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マーニャは、思い詰めた様子のアディナに、どう声をかけるべきか迷っていた。昨夜、お土産を渡してくれた時から若干の違和感はあったのだが、一夜明けて悪化したらしい。
(これはいつもの…なのでしょうか。それとも本気で何かお悩みに?)
手練れのマーニャにも、今朝のアディナはどちらなのか、判別しかねた。
「…ねえ、マーニャ」
「はい」
「わたしって…怒られて喜んでしまう、特殊な人種だったのかしら」
「………」
マーニャがちょっと何て返して良いか、わからないでいる間にも、アディナは難しい顔をしながら、謎の陳述を続ける。
どうやら前者だったようだ。
「そういう趣味の方を軽蔑するつもりはないけれど、まさか自分がとは思わないじゃない?」
「ま…待ってください。できれば、順を追ってご説明をお願いいたします」
何が悲しくて朝っぱらから、マゾヒストに目覚めた宣言を聞かなくてはならないのか。しどろもどろになりながら、マーニャは必死に説明を求めた。昨夜は、疲れたからと報告会が開催されなかったのだが、それがこんな裏目に出るとは。
「昨日のデートで、ルカに怒られたの。普通は怒られたら悲しくなるものじゃない?それなのにわたしときたら、胸をドキドキさせて喜んでいたのよ?これはもう、立派な変態だわ!」
もの凄い悲劇のように青ざめるアディナ。よくもまあ、ここまで捻じ曲がった結論に至れるものである。ルカが関わるとぽんこつ具合が加速する、困った令嬢だ。
事態を把握したマーニャは安堵の息を吐き、優しく微笑んだのだった。
「大丈夫ですよ、お嬢様。それは"ときめき"という、恋する普通の女の子なら誰にでも起こる現象です。お嬢様は、ルカさんに心配してもらえて、ときめいただけです。痛めつけられて喜ぶ変態とは違います」
「なるほど、これが恋する乙女の"ときめき"…!一つ賢くなったわ!」
本当に、朝っぱらから何の話をしているのだろうか。
自分が変態ではないと知り、気を持ち直したアディナは、その勢いのまま登校していった。
「クライヴ殿下。おはようございます」
「おはよう、アディナ。良い週末だったみたいで何よりだ」
「そうなのです」
「良かったな。その素敵な思い出は、君の胸に仕舞っておくといい」
「ルカにサプライズをしようと思い、デートに繰り出したのですが…」
「今日も駄目だったか…」
アディナの話は教室に入り、着席した後も止まらなかった。無視せずに一通り聞いてあげたクライヴの目は死んでいる。
「…回りくどいことはせずに、いっそストレートに想いを告げたらどうだ」
アディナの性格なら「ルカが好きだからあなたの妻になってあげるわ!」とか言いそうなものだ。むしろ、そちらの方が自然な流れのような気がする。
クライヴの指摘に対して、アディナは一度ぱちりと瞬く。その後、乙女らしく頰をほのかに染め、照れ臭そうにこう言った。
「愛の言葉は、ルカの方から言ってもらいたいのです」
奇をてらった事ばかりやらかすアディナにも、純情な乙女心はあるのだ。
「…そこだけは受け身なんだな」
「それに、わたしから告げたら何だか負けた気がしますし。ルカを陥落させて、ぎゃふんと言わせませんと。わたしにも女としての矜持がありますわ」
「言わせる言葉はぎゃふんでいいのか?」
可憐な乙女モードを持続できないのが、アディナがアディナたる所以である。
「ぎゃふんで思い出しましたが、来月はお城で建国記念パーティーでしたわね」
「何故それをぎゃふんで思い出したのか甚だ疑問だが、そうだ」
水の国と称されるソルジェンテは、はるか昔、水の女神と契約を結んだ一人の王によって建てられたと云われている。その日を記念し、国王が主催となって盛大なパーティーを開くのだ。ここ、エルド学園は『王立』の学び舎なので、生徒達は出席を義務付けられている。そうでなくても、筆頭貴族のクリュシオン家が参加しないなどありえなかった。
「今度の作戦は『メロメロ色仕掛け』でいきます!」
「君一人でやるなら、好きにしてくれ」
「殿下は引き立て役になっていただくだけで大丈夫ですわ」
「仮にも王子に向かって『引き立て役』なんて言えるのは、この国で君だけだよ…」
「不敬罪で訴えますか?」
「訴えるだけ、罪状の無駄だ」
お互い、にやりと笑い合う様子は、悪友のようであった。
結局、クライヴは昼食が済むまでアディナの作戦会議に付き合わされ、精神的疲労から軽い目眩を起こしていた。
今日の休憩時間は静かな場所で過ごそうと考え、アディナは自習室へ行くことにした。屋敷ではどうせ恋愛小説に意識がいって勉強に手がつかないので、予習復習はいつも学園で完結させている。それでいて、定期考査では首席並みの成績を叩き出すのだから、無駄に賢いというほかない。
「……に、あなた………まで……!!」
「…を………なさいっ!!」
「きゃあっ!?」
「!!」
曲がり角の向こうから聞こえる、甲高い声に気付いた直後。アディナの体に何かが激突した。
結構大きな衝撃だったが、無様に転ぶことはなかった。ルカを魅了しようとダンスの練習に励んでいた賜物か、流石は男のルカを転ばせて壁ドンさせるだけの脚力である。
逆に、激突してきた何かの方が廊下に尻餅をついている。花弁みたいな桃色の頭髪が目に留まり、アディナは反射的に彼女の名前を呼んでいた。
「…エミリーさん?」
「あ…あ、アディナ様…」
アディナの呼びかけに答えたのはエミリーではなく、怒鳴っていた声の主であろう、二人組の令嬢だった。
彼女達の腕の中にある、エミリーの名が記された教科書を見て、アディナは瞬時に状況を理解した。二人組は慌てて隠していたがもう遅い。エミリーから教科書を奪い、取り返そうとした彼女を突き飛ばした…これはそういう事だろう。
突き飛ばした相手が、予期せずとんでもない人物にぶつかってしまったのだ。二人組が激しく動揺しているのも当然である。
(…面倒な場面に出くわしてしまったわね)
涙目になっているエミリーは可哀想だが、でもそれだけだ。たかが一回ランチタイムを共にしたくらいで、助けを期待されても困る。今のアディナに、エミリーを助ける利益も理由もない。強いて挙げるとするなら、人として従うべき倫理か。
(だからといって、どちらかの味方につく事もできないし…ややこしくなるだけだわ)
アディナは尻餅をついたままのエミリーを放置し、下級生らしき二人組の前へ進み出る。優雅な微笑を絶やさないアディナに、二人はなおのこと震え上がった。
「いったい何事かしら?」
「ヒッ……わた、私達は…その」
「エ、エミリー様に、教科書を盗まれたので!」
「そうです!それで、返してもらおうと揉み合いになってしまったのです!」
「そんな…っ!ちが」
「まあ、そうだったの」
エミリーが否定しようとした矢先、アディナが遮って喋りだしてしまう。
「では、わたしからエミリーさんに注意しておくわ。二人とも、それでこの場は収めてくださるかしら?」
「は…はい!もちろんです!」
「アディナ様にお任せいたします!」
二人組はたちまちホッとした様子で、逃げるように去っていった。
「…さてと。教科書だったら図書室にも置いてあるから、講義の前に借りてくるといいわ。では、ごきげんよう」
「……え!?ま、待ってください!」
そのままスタスタと歩いて行ってしまいそうなアディナを、大急ぎでエミリーは引き留める。
「あら、本の借り方がわからない?」
「わ、わかります、大丈夫です!そうではなくて、お叱りとか…」
たった今、注意しておくと話していなかったか?アディナのすっとぼけ具合に、エミリーは今しがた聞いた事を疑う羽目になった。そしてアディナは、神妙な顔をしたかと思えば、こんな問いかけをするのであった。
「あなたも叱られて喜ぶ人種なの?」
「………あなた"も"?」
「言葉のあやよ」
ちんぷんかんぷんなエミリーは、頭の上に大量の疑問を浮かべている。
「いつまでへたり込んでいるのよ。休憩時間が終わってしまうわ」
「……アディナ様…もしかして、私のことを助けるためにわざと…?」
注意しておく、なんていうのは詭弁で、迅速に且つ穏便に二人組を退散させることが目的だったとしたら。エミリーのエメラルドのような瞳に、先程とは違う涙が滲む。
しかしアディナは慰めたりせず、鼻で笑った後、尊大に言ってやるのだった。
「自分のものくらい、自分で取り返しなさい」
それだけ告げると今度こそ、その場から立ち去った。