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飛び散る真っ赤な飛沫に、どこからともなく悲鳴が上がる。その中にアディナの声は無かった。彼女はただ呆然としていて、まるで魂の無い人形のようだった。
極々小さな呻きが頭上から聴こえ、アディナは咄嗟にルカの背中へ手を回した。ぬるりと生温かい感触が掌から伝わり、アディナは頭の中が真っ白になる。
「…っ、お怪我は、ありませんか」
そう尋ねる声は、とても優しい響きがあった。命の雫を流しているのはルカなのに、それでも彼は無傷のアディナを案じている。
思い遣りだけが満ちた問い掛けに彼女は答えることができず、ただ小刻みに震えていた。その震えは、命を狙われたことに対してではない。
「チィッ!仕留め損なったか!!」
しかし、野太い声を耳にした瞬間、アディナの震えは止まった。
声の主はモーロスだった。アディナに一矢報いてやりたかったのだろうか。どうやって軟禁から抜け出して、式典に紛れていたのか知らないが、そんな事はもう、どうでも良い。
この男が、ルカを斬った。
アディナの心から一切合切の恐怖を消し去るには、充分な理由だった。
「ならば男もろとも刺し殺してやる」
恐らく、モーロスはこう言おうとしたのだろう。だが最後まで言わせてもらえなかったために、実際のところは不明なままだ。何せ剣を構え直している間に、アディナがルカの腕をすり抜け、モーロスの目前に迫っていたからである。
「!?」
容赦という概念を放棄したアディナは、相手の脇腹に強烈な蹴りをお見舞いした。すらりと伸びた美しい脚は凶器となって、たるんだ腹にめり込む。
胃の中のものが逆流しそうになり、前屈みになるモーロス。間髪いれずにアディナは両の手を祈るように組むと、真上へ振り上げた。その拳を無防備に晒された後頭部へ、渾身の力と共に叩き落とす。令嬢離れした早技に、モーロスはなす術なく崩折れた。
細身で丸腰の令嬢が、剣を持つ男を昏倒させるなど、いったい誰が予想できただろうか。皆、どちらに恐れをなせばいいのかわからず混乱を極めていた。
アディナに格闘の経験なんて無い。あるのは小説を読み漁ってつけた、余計な知識だけだ。しかしながら彼女は、蓄えた知識を土壇場で実行するだけの、度胸と勢いを兼ね備えている。
「よくもルカを…っ!!」
もう動けないモーロスに対し、アディナはなおも攻撃の手を緩めようとはしなかった。
およそ十年前からすでに、母親に花瓶を投げつけようとする暴走児だったのだ。だというのに今の激昂ぶりは、過去をそれを遥かに凌駕している。完膚無きまでに叩きのめさなければ、彼女の憤怒は鎮まりそうになかった。
凄まじい怒気を纏って猛追するアディナを制止させる手立てが思い浮かばず、誰もが棒立ちになっていた。
「アディナ様っ!!」
ただし、唯一の例外を除いて。
「ルカ!?動いたらだめよ!怪我をしてるのに…!」
背中の斬り傷がじくじく痛んでいたが、ルカはそんな痛みなど忘れて、アディナを夢中で腕の中に閉じ込めた。
再びルカに抱き締められた途端に、獰猛に光っていた赤い瞳が、相手を労わる切ないものに変化していく。蹲った男などそっちのけで、アディナはルカの傷を確認し始めるのであった。
「はやく、はやく手当を…っ」
「大した怪我ではありませんから。落ち着いてください」
「あなたが血を流してるのに、落ち着けるわけないわよ!」
感情が昂るあまり、アディナの瞳からはぽろりと涙が溢れる。
その隙をみて、どうにかオーウェンが指示を飛ばし、思いも寄らない逆襲を受けたモーロスは捕らえられていた。
「アディナ様」
「なによ…」
透明の雫を愛おしそうに指ですくいながら、ルカは努めて穏やかな話し方をした。まるで「大丈夫ですから」と言い聞かせるように。
「約束を守ってくださって、ありがとうございます。貴女を守れた自分が、誇らしいです」
「約束…?あ…」
───『俺に守らせてください』
アディナの脳裏に、海の上で交わした約束が鮮烈に蘇る。またひと筋、涙が頬を伝った。
「だからこれは、名誉の負傷ってやつですよ」
「……ルカの馬鹿…」
アディナは顔をくしゃりと歪め、それからゆっくりとルカの肩口にうずめた。
「アディナ様に言われたくないですね。大人しく守られてくださいよ。なんで反撃に転じてるんですか」
「……体が自然に動いてたのよ」
「自然に急所を狙える規格外の令嬢は君だけだろうな」
「オレが肩を貸してやるよ」
硬直から解かれたクライヴとカレブが駆け寄り、ルカを手助けしようとした。ところが、ルカは首を横に振って遠慮の意を示す。
「怪我人は素直に甘えた方がいい。さもないと…」
「じゃあわたしがルカを担ぐわ。クライヴ殿下、背負った後でわたしとルカを紐で縛っていただけますか」
「…ほら。大変なことになるぞ」
「…申し訳ありません。お願いします」
「おうよ」
ここはルカが折れるしかないらしい。
諦めてカレブの肩を借りることを受け入れた。斬り裂かれた背中が痛々しく、彼を見送るアディナも苦しげな表情をしていた。
「………ルカ…」
アディナは彼の血が付着した自分の手を見下ろし、きつく眉根を寄せる。そんな彼女に後輩二人が黙って寄り添い、同じような顔をするのだった。
式典は一時中断となったが、オーウェンが先頭に立って騒ぎを鎮めたことで、民衆達も平常心を取り戻していった。同時に、彼の指揮能力も衆目の認める結果となった。
国王の意向で式典の続行が決まり、ルカを送り届けたカレブが戻り次第、残りの儀式も執り行われた。顔色は良くないもののアディナは独り、最後まで毅然とした態度で臨んだのだった。
しかし、自国の名代として立派に振る舞っていたのは、退場するまでである。城の中に一歩入った瞬間に完璧な外面は崩れ去り、アディナは一目散に走り出したのだった。
大人の男を撃沈させるだけの脚力は伊達ではなく、あっという間にエミリー達の視界から消えてしまう。
ルカの怪我が致命傷ではないことくらいわかっている。だからといって、平常でいられる訳ではない。アディナは息を切らせて、彼が運ばれた部屋に飛び込んだ。
「ルカ!!」
「アディナ様」
「怪我の具合はどうなの?大丈夫?」
詰め寄るアディナの顔は若干怖かった。それだけ、ルカのことで心を痛めているのだ。
窓から差し込む西日が、眉尻の下がった横顔を照らす。
「皮一枚斬られただけです。こんなのかすり傷ですよ」
「何がかすり傷よ。あんなに血が出てたくせに」
アディナはルカの背中に手を伸ばし、白いシャツの上に指を滑らせる。うっすらと包帯の模様が透けており、彼女は声を詰まらせた。
「そんな顔をしないでください。あそこでアディナ様をお守りできなかったら、俺は自分を呪っていたところです」
「…ごめんなさ」
「謝ったりしたら怒りますよ」
「……身を呈して庇うんじゃなくて、敵の凶刃を捌いた上で倒しなさい」
「急に手厳しくなりましたね」
「………」
口を尖らせて睨んでくるアディナは、少し涙目になっていた。
「…アディナ様。今だから白状しますけど、例の作戦のアレ、演技じゃなかったんですよ」
「え…?」
いきなり何の話だろうと、アディナは困惑した。それが『冤罪なすり付け大作戦』だと悟っても、依然としてルカの言いたい事がわからなかった。
「血溜まりに倒れてる貴女を見た時、本物の血じゃないってわかっていても。苦しんでいる様子も全部偽物だって知っていても…駄目だったんです」
血塗れのお腹を抑えて歯を食いしばるアディナが、次第に演技だと思えなくなってしまったとルカは言う。恐らく演技力云々ではなく、明らかなフリだろうが何だろうが、傷付き苦しむアディナは見るに堪えなかったと。
あの時、無理矢理暗記させられた台詞をなぞることはできたが、そこに込められていた感情は紛れもなく本物だったとルカは語る。
「貴女が血を流すことは、百兆歩でも譲れませんので諦めてください。俺は何があっても約束通り、しぶとく生き残ってみせますから」
「…二人で帰るんだもの。そうでないと困るわ」
ようやくアディナは、ちょっとだけ笑った。その事にルカは胸をなでおろすのだった。
「…ねえ、ルカ」
「はい、アディナ様」
「実わたしも、最後の台詞は演技じゃなかったの」
「最後の台詞…?」
ルカは頭を捻って彼女の台詞を思い出そうとした。確か最後は…
───『永遠に愛しているわ』
カッと一瞬で真っ赤になったルカを見て、アディナはいつもみたいに「ふふっ」と笑うのであった。
背中の傷は、ルカがかすり傷だと称していた通り、さほど深くもなく、すぐに塞がるものだった。しかし、アディナは包帯が取れるその日まで、毎日欠かさず怪我の具合を尋ねた。「ねえ、ルカ」から始まる定番のやりとりに、ここ一週間は「傷はどう?」という質問が必ず加わる徹底っぷりである。
普通は少しくらい鬱陶しくなりそうなところだが、ルカに限ってそれは有り得ない。尋ねられる度に、困ったように笑いながら「大丈夫ですよ。ありがとうございます」と飽きることなく返していた。
「……あの、アディナ様。そんなに見られると着替えにくいのですが…」
「上半身しか見てないわ」
「そういう問題ではなく」
包帯が取れたら終わりかと思えば違った。
ルカの着替えを、アディナがガン見してくるようになったのだ。恥じらう必要も需要も無いのだが、如何せんやりにくい。
「だったらルカも、わたしの着替えをまじまじと見ればいいじゃない」
「お願いですから奥ゆかしさを大切にしてください」
「恥ずかしいけど、ルカなら良いって言ってるのよ」
「ぐっ…」
互いの着替えをガン見し合うなんて、夫婦の間でも早々しない。というか、絵面がおかしい。
「……痕になってしまうのかしら」
不意に悲しげな呟きが聞こえてきて、ルカはやれやれと思った。手早く着替えを済ませると、ベッドに腰かけているアディナに歩み寄っていく。じいっとルカを見つめながら彼女は目を瞬かせており、それがまた何とも愛おしい仕草に映った。
ルカは吸い寄せられるようにアディナを抱きしめ、そのままベッドに押し倒した。柔らかな衝撃で艶やかな金髪が散らばる。
「…ルカ?どう、したの?」
もちろん加減しているのだろうが、ルカにのしかかられて、アディナは少々息苦しかった。だが、戸惑いがちに呼びかけてても、ルカが放してくれる気配は無い。
「…名誉の負傷だって、言ったじゃないですか」
「え、ええ…」
すぐ横からくぐもった声が発せられる。アディナはその声に耳を傾けた。
「言わば勲章ですよ?痕が残ったって良いんです」
「…そう」
傷跡がある箇所を避け、おずおずと広い背中に手を伸ばす。そろそろ本格的に苦しくなってきたので、軽くトントンと叩けば、ルカはやっと体を放してくれた。
「ですが、貴女がいつまでも哀しそうな顔をするなら、何が何でも消してやります」
「…ふふっ、どうやってやるのよ」
アディナに負けず劣らずの物言いに、思わず笑い出してしまう。すると、その顔が見たかったとばかりに、ルカはほのかに色付いた頰を両手で包んでから、そっと唇を重ねた。
「俺は世界で一番、貴女の笑顔が好きです」
「あら、笑顔だけ?わたしはルカの全部が大好きよ」
「それは狡いですよ…」
そんなの、ルカだって同じに決まっている。
「愛しています、アディナ。永遠に」
真っ直ぐな意趣返しに、アディナはとびきりの笑顔で応えるのだった。




