に、話し声も耳に飛び込んで来る。手越の時とは全然違う、歓声だとか、感嘆の声が度々聞こえて来る。気にならないはずは無かった。
「……何ですか?」
「嗚呼」
編集者が立ち上がりながら、ボリボリと尻を掻いた。
「彼女が来てる」
「彼女?」
「お前と同じ新人だよ。新人漫画家」
「へえ……」
手越は思わず顔を上げた。
やはり、自分だけではなかったのだ。遊ぶ金が欲し……いや、崇高なる夢をこの荒れ狂う新時代に共にしていたのは。勝海舟に出会った坂本龍馬のような気持ちで、手越の胸は踊った。同じ新人と聞いて、しかも女子だと聞いて、彼は俄然興味が湧いた。しかも漏れ聞こえる声を聞く限り、かなり高評価らしい。一体どんな人、どんな漫画なんだろう……。
「やめとけ、やめとけ」
「え?」
「彼女には良からぬ噂があってな」
編集が途端に真面目くさって言い放った。
「作品はともかく、人柄がな。業界じゃ良くない奴だともっぱら評判だよ」
「はあ……」
この編集者より良からぬ奴がこの業界にはいるのだろうか?
なんて業界だ。軽く絶望しながら、手越は興味が抑え切れず、気がつくと隣のブースを覗き込んでいた。
すると……
「……!」
そこにいたのは、雪の妖精……手越は息を飲んだ……透き通るような白い肌の、美しい女性だった。
年齢は彼と同じくらい、いやそれより若いだろうか。淡いクリーム色のワンピースを着ていて、対照的な艶のある黒髪が、実に良く映えていた。細身で、まるで陶器でできた人形のようだったが……その表情だけは、何故か吹雪のように険しかった。
美しい……だがその美しさ故に、余計にその険しさが際立って見えた。
たとえるなら、夜道で出会った青白い幽霊のような。
尸の山の上に立っている、血濡れの夜叉のような。
申し分ない美女である。
だが、光り輝く美の裏に、何処か危うい陰も見え隠れしていた。
「……貴方が、次の私の対戦相手?」
「え?」
少女は手越を一瞥し、小首を傾げ、そう声をかけた。それで彼は我に返った。見惚れてしまっていたのだ。
「えー、っと……」
凛と澄ました声は何処までも心地良く耳に届いたが、彼は言葉の意味が分からず、思わず固まってしまった。
後から聞いた話だが、彼女……深沢吹雪は、同業者の漫画家のことを『対戦相手』或いは『敵』と呼んでいるらしかった。それを知った時、手越は仰天した。同業者は、同じ夢を志す仲間であるはずなのに……そもそも漫画家同士で『戦う』なんて考えたこともなかった。しかし彼女は、吸い込まれそうな両の瞳の奥で、その時すでに『連載枠』という名の椅子取りゲームの、その先すら睨んでいたのだ。
「……ちょっと冴えない感じね」
「え??」
彼女はフッと笑うと、手越の人差し指をそっと掌で包み込み、
「あ……あででででえッ!?」
いきなり逆側に曲げ始めた。激痛が手越を襲った。
「な……何するんですかッ!?」
「折れるかと思って」
「は?」
「折れたらしばらく描けなくなるでしょう? だから」
「だから……?」
手越は意味が分からず、涙目になりながら後ずさった。なんだ。なんなんだこの女は。
「手越光クン」
「はい……?」
「漫画家にとって、自分が連載している雑誌の中というのは、戦場なのよ」
「……!」
「……戦いに情けが必要かしら?」
「ヒィ……ッ!?」
吹雪は端正な顔を綻ばせ、ニコリと笑った。
手越は、勘違いしていた。
漫画とは……単なる遊ぶ金を稼ぐ手段にあらず。
手越は思い知った。
漫画とは……敵の心を折る戦い。対戦相手の指を折る戦いだということを。
圧倒的な初動の差。
生半可な努力では覆せない、戦闘経験値。何よりその、破壊への躊躇いのなさ。
出版社のブースの中では、こんな事が日常茶飯事だと言うのか。
なんて業界だ。深沢吹雪と出会い、手越はポッキリ漫画を描くのをやめた。
彼女にはとても叶わないと思い知ったのだ。
彼は遊ぶ金を欲しがることを諦め、真面目に就職することにした。
マトモな職に就けば、少なくとも指を折られることはあるまい。そう思ってのことだった。
彼の予感は、ある意味正しかった。
外はすでに、冷たい北風が吹き荒んでいた。
これから数週間を待たずに、雪の季節が巡ってくるだろう。
一面の雪景色は、美しさだけでなく厳しさもまた等しく備えているものだ。
そしてこれからこの業界に吹雪を呼び起こすのは、他ならぬこの少女だった。
《To Be Continued……》