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 帰国が大幅に早まったものの、すぐに船のチケットが手に入ったのはラッキーだったとしか言いようがない。それはいいが、船旅の疲れが取れたと肩の力を抜いていたマーニャ達は、主人の気まぐれに振り回される羽目になった。しかしながら、仕えている主人が右へ行くなら右へ。左へ行くなら左へ行かねばならないのだ。どのみち、すまなさそうに頭を下げる主人の姿を見てしまうと、怒りの感情など湧いてきようがなかった。

 はた迷惑な主人ことアディナは、船の甲板で夜風に当たっていた。そこへやって来たのは、上着を手にしたルカだった。


「お体が冷えてしまいますよ」

「ありがとう」


 ルカが上着を羽織らせてくれると、いつのまにか冷えていた腕がじんわりと温かくなっていく。


「お屋敷に戻ったら、どうなさるおつもりですか?」

「まずはお父様とクライヴ殿下に事情説明ね」

「承知いたしました。ところでアディナ様」

「なにかしら?ルカ…」


 隣を見上げたアディナの瞳と、こちらをじっと見つめる真摯な瞳が交わった瞬間、心臓が高い音を立てた。


「俺は、大切な人達のために危険を冒すことも恐れない、そんな貴女が好きです。だから貴女が進もうとする道を、阻むような真似はしません。その代わり…貴女のことを俺に守らせてください」


 暗い海から吹く潮風が、美しい黄金の髪を乱す。


「死地へ飛び込むなら必ず俺も道連れにすると、約束してください」


 有無を言わせぬ語調は、アディナの魂に強い揺さぶりを与えていた。何という熱烈な愛情なのだろうか。今度はじんわりとではなく、燃えるような血潮が全身を駆け巡る。

 やや上擦った声になりながら、それでもはっきりと、彼女はルカに応えた。


「わかったわ、ルカ。どんな時もあなたと一緒よ」

「お願いします」

「でも、わたしからも一つ言っておくわ」


 アディナはおもむろにルカの手をとり、そのまま両手で包み込む。そして、彼と似通った懸命な表情で言い聞かせるのだった。


「ルカが守ってくれるのは本当に心強いし、とても嬉しいわ。だけど、わたしを庇ったためにあなたが犠牲になるなんて、絶対に許さないから」


 夜の闇の中でも煌めきを失わない赤薔薇の瞳に、ルカは魅了されて息を呑む。


「そんな結末を迎える物語は、美談だとしても願い下げだわ。わたしが望むのは、泥臭くても見っともなくても、しぶとく生き残る続編よ。もちろん二人で、ね。だからたとえ道連れで死地に赴いたとしても、必ず一緒に帰るわよ」

「はい。仰せのままに、アディナ様」

「あと『ここは俺に任せて先に行け!』は禁句だから覚えておいて」

「はい?」


 二人には今後、大きな陰謀に引き摺り込まれる、確信めいた予感があった。だが、波乱の幕開けを感じながらも、脅威に慄くことはなかった。強く握り返してくれるこの手がある限り、どんな壁が立ちはだかろうと屈しはしない。

 アディナとルカは今一度見つめ合うと、互いに笑みを浮かべるのだった。


「風が強くなってきましたね。船室に戻りましょう。何なら、いただいた恋愛小説を読んでも構いませんよ」

「それだと約束が違うわ」

「いいんですよ。新婚旅行は中断になりましたし、こんな場所でぼんやりされるより、目の届くところで読書に没頭していただいた方が、俺としても安心できます」

「あらそう?なら、遠慮なくハーレムの泥沼に浸からせてもらうわよ」

「……判断を誤りましたかね」




 しばらく留守にすると思っていた娘夫婦が唐突に舞い戻り、ランドルフは軽い頭痛を起こした。「お前は出て行くのも突然だが、帰ってくるのも突然すぎる」とは、頭を抱えた彼の苦言である。

 似たような反応を示したのはクライヴだ。帰国するやいなや登城したアディナ達を迎え、嘆息していた。しかし、アディナの顔付きを一目見て、只事ではないと察するのも早かった。


「…リチャード王子の周囲が騒ついているのか。それは非常に不味いな」

「殿下のところに、何か報告は入ってきていませんか?」

「いや、まだ何も無い。あちらの内情がそう簡単に暴けるとは思えないが…とにかく探りを入れてみよう」


 アディナとルカは、人払いされたクライヴの私室で、見聞きしてきた出来事を伝えていた。


「アディナ、君は短い期間とはいえイゾレ国にいたんだ。何か思い当たる節はないのか?」

「……ある、と言えばあるのですが…」


 アディナにしては、歯切れの悪い口調だったので、クライヴは訝しんだ。


「どうした?」

「カレブ様ではありませんが、女の勘が働いたと言いますか…確証の無い情報なのです」

「それでも良いから教えてくれ」

「…王弟であらせられる、モーロス様が怪しいかと」


 イゾレ国に滞在中、アディナは婚姻の挨拶をするために、王族に連なる面々と顔を突き合わせた。無論、王弟…つまりオーウェンやリチャードからすれば叔父にあたる人物とも言葉を交わしている。


「モーロス様とは当たり障りの無い挨拶をするだけに終わりましたが、その際に微かな違和感を抱いたのです。カレブ様から『きな臭い』と聞いた瞬間にそれが思い出されました」

「馬鹿馬鹿しい…と言いたいところだが、女性の勘は侮れないからな。特に君の場合はね」

「殿下の直感もかなりの性能ですわよ」


 高い立場に身を置く者は、自然と危機回避能力が磨かれることも多い。鈍いままの人間もいるが、クライヴやアディナはそうではなかった。効率良く立ち回るべく、いつも視野を広げ、些細な不審も見逃さない。たとえ女の勘であっても、気の所為だとすぐに片付けたりはしないのだ。


「限られた時間内では、モーロス様が人当たりの良い仮面を被った野心家である、という噂話くらいしか得られませんでしたわ」

「それを先に言ってくださいよ」

「それを先に…って、ルカの方が早かったか。流石だな」

「どこにでも、噂が呼吸代わりの人間はいますから。ですがあくまでも噂に過ぎません。本当は野心家の仮面を被った善人かもしれませんし」

「まあ、それはそうだな。あまり聞かない人種だが」

「リチャード王子は大局を見通せる方ですし、ご自身の近くで怪しい動きがあれば気付かれると思いますが…」

「やはり不安は拭えない、か」

「ええ。モーロス様が噂以上の野心家だとしたら、リチャード王子が危ないです。それにエミリーさん達も…」


 アディナは目を伏せ、肘掛けに置いた手を握り締めた。自身の生い立ちゆえに、彼女は家族の幸せを壊す人間が許せない。

 次いで顔を上げたアディナの瞳には、静かな憤りが灯っていた。


「他国の問題だからと見て見ぬふりはできません。大きな私情を挟みはしましたが、親交に一役買った者として、わたしの名前が使えるのは幸いです」

「君はどこまでも逞しいな」

「褒め言葉と受け取っておきますわ。ねえ、ルカ」

「はい、アディナ様」

「それらしい言い訳を考えて、イゾレ国に乗り込むわよ。わたし専用の本棚にある恋愛小説を片っ端から読んで、参考にしましょう」

「恋愛小説である必要性はどこに?」

「…健闘を祈るよ。私はソルジェンテ国を離れられないが、助力は惜しまない。気兼ねなく頼ってくれ」


 作戦を練ることに燃えるアディナであったが、彼女の努力が実る前に最悪の悲報が舞い込んでしまう。


 ───リチャード王子が倒れた


 その一報を受け取ったアディナは、終始ただ無言を貫いていたという。




 そもそも何故、長子相続の根強いイゾレ国で、兄弟間の継承権争いが勃発していたのか。

 リチャードは王子として、弟のオーウェンにひどく劣っていた訳でもない。二人とも王妃の嫡子で、出自にも何ら後ろめたいことは無かった。けれどもたった一つだけ、健康面に一抹の不安があったのだ。リチャードは生まれつき心臓に持病を持っており、将来的な懸念が弟のオーウェンを支持する人間を生じさせる要因となっていた。

 だが持病と言っても、投薬を受けていれば健常者と同じ生活ができる程度であったため、王位を継ぐことにさほど問題は無かった。


「…唯一の弱点を突かれてしまった、ということですか」


 そう力無く述べたのはルカだ。

 持病を悪化させる微弱な毒が混ぜられていたと判明したのは、リチャードが心臓の痛みを訴えて倒れた後だった。命に別状はないらしいが、今後、心臓に負担のかかることは厳禁の身体になってしまった。それはつまり、彼が次のイゾレ国王になるのは不可能であることを意味していた。

 そして、リチャードを苦しめた犯人は、未だ手掛かりさえも掴めていない。


「………なんて事を…!」

「っ、アディナ様!?」


 口を噤んでいたかと思えば、突如アディナは右手を振り上げ、勢いよく拳を机に叩きつけた。ダン!と激しい音が別邸に響く。すぐにルカが止めに入ったものの、手加減無しに打ち付けられたアディナの手は、内出血を起こして赤くなっていた。

 国境を跨ぐような遠い地で起きた事件。イゾレ国の民ですらないアディナに、阻止する手立ては皆無に等しい。それでも、予め危機を察知していながら、敵が犯行に及ぶのをみすみす許してしまったのは、悔しくて悔しくてたまらなかった。

 アディナにはどうする事もできなかった、その事実がひたすら憎いのだ。


「…偉そうに宣っておいて、このざまなんて…心底情けないわ」

「………」

「ここへ戻る手助けをしていただいたのに、これでは申し訳が…」

「アディナ様!」


 その時、怒りと悲しみに震える両肩をルカが掴んだ。少し痛いくらいの力で掴まれ、アディナは我に返ったかのように、目を大きく見開いた。


「アディナ様なら巻き返せます!リチャード王子の件は本当に残念でなりませんが、まだ物語は完結していませんよ。だったら、ここからが正念場じゃないですか!」


 ルカは必死の形相で訴える。

 これまでは何もできなかったかもしれない。ならば、これから行動を起こせば良い。幸いにして、死者は出ていない。

 このまま誰一人死なせず、事件を解決に導くことはまだ可能だ。


「責めるべき相手を、見誤らないでください」


 赤くなってしまった手にそうっと触れ、ルカはそう懇願した。痛ましげに眉根を寄せるルカを見て、アディナは小さくごめんなさいと謝った。


「……ついカッとなってしまったわ」

「それは誰にでもあることですが、ご自分を傷付けるのはいけません」

「こんなの、唾をつけておけば治るわよ」

「…そんな民間療法、どこで覚えたんですか?というか駄目ですからね。きちんと手当てしますよ」

「ちょっと強引なルカも素敵ね」


 下らないことを言えるだけ、アディナが持ち直した証拠である。ルカはふっと目尻を和らげると、今度は打って変わって、甘い声色で告げるのだった。


「誰かのためにあれほどの義憤を抱ける貴女は、もっと素敵ですよ」

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