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「おはよう、ルカ」
「おはようございます」
ルカは昨夜の苦悩など微塵も見せず、朝の挨拶を交わしていた。当然、アディナが気付く訳もなく、何ら変わりない日常が始まる。
「差し入れ、ありがとうございました。大変美味しくいただきましたよ」
「それなら良かったわ」
動機は何であれ、アディナの手料理は純粋に嬉しかった。たとえ黒い塊を出されても、ルカは喜んだだろう。完食できたかどうかは怪しいが。
「…クライヴ殿下にも振る舞われるのですか?」
「どうして?殿下には、味見役にもしてくれるなって釘を刺されたわ」
「返す言葉も見つかりません」
そう言いながら心のどこかで安心している自分がいて、ルカは心底嫌になるのだった。
「ねえ、ルカ」
「はい、お嬢様」
「結局のところ、あなたは特殊な性癖があるの?」
「朝一番からどキツイことを聞かないでください!!」
ルカの自己嫌悪も、アディナのあんぽんたんにかかれば吹き飛ばされてしまう。
彼女は全く意図していないだろうが、誘拐事件に遭遇したあの時も、アディナのおかげで命拾いした部分がある。苦しい葛藤を抱えていても、ルカが押し潰されないでいられるのは、アディナがいるからだ。
「大丈夫よ。理解できるよう頑張るから」
「何で俺が変態である前提で話が進んでいるんですか!?そんな頑張りしなくていいですから、勉学に励んでくださいよ!」
「わたし、成績は良いのだけれど」
「そうでしたね!」
今日も今日とて、アディナとルカは賑やかに出発していくのだった。
教室に入ったアディナを待っていたのは、クライヴではなく、講義が被った他の令嬢達であった。興奮気味に話しかけてくる彼女らに対し、アディナは淑女の微笑みで応じる。
「皆様おそろいで、どうなさったのです?」
「先程わたくし達が見た事を、アディナ様にも急ぎお知らせしなければ思いまして」
「アディナ様は編入してきた下級生について、ご存知でいらっしゃいますか?」
「桃色の髪の、可愛らしいご令嬢ですか?」
「そうです。エミリー・マスキル様と仰るそうなのですが…」
アディナは頭の中にある貴族名鑑をめくり、情報を引き出す。マスキル家といえば近年、子爵位を賜った商家だ。孤高の国イゾレとの貿易交渉を成功させた立役者の一人として、彼女の曽祖父の名が挙げられていた。世俗的に言えば、成り上がりの貴族である。
「その方が、あろうことかクライヴ殿下とご一緒に通学なさるのを、この目で見てしまったのです」
深刻な顔で何を言い出すのかと思えばそんな事かと、アディナは呆れた。溜息を吐きたいのを堪えながら、穏やかな口調で諭す。
「編入してきたばかりで、右も左もわからないのでしょう。お優しいクライヴ殿下が、助けを差し伸べるのも当然ですわ」
「ですがアディナ様を差し置いて、成り上がりの者がクライヴ殿下と…」
「マスキル家は素晴らしい功績を称えられて、国王陛下から爵位を賜ったのです。経緯はどうあれ、エミリーさんのご実家は立派な貴族ですわ」
彼女達がクライヴを慕っている事は知っている。大方、エミリーを良いように使って、アディナとクライヴを不仲にさせたかったのだろう。
だがそれは、とんだ見当違いである。アディナとしては、クライヴが自分以外の誰と結ばれようが、共同戦線が終わるというだけで、特に気にすることでもない。幼馴染として、良い相手に恵まれればとは思うが、それだけだ。
(こうやって『ギトギト三角関係』は生まれるのね。勉強になったわ)
こんな事を考えているアディナだ。令嬢達の思い通りに物事が進むはずがなかった。
平然と言ってのけるアディナに、彼女達はそれ以上何も言い返せず、すごすごと退散していったのだった。
「…というのが、今朝の出来事のあらましです」
「…それはすまなかった」
講義と講義の合間に、クライヴはアディナから話を聞いていた。彼女の推測通り、校門のあたりでうろうろしていたエミリーを見兼ねて、クライヴが案内を買って出たのだ。遠慮しまくるエミリーを教室に送り届けてきただけなのだが、もうそんなに噂が広まっていたとは思わなかった。
「あれしきのこと、別に構いませんわ」
「君が『共謀者』で良かったと、つくづく思うよ」
「ですが気をつけた方がよろしいですわよ。殿下の顔で優しくされたら一発ですもの」
「はやくも前言撤回したくなるような発言はよしてくれ」
「些細なことから恋は始まるのです。小説にそう書いてありましたわ」
「始まらない。少なくとも私はな。君も知っていると思うが、私の相手は王妃としての将来が見込める女性でなくては務まらない。突発的な感情で決めて良いことではないんだ」
「お互い、苦労いたしますわね」
「どちらかといえば、苦労させられているのは彼だと思うが…しかし、君のおかげで幾分かやりやすい。感謝しているよ」
アディナが婚約者の有力候補"らしく"振る舞ってくれるからこそ、クライヴの肩の荷は軽くなるのだ。他の令嬢達を牽制するのも、波風を立てずに上手いことやっている。その要領の良さを、何故ルカとの間に生かせないのかが極めて謎である。
「ふふっ、『共謀者』としてお役に立てて何よりですわ」
皆の知らないところで、たくさん気を遣っているに違いない。だが、アディナはその気苦労を言葉どころか態度にも出さない。
「ところで、ルカが特殊な性癖に目覚めた場合についてなのですが」
「話の転換が突飛すぎて、まったく頭に入ってこない」
アディナに助けられている感謝を示せるなら、話に付き合うくらいはしたい…のだが、時折難しく感じることもあるのが、クライヴの悩みの種だった。
予てからクライヴが伝えていたように、今日の休憩は別々である。アディナは料理人達が腕によりをかけてくれた昼食を持って、談話室に向かった。
常ならばちらほら空席が見られるのだが、タイミングが悪かったのだろうか、空いている席は一つしかない。しかも、話題の令嬢エミリーの正面だ。
(…偶然にしてはいやに出来過ぎじゃない?)
仕組まれたような空席に対してアディナはというと、真っ向からぶつかっていくことに決めた。
「ここ、よろしいかしら?」
「えっ…は、はいっ!あっ!」
俯きながら、肩身が狭そうに食事をしていたエミリーは、向かいに座った人物を見て、目をこれでもかとまん丸にする。
「アディナ様っ!?」
「こんにちは。エミリーさん」
「あ、あれ…?どうして私の名前を…」
あわあわするエミリーとは対照的に、アディナは悠然と構え、マイペースに昼食を広げ始めた。
「噂が広まるのは、あなたの予想以上にはやいものよ」
「!!あの、私っ…クライヴ殿下とアディナ様の邪魔をしようだなんて、そんなつもりは…」
「心配しなくても大丈夫よ」
そもそも婚約者ですらないのだから、邪魔も何もない。アディナの本音は「殿下が好きなら勝手にどうぞ」である。取り立てて応援したりしないが、容認はするスタンスだ。
「…えっと、先日はご親切にありがとうございました。お礼をお伝えする機会が無いのではと思っていたので、お会いできて嬉しかったです」
「ご丁寧にどうも」
「…私、お先に失礼しますね」
「あら。まだ食事の途中じゃない。わたしに構わず、ゆっくりなさっていいのよ?」
「で、でも…私のせいでアディナ様まで…」
エミリーは申し訳なさそうに肩をすぼめた。幾多の好奇な目と囁き声のせいで、二人がいるテーブルは非常に居心地が悪かった。かたや絶対的な美人と、かたや守りたくなる美少女。そんな際立った二人が、クライヴを取り合う構図を作り出しているのだ。視線を集めるなと言う方が無理な話である。
「気にすることないわ。あれは言わば"呼吸"よ」
「えっ…?」
「ああいう人達は、噂話や陰口を言わなければ窒息してしまうのよ。わたしはそんな事をしなくても息ができるけれど、言わなきゃやっていけない人もいる。呼吸を咎めることはできないのだから、好きに言わせておきなさい」
アディナの立場上、些細な行動ひとつで、良い事も悪い事も山のように噂される。いちいち気にしていては身が持たない。清々しいまでの切り捨て方に、エミリーはしばし唖然とした後、顔を綻ばせたのだった。
「ふふっ…アディナ様って、本当に素敵な方ですね」
「それなりによく言われるわ」
「励ましてくださって、ありがとうございます」
「別に励ましたりつもりはないけれど、付け加えるなら、食事は辛気臭い顔でするものではないわ」
「はいっ」
令嬢同士の諍いが勃発するかも、という周囲の期待をアディナは裏切ってみせた。嫌な注目を逆手にとり、二人は和やかなランチタイムを過ごしたのであった。




