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 初日に相手してもらえなかったのが堪えたのか、滞在二日目はエミリーの訪問が短く終わった。ところが彼女は去り際に、とんでもないものを残していってくれたのだった。


「アディナ様!こちらはガーバ国限定の恋愛小説です。一夫多妻ならではの泥沼は必見ですよ!」


 皇帝が統治するガーバ国は、エミリーが言った通り一夫多妻制である。身分差ももちろんあるが、それよりもハーレム内のバトルが人気を博しているのだ。アディナの瞳が輝くのも無理はなかった。

 恋愛小説の山を届けるだけ届けて、エミリーはオーウェンに手を引かれて帰って行った。仕方ないのでルカは、お茶の準備をしましょうかと尋ねる。これだけのお宝が目の前にあるのだから、当然のごとく読書タイムが始まると思ったのだ。だが、アディナは何故か怪訝そうな顔をしていた。


「別に喉は乾いていないけど?」

「え?俺はてっきり今からお読みになるのかと」

「せっかくルカと旅行に来ているのに、そんなもったいないことはしないわよ。これは帰ってからのお楽しみにしておくわ」

「アディナ様…!」


 三度の飯より恋愛小説が好きなアディナが、ルカのために読書を後回しにしてくれるらしい。ここで感激しなくて、いつするというのか。


「今日は一日中デートといきましょう。ねえ?ルカ」

「はい!アディナ様」

「わたし、象に乗ってみたいわ!」

「象でもラクダでも何でも乗りましょう。俺と一緒に」


 ついでに今夜のカーニバルも二人きりで回りたいと思う、なかなかに心が狭いルカであった。


 宿屋を出て、街へ一歩繰り出せば、アディナは注目の的だ。

 強い日差しが照りつけるガーバ国では、日に焼けた肌の人間がほとんどで、ついでに言えば金髪も珍しい。そんな中、雪肌に黄金色の髪が映えるアディナは否応無く目立った。加えて、美女に対する認識は万国共通。自国で目を惹く女性は、他国でも同じなのだ。


「馬と象ではやっぱり迫力が桁違いね」


 呑気に象を見上げるアディナとは反対に、ルカは気を揉んでいた。さっきから、男達の視線が大事な妻に集中しているのだ。落ち着ける訳がなかった。いっそ奇声でも発して、下心丸出しの視線を剥がしてやろうか。

 わかっていた事だが、ルカに擦り寄る女性など影も形も無い。アディナの懸念は取り越し苦労である。


「ルカ、どうしたの?もしかして日射病になった?」

「そうではありません」

「ラクダの方が良かったとか?」

「それも違います」


 ルカに腕を絡めるアディナが、心配そうに覗き込んでくる。大好きな趣味を封印してでも、ルカとのデートを優先してくれたのに、これでは申し訳が立たない。ルカは気持ちを入れ直すことにし、アディナに笑いかけた。


「すみません。ちょっと考え事をしてました」

「わたしが隣にいるのに考え事?臍を曲げちゃおうかしら」


 以前に「他の方のことは欠片も気にしていない」と豪語していた通り、アディナは他所の男など眼中に無いのだろう。無駄な嫉妬は、するだけ損だった。


「それは困りますね」

「余所見している間に、わたしが象にモテモテになっても知らないから」

「象にモテる気でいるんですか?」


 どうやら今のアディナの興味は、ルカと象にしか向けられていないようだ。ここまでくると、彼女を見てそわそわしている男達が、相手にされなさすぎて哀れである。


「ほら、わたし達の順番が来たわ。ちゃんと支えていてね」

「お任せください」

「先に言っておくけれど、変なところに触っても怒らないわよ」

「普通は怒るって言うところだと思います!」

「確かに物語だとアクシデントにかこつけて、胸を鷲掴みにされる展開よね。でもわたし達は夫婦なんだもの。触りたい放題、触ればいいわ」

「露骨すぎて逆に触りにくいですよ…」

「あら。ルカは奥ゆかしいのが好みなのね」

「好みと言われるとまた違う気が…」


 降って湧かねば『ラッキースケベ』とは呼べない。お触りオッケーの状態で胸を揉んだら、それはただの『スケベ』に成り下がる。ちなみにルカは何も揉まずに終わった。


 乗馬では味わえない高さを充分に堪能したら、次は腹ごしらえ。香辛料の効いた独特の味付けがクセになりそうだった。その次はお土産選びと、二人はデートを目一杯楽しんだ。

 歩き疲れ、木陰で少し足を休めていた時、アディナはぽつりとこぼしたのだった。


「…何度も二人で出かけた事はあったけれど」

「はい?」

「やっと、本物のデートができるわね」


 かすかに火照った顔で、しんみりと言うアディナ。その口元には優しい笑みが浮かんでいる。

 いくら心の中でデートだと思い込んでいても、アディナの隣にルカはいなかった。いつだって半歩後ろで、支えてくれる手には白い手袋があった。でも、今は違う。

 アディナの喜びがルカにも伝わり、たくさんの温かいものが胸の奥に降り積もっていく。


「アディナ様…」


 ルカの手が、滑らかな頰に伸びる。少しだけ硬い男らしい手に、アディナも猫のように甘えた。愛おしげにルカの名を呼び返せば、彼の顔が近付いてくる。全てを委ねるつもりで、アディナは瞳を閉じた。そして優しく落とされる口付けに、いよいよ胸がはち切れそうになる。唇が離れた後、互いにほうと熱い吐息をもらす。


「……あまり外で、可愛らしいことを言わないでください。我慢できなくなります」

「我慢しなくていいのよ…?」

「っ、そういうところですよ」

「妻として、夫の有り余る肉欲を受け止める覚悟はできているわ」

「その台詞は外でも中でもアウトです!」


 野外で甘ったるい空気を垂れ流すのもアレだが、まったくもって台無しである。


「ルカこそ照れ隠しだって何度も言わせないで!」

「すみません!?」


 喚くアディナの顔は、暑さを言い訳にできないほど赤くなっていた。




 陽が傾き始めると、街中に松明の火が灯される。あちこちの家から派手に着飾った人々が出てきて、街は賑わいを増していく。

 灼熱の国で催されるカーニバルは、土地柄ゆえかそれはそれは盛り上がる。ソルジェンテ国の上品なパーティーとは何もかもが違う。


「一般人に紛れてお祭りに参加するなんてワクワクするわ」


 初めて尽くしのアディナには、瞳に映る全てが輝いて見えた。浮き足立つ妻に、ルカは苦言を呈す。


「俺から離れないでくださいよ」

「頼まれなくても引っ付いているわよ」


 …と、勇んで話していたのが数刻前のことである。

 予想を遥かに上回る人混みと熱気に、二人は呆気なく離れ離れになってしまっていた。気がついたら、アディナがしっかり握っていたのは、見ず知らずの人の手だった。とりあえず人集りの中心からは逃れてきたが、今日ばかりはすぐにルカを見つけるのは難しそうだ。


(宿屋に戻るという手もあるけど…はぐれた時は動かない方がいいわよね)


 その場に留まり目を凝らしつつ、アディナは懸命に焦げ茶色の頭を探す。探すのに気を取られて、彼女にしては周囲への注意が散漫になっていた。


「別嬪さん見っけ」


 その男の気配を察知したのは、かなりの接近を許してしまった後だった。声がかかるまで気付けないとは、何たる不覚。アディナはハッとなり、急いで警戒を強める。


(…単なる好色家ではなさそうだわ)


 それが、男の第一印象だった。

 見るからに軽薄そうで、溢れんばかりの色気を纏う男には、どこか威厳みたいなものがあった。礼を欠かないよう注意を払いながら、距離を取るべく機会を窺う。


「この国の者じゃねぇな。イゾレか?ソルジェンテか?見れば見るほど色白美女だ」

「あなた様はガーバ国の方のようですね。それも、かなりのご身分とお見受け致します」

「へえ、鋭いな……ん?お前、結婚してんのか」


 男がアディナの左手に触れようとしたため、素早く身を引いて躱す。思いがけず空を切った手に、男はぱちりと目を瞬かせていた。


「わたしに触れることを許したのは、この世でただ一人。それはあなた様ではありません」


 常日頃から恥じらいや慎みをどこかへ放り投げ、ルカを困らせるアディナであるが、彼女には本来、貴族然とした高潔な貞操観念が備わっている。『共謀者』ならともかく、名前も知らない男に触らせるなど、手首を切り落としてでも阻止してみせる。

 まったく臆せず言い切ったアディナに、男は口の端を釣り上げた。


「…いいねぇ、ぞくぞくする。人妻ってのも唆るわ。どうだ?オレと一夜の過ちを犯そうぜ」


 そんな爛れたお誘いは、死んでもお断りだ。相手の素性が不明確なまま、行動を起こすのは危険だがやむを得ない。密かにアディナは右足に力を入れて構えた。狙うのは急所…そうシミュレーションした直後のことだった。


「っ!?」


 自慢の脚力をもってしても蹌踉めくほどの勢いで、思いっきり腕を引っ張られた。不意を突かれ、さしものアディナもたたらを踏んでしまうが、同時に力強く肩を抱かれる。おかげで怪我ひとつ無い。この手はもしや───


「アディナは、俺の妻です」


 初めて耳にする、怖いくらいに険しい声音。

 でも、声の調子は違えどアディナが聞き間違える事は決して無い。弾かれたように見上げた先、焦げ茶色の双眼からは鋭い眼光が放たれていた。

 うっすら汗ばむ肌、乱れた呼吸。それだけで、ルカが必死になって探してくれたことは明らかだった。そしてアディナの窮地を目の当たりにし、優しくする余裕を失くしたのだろう。彼らしくない乱暴な手付きと、独占欲に満ちた呼び声が、アディナの全身の血を沸騰させた。心臓が大きく脈打つと、その衝撃で身体中がじんじんする。


「ふうん、お前がこの別嬪さんの旦那か」

「どなたか存じ上げませんが、妻に触れないでいただきたい」

「嫉妬深い男は醜いぜ?」


 アディナは「ルカ限定で、嫉妬も束縛も大歓迎ですわ」と反論してやりたかった。だが、歓喜の波が押し寄せるばかりで引いていかない為に、思うように言葉が紡げず、声にならない奇妙な音だけが漏れる。アディナの様子が変だと気付いたルカは、すぐさま男から視線を外した。


「どうしました?大丈夫ですか」

「……ルカに…」

「はい?」

「ルカにメロメロすぎて、でろでろに溶けてしまいそうだわ…」


 何を言い出すかと思えば、ルカはずっこけそうになった。一拍子遅れてルカにも猛烈な恥ずかしさがやって来て、アディナの瞳のような赤色に顔を染め上げる。


「…その言い方、もうちょっとどうにかなりませんか」

「甘美なときめきに酔いしれて、激しく身悶えてしまうわ」

「語彙力の落差についていけません」


 ひどくのぼせたように赤面していても、心拍数が異様に上がろうとも、二人はいつものやりとりを交わしていた。昔からの癖が、もう体に刻み込まれているのだ。そんな二人を見ていた男はというと…


「…くっ…くくっ……だぁーはっはっ!!」


 大爆笑をかますのであった。

 突然、腹を抱えて大笑いし始めた男に、アディナとルカは束の間、唖然とさせられる。


「なんだなんだお前ら、面白すぎるっての!いやあ、悪い悪い。良い女を見ると口説くのがオレの流儀でよ」

「…ケダモノの中のケダモノですわね」


 少しだけ平常心が戻ってきたアディナは、遠慮無く言ってやった。しかし、それをも男は笑い飛ばしてしまう。


「そりゃオレにとっちゃ褒め言葉だ」

「ルカはケダモノの中の紳士です」

「俺はやっぱり褒められているようには聞こえませんね」

「はっはっは!二人まとめて気に入ったぞ!旦那がルカで、嫁がアディナだな。オレはカレブってんだ。ま、一応皇帝の血は入ってるが、んなもんは宮殿にうじゃうじゃいるから気にすんな」


 只者ではないと薄々感付いていたが、まさか皇族だったとは。寝耳に水どころではない。


「それでお前ら、どこから来たんだ」

「ソルジェンテですわ。ここへは新婚旅行に参りましたの」

「ああ、水の国か。アディナは良いとこのお嬢様か何かか?」

「わたしの実家はクリュシオン公爵家です」

「!クリュシオンだと…?」


 公爵家の名前が出ると、カレブは急に神妙な顔付きになった。そうすると途端に軽薄さが消え失せ、皇族にしか見えなくなるのだから不思議である。

 変わり身の早さにどうしたのかと、アディナとルカが顔を見合わせた直後。


「これも何かの縁だ。ここは一つ、友人になろうじゃねぇか」


 カレブの口から予想もしなかった提案が告げられた。既婚者と知りながら不倫を持ち掛けたくせに、次は友人希望とは厚かましい。アディナ以上に、言動の意味を測りかねる男だ。

 しばし絶句させられたルカだったが、アディナを守るように抱き寄せた後、カレブを睨みつけた。


「…謹んで拒絶したいです」

「その選択は愚かだな。ガーバ国の皇族っつうコネができんのに。あとオレ、人妻には手ェ出すけど、友の嫁には手出ししないのが信条だぜ?」

「左様ですか。ではお言葉に甘えてコネを作っておくことにします」


 清々しいまでの手の平返しであった。

 アディナが誑かされるくらいなら、ルカは気に食わない野郎とでも友人になってやる。ただしアディナに手を出そうとした瞬間に絶交だ。皇族だろうが知ったことではない。

 そして、切り替えの早さに定評のあるアディナも負けていなかった。ルカに肩を抱かれた良い気分のまま、饒舌に質問しだす。


「カレブ様。友人のよしみでお聞きしたいのですが、やはりハーレム内で散らされる火花は凄いものなのでしょうか」

「アディナ様!?マイペースにもほどがありませんかね!?」

「もうルカったら。呼び方が戻っているわよ」

「皇帝のハーレムは凄まじいぞ。あれはオレでも冷や汗もんだ」

「カレブ様もなんで普通に答えてるんですか!?」

「一度くらいは本場の空気を肌で感じてみたいですわね」

「大した度胸じゃねぇの。ルカの嫁じゃなきゃ無理矢理にでも寝取ってたわ」

「聞き捨てなりませんけど!?」

「あら?これはもしかして、ギトギト三角関係かしら」


 アディナが二人になったような会話に、ルカの疲労も二倍になるのだった。

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