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 モーロスは廊下の向こうから颯爽と歩いて来る人物に気が付き、軽く頭を下げた。すると相手は優雅に腰を折る。単純な所作にこそ、培われてきた品性が現れるというもの。彼女のお辞儀は例えるなら、精錬された純金のようだ。


「お久しぶりですな、アディナ嬢。お会いしない間に、ますます美しくなられたようで」

「まあ、お上手ですわね、モーロス様。ところで今、少しだけお時間よろしいでしょうか?お耳に入れたいお話がございます」


 対面する二人は表面上こそ和かだが、腹には一物を抱えていた。


「ほう、何でしょう?」

「ここではあまり……場所を移しても構いませんか?」

「もちろん」


 アディナが入ったのは、普段あまり使われていないと思われる、がらんとした部屋だった。そういった部屋は王城に幾らでもある。

 悠然とした笑みを崩さず、アディナは部屋の扉を閉じるなり、はっきりと言い渡した。


「リチャード王子に毒を盛り、オーウェン様を付け狙っているのは、モーロス様ですね」


 真正面から先制攻撃を受けたモーロスは、微かな動揺を見せたものの難なく取り繕う。


「いやはや何を仰るのかと思えば。私が可愛い甥を害そうなどと、そんなまさか」

「わたしの目は誤魔化せませんわよ。罪の告白は早い方がよろしいかと思いますが?」

「大した自信ですな。証拠も無いのに王弟である私を非難するとは…不敬罪で訴えられても良いのですか?」

「証拠ならありますわ」


 その言葉に、モーロスの片眉が動いた。


(まさか…そんなはずはない。(ここ)の証拠は完璧に消した。だが…)


 彼の目には、薄く笑い続けるアディナがひどく不気味に映っていた。

 しかし続け様の台詞を聞き、モーロスはほくそ笑むことになる。


「モーロス様から毒を混ぜるよう指示を受けたと、お城の料理人の方から言質をとりましたの」

「…ふっ」

「何か可笑しなことでも?」


 何故なら、そんな人間は既にモーロスが金を握らせて城から排除している。そもそも毒の混入を指示したのは、料理人ではなく、料理を運ぶ給仕役だ。よって、アディナが自信たっぷりに述べた証拠は、完全なるハッタリである。


(適当な証拠を並べれば、私が尻尾を出すとでも思ったか。愚かな…さて、私をコケにしてくれた落とし前を、どうつけてもらおうか)


 彼女の美しい顔が歪むのを見るのは、気分が良さそうだ。モーロスは人好きのする笑顔の下で、醜い素顔を覗かせていた。


「…黙っていようと思ったのですが、私を陥れようとなさるのなら、仕方ありません」

「?」

「他国の城で逢引なさるほど、ガーバ国の皇子と随分親しいようですな」


 つい先日、モーロスはひと気の無い暗がりで、カレブがアディナを口説いている場面を目撃していた。会話までは聞こえなかったが、遠目にキスを交わしているのは確認できた。色恋に関して様々な噂が飛び交う彼らが、禁断の恋に燃えるのはあり得そうな話だ。

 不貞を見られた場合の反応と言えば、取り乱すか、開き直るかの二択だろう。例に漏れず、流石のアディナも落ち着きを失っていた。


「!あ、あれは…カレブ様が一方的に迫ってきただけですわ。わたしは夫に対して、不誠実な真似はいたしませんっ」

「これはこれは、とんだ熱愛っぷりで」


 あの行為が無理矢理であるかはさておき、アディナの気持ちがルカにあるのは、モーロスにとって好都合でしかない。彼の笑みがますます深く、そして憎らしいものなる。


「しかし、かの国は一夫多妻制。気に入った女人は人妻であっても奪い取るとか」

「…何が仰りたいのでしょうか」

「私がカレブ皇子を唆したら、貴女の夫ごときでは太刀打ちできぬでしょうなあ」


 アディナは大きく目を見開いた。彼女の顔からは、表情という表情が消えていた。

 それを見たモーロスは厭らしい笑みを浮かべ、畳み掛けるように言葉を重ねる。


「第一、リチャードが臥せっている時に不謹慎ではありませんか。皆の心配の目が甥に向いているのを良いことに、ご自分は夫以外の男と逢瀬とは…ソルジェンテ国の道徳心はどうなっているんですかねぇ」

「………」

「残念ですよ。口外するつもりなど毛頭無かったのに。いくら温厚な私といえど、偽りの糾弾をされては黙っていられません。さて、どうなさいますかな?カレブ皇子に宛てがってほしいですか。愛する旦那さんに残酷な事実を伝えてほしいですか。私は優しいので、どちらか選ばせて差し上げますよ」


 俯いてしまったアディナの表情は、窺うことができない。だが、腹のあたりで握り締めた手は、血の気が引いて真っ白だった。

 したやったりと、モーロスが勝ち誇った瞬間。アディナが顔を上げた。燃えるような色彩の瞳がモーロスを捉える。そこにいつもの

 快活な光は無く、濁った闇だけが淀んでいた。


「うふふっ…どちらもお断りですわ…」


 ゆらりと一歩、また一歩と近付いてくるアディナは、どこか狂気じみていた。


「……夫に捨てられるくらいなら…」

「!や、やめろっ!!」

「……他の男のものになるくらいならっ」


 アディナが振りかざした右手に、鈍く光る物を見つけたモーロスは、腰に帯びていた短剣を抜いた。それを震える両手で構えて威嚇するが、アディナは止まらない。


「あなたを殺してわたしも死ぬわ!!」

「ひぃっ!!!」


 ぞっとするような笑みが、モーロスの身を竦ませる。

 正気を失ったこの女ならやる、そんな恐怖でいっぱいになったモーロスは、短剣を突き出したままの体勢で反射的に目を瞑った。しかし予期していた痛みは終ぞやって来なかった。その代わりに…


「きゃあぁぁぁっっ!!!」


 女の甲高い悲鳴が、部屋の扉を突き抜けて廊下中に響き渡る。

 恐る恐る瞼を持ち上げたモーロスが見たのは、震える己の両手が握る短剣が、アディナの薄い腹に突き刺さっている光景だった。


「!?」


 仰天したモーロスが大きく後ずさると、支えを失った短剣は、無機質な音を立てて床に落ちた。

 刺した、のか?自分が。いやしかし、これは正当防衛ではないか。先に襲ってきたのはこの女だ。

 モーロスは真っ白になった頭で、必死に言い訳を並べる。そうしている間にも、アディナの腹に咲いた赤い花が、どんどん大きくなっていく。美しい彼女の顔は苦悶のゆえに歪んでいた。


「ここだ!ここから女の悲鳴が聞こえた!」


 アディナの悲鳴を聞きつけた人間が、駆けつけたらしい。まだ状況が飲み込めないモーロスは、額に玉のような汗をかいて狼狽えた。彼が口をきけないでいると、またしてもアディナが声を張り上げた。文字通り、血反吐を吐くような絶叫だった。


「助けてくださいませっ!!モーロス様に、モーロス様に襲われましたっ!!」

「なっ!?」


 その直後に扉が開け放たれ、カレブとルカ、さらには数名の騎士が雪崩れ込んでくる。

 彼らが見たのは、血に濡れた短剣と、おびただしい量の血を流すアディナだった。そして先程の只ならぬ悲鳴と「襲われた」という供述。何が起きたのか一目瞭然であった。


「騎士ども、さっさとこの殺人犯を捕まえろ!!」

「ち、違う!!私は何もっ」

「アディナ!!」


 カレブが恫喝するかの如く怒鳴ると、モーロスは首を横に振って否定を述べようとした。ところが、ほぼ同時にアディナの体がぐらりと傾き、ルカが切羽詰まった叫び声を上げたために、反論の言葉は誰の耳にも届かずに掻き消えた。


「私ではな」

「しっかりしろ!アディナ!!」

「この女が」

「嘘だと言ってくれ!ああっ、どうしてこんな…!駄目だ、眠るな!!」


 自身が血で汚れるのも構わず、ルカは無我夢中でアディナを抱き起こす。彼が膝をつくと、血の海からびしゃりと耳障りな音が鳴った。

 変わり果てた妻の姿にひどく取り乱し、叫びすぎて掠れた声で何度も彼女の名前を呼ぶ。その背中があまりに哀れだったのか、カレブは目を背けていた。


「頼む…っ、死なないでくれ!俺をおいて逝くな…!」

「ルカ……ごめんなさい…」

「アディナ…!」

「永遠に…あいし、て…いるわ……」

「アディナぁぁぁ!!」


 目に涙を溜め、声を震わせ、最期に精一杯の愛を伝えようとするアディナ。

 健気な姿に胸を打たれた様子のカレブは「二人にしておいてやれ」と、目頭を押さえながら騎士達を促すのだった。




 私は何もやっていない!と喚き散らす声が遠のき、二人がいる部屋に静寂が訪れる。


「……………行った?」

「……………そのようですね」


 小声で囁き合った後、ルカに抱き締められていたアディナはカッと目を開けた。


「作戦成功ね!」

「はあ…恥ずかしくて、顔から火が出そうです…」

「わたしもあんな風に熱愛に呼ばれて、幸せという名の炎で焼かれそうだわ」

「もう勘弁してください…」


 死にそうになっていたはずのアディナは、何事も無かったかのようにピンピンしていた。血生臭いドレスを着ているのに、彼女の顔は血色が良いどころか、喜色満面の笑みが浮かんでいるという、ちぐはぐな姿だ。


「…アディナ様、そろそろ離れてもらえませんか」

「いいじゃない、もうちょっとくらい。あと、もうアディナって呼んでくれないのかしら?」

「馬鹿みたいに呼びまくったじゃないですか。それより貴女に怪我が無いか心配なんです。引っ付くのは、無事を確かめてからにしてください」

「ルカったら心配性ね。あれだけ練習したんだから大丈夫よ」


 そう。まさしくこれが『冤罪なすり付け大作戦』なのであった。

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