4
自慢のワルツが見向きもされなかったアディナは、意気消沈していた。無論、胸の内は表に出さずに過ごしているが、『第六回ギトギト三角関係作戦』も失敗に終わったと、膝から崩れ落ちたい気分だった。
「アディナ嬢。どうか一曲、踊っていただけませんか?」
「ええ、構いませんわ」
内心はどうあれ、令息から声をかけられれば、にこやかに応じるアディナ。そんな彼女を特別な眼差しで見つめる人間が二人いた。
一人はルカ、もう一人は待機室で会った「花の精」のような令嬢だ。 彼女は現在、独りでぽつんと壁の花になっている。
(とんでもない方に声をかけてしまいました…)
たいそう可憐な壁の花の名は、エミリー・マスキルという。
家の都合により、つい最近まで国外にいた為、ソルジェンテ国の内情には少々疎かった。とは言え、公爵令嬢相手に名乗りもしないで、いきなり話かけたのは非常識だった。
先程、近くにいた生徒から、華麗に踊る令嬢の名前を聞いた瞬間、エミリーは硬直した。流石にクリュシオン公爵家を知らないほど無知ではない。
(…でも、アディナ様は無礼だと怒らずに、親切にしてくださった)
入る部屋を間違え、突き刺さるような視線を感じていたエミリーは、黙々と読書をするアディナを見つけた。気後れするほどの美人に足が竦みそうになったが、あの教室の中で唯一、エミリーに嫌な視線を向けていなかった人物でもあった。本を読んでいたのだからそれも当然なのだが、エミリーが話しかけても、真紅の瞳には不愉快そうな感情など、一切見受けられなかった。
(改めてお礼を申し上げたかったのですが…無理そうですね…)
ひっきりなしにダンスの相手を申し込まれているアディナに、近付くことすら叶わない。それに、こんな公衆の面前でエミリーから声をかければ、視線が刺さるどころの話ではなくなる。今でさえ、他の令嬢達からの視線は冷たいのに、これ以上悪化させては、今後の学園生活が耐え難いものとなるだろう。エミリーは諦めて、パーティーが終わるまで壁の花に徹するのであった。
結局、パーティーの最中にルカと目が合うことはなく、アディナがルカと言葉を交わせたのは、帰りの馬車の中だった。
「誰か一人くらい『少し休みませんか』って言ったらどうなのよ。わたしを疲れ知らずの超人だとでも思っているのかしら」
「お疲れ様でした」
アディナが疲れた素ぶりも見せずに微笑み続けるものだから、ダンスの申し込みは後を絶たず、音楽が止むまで踊り続ける羽目になった。ルカと二人になってようやく、彼女は疲労を顔に滲ませていた。
「ねえ、ルカ」
「はい、お嬢様」
「女性の胸は豊満か控えめか、ルカの好みはどっち?」
「どうやらかなりお疲れのようですね!」
ルカはもう慣れたが、唐突にとんでもない事を尋ねるのは、勘弁してほしいものだ。
「それで?大きいの小さいの、どっちがいいのよ」
「聞き方が雑になってません?強いて言うなら、その中間くらいですね」
「じゃあ身長は?」
「平均並みがベストかと」
「包み込むような優しさのある女性か、ちょっぴり我儘な女性か、色気たっぷりの妖艶な女性か、はたまた可愛らしくて庇護欲をそそる女性か。ルカの好きなタイプは?」
「急にめちゃくちゃ具体的に……敢えて答えるとすれば、全部を足して二で割ったような女性ですかね」
「なるほど……って、適当に答えるにもほどがあるわよ!もういいわ。ルカは大っぴらには言えない性癖の持ち主なのね!」
「そんな極端な!別に普通ですよ!普通が一番です!」
「……そう。普通、ね」
アディナの表情に影が落ちたように見え、ルカは怪訝そうに「お嬢様?」と呼びかける。
「…少し眠るわ。屋敷に到着したら起こしてね」
「…はい。かしこまりました」
───数分後。
「無防備に寝ているんだから、悪戯くらい仕掛けたらどうなのよ!」
ルカが何か言ったりやったりしないか、わくわくしながら狸寝入りを決め込んでいたアディナだが、見事に肩透かしを食らっていた。
「なんで悪戯される気満々なんですか!?しませんよ!」
「日頃の恨みくらいあるでしょう!」
「自覚があるなら止めていただけませんかね!」
「ほら、積もり積もった鬱憤を晴らしなさい」
「旦那様にバレたら解雇されます」
「黙認してあげるわよ」
「そんな何もかも許容された悪戯の、何が楽しいんですか?」
何曲も踊らされたとは思えない、元気なアディナとは反対に、今のやりとりだけでルカの方がやつれ始めている。
そんなこんなで屋敷に戻るまで、馬車の中は賑やかなのであった。
ドレスを脱いで湯浴みを終えると、アディナにも猛烈な眠気がやって来た。自室でマーニャが髪を梳かしてくれているが、その手つきの心地よさに、すぐにでも眠ってしまいそうである。
「…ねえ、マーニャ」
「どうかなさいましたか?」
「ルカは普通の女の子が良いらしいわ。わたしって普通…ではないわよね?」
その言い方では頭の方か、それ以外か誤解を招きそうだ。しかし、できるメイドのマーニャにはちゃんと伝わっていた。
「お嬢様はクリュシオン公爵家のご令嬢ですから」
ほんの一握りの選ばれし人間を指して「普通」とは言えない。アディナがしょげている原因は、そこにあった。
「没落したい、とか言わないでくださいね」
「言わないわよ」
「…そうですね。失言でした。申し訳ありません」
アディナはたった一つの我儘を除き、家族に迷惑をかけるような真似は絶対にしない。自分の評判を保っているのも、ひいてはクリュシオン家の評判に繋がるから。没落なんかして、家族が路頭に迷う事を許すアディナではないのだ。
「いいのよ。普通の女の子になるのは無理だけど、近付くことはできるはずよね。明日から勉強するわ」
もちろん、教本は恋愛小説である。
「恋するお嬢様は、普通の女の子と同じですよ」
「あら。本当?」
ただ、近付き方が血迷っているだけだ。でもそれは指摘しないでおく優しいマーニャだった。
翌日、ぽんこつ令嬢は教室の片隅で、ぼんやりと虚空を見つめていた。それでも傍目には一枚の絵画のように映るのだから、美人は得である。しかしながら、見る人が見れば一目瞭然だ。
「隣、失礼するよ」
「おはようございます。昨日はありがとうございました。楽しかったですわ、クライヴ殿下」
条件反射で立ち上がり、上品なお辞儀をするアディナだが、目の焦点はどこか彼方へ行ってしまっていた。おおよそ察したクライヴは、何も聞かずに着席する。アディナがおかしくなるのは、ルカが絡んだ時だけだ。
「ただ今、絶賛『押してダメなら引いてみろ』作戦を決行中なのですけど」
「聞いてもいないのに喋りだした…」
こめかみを押さえつつも聞いてあげるクライヴは、未来の王として大きな器を持っていると言えるだろう。
「はやくも心が折れそうですわ」
「その作戦、もう十回は失敗していた気がするが…」
「八回です」
『押してダメなら引いてみろ』作戦とは。
説明するまでもないが、ルカに対して素っ気なくあたり、気を引かせようとする作戦である。恋愛小説に登場する常套手段でもあり、アディナは何度も試みているのだが上手くいかない。原因はわかっている。アディナの辛抱が足りないからだ。
ルカを見ると自然に浮かんでくる笑顔を無理矢理抑え込み、精一杯の冷たい声で挨拶だけをし、馬車の中でも黙りこくる…そんなもの、耐えられるわけがなかった。
「貴重な二十分間を無駄にした気分です…」
「きっと君には向いていないんだよ」
「ですが、わたしが頑張り次第で、ルカの新たな扉を開けるかもしれないと思うと…」
「あれ?そんな作戦だったかい?」
「『お嬢様に冷たくされて、こんな気持ちになるなんて…!』みたいな事態に陥ってほしいものですわ」
「仮に成功したとして、喜んでいいのか微妙だよ。あと、あまり大きな声で言わないように」
多分、今回も成功しないだろうとクライヴは思った。帰りの馬車に乗る頃には、普段の調子に戻っているに違いない。
「…いつもの君が、一番良いよ」
それはクライヴの本心から出た言葉だった。
公爵令嬢とは思えない言動を繰り返すアディナだが、彼女の本質は思い遣りで満ちている。机は独りで広く使いたい主義のアディナが、文句も言わずにクライヴの隣に座っているのも、その優しさの一端である。アディナは『共謀者』と言うが、令嬢達からの嫉妬を一手に引き受けなければならない損な役回りだ。それに加え、他に好きな人がいるのに、クライヴが困るからと一緒にいてくれる。彼女は一度自分の懐に入れた者に対して、とことん優しい。
(アディナのそういうところに、彼も惹かれたんだろうな)
昨夜、ソルジェンテ国の王子に対して鋭利な視線を向けていた男を思い出す。
「……なるほど。ありのままを好きになってもらわなければ、意味がないと仰るのですね」
「いや?」
気の良い友人が幸せになってほしいと思うものの、肝心のアディナがこの有り様では、どうなることやら。
「確かにその通りですわ!この作戦は封印ですわね!」
「………うん」
アディナを説得するのは、遠い昔に諦めているクライヴだった。
「…ああ、そうだ。明々後日の昼食は別々で頼む」
「明々後日ですか?わかりました」
エルド学園には学食…と呼ぶには気がひける、最高級レストランのような学食が併設されている。アディナとクライヴは、だいたいそこで共に昼食を摂るのだが、時折それぞれの学友とテーブルを囲むこともあった。そういう場合、アディナはバスケットに昼食を詰めて、談話室で食べるようにしていた。家族と食事をすることに慣れているので、独りでコース料理を食べるのは、なんだか味気ないからだ。
「ハッ…!そうですわ!」
「そのまま黙っていてくれ」
「家庭的な女性はモテるらしいですわね。わたし、ルカに手料理を振る舞ってみますわ!」
「…私は要らないからな。味見と称して持ってこないでくれよ」
「このわたしが黒い塊を生成するとでも?」
「そんな気がしてならない」
「実はわたしもですわ」
「そこは否定すべきだと思う」
はてさて、ルカの運命はいかに。