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メイドから手紙を受け取り、差出人の名前を見た途端、パトリシアの目元がピクリと動いた。ざっくばらんな性格の癖に、文字はきっちりしているのが何故か腹立たしい。
『パトリシアさんへ。遠慮なく呼べと言ったけれど、新婚旅行中に駆けつけるのはちょっと時間がかかるので、予め了承してもらえると助かるわ』
「…旅行を中断して来る気ですか。来なくていいです」
字体は意外だったが、手紙の内容はアディナらしいの一言に尽きる。部屋に一人でいるにもかかわらず、パトリシアは思わずツッコミを入れてしまう。声に出たと気付くと慌てて口を手で押さえたが、遅れてやって来る羞恥心はどうにもならなかった。
『困った時は「アディナ様に言いつけるから」って威張っておきなさい。後でわたしが有言実行しに乗り込むわ』
(そんな如何にも三下みたいな台詞、絶対に言いません)
『それと、お土産の希望が書いてなかったので、わたしの趣味と独断で選ぶわよ。文句は受け付けないから』
(別にいりませんけど)
不要と思いつつも、パトリシアはこそばゆい気持ちを持て余していた。
パトリシアも、アディナと同様に特別親しい友人を作ってこなかった。色々便利だからと周りに取り巻きが集まる事だけは許していたが、自ら誰かに媚を売る真似はしていない。だから先輩に目を掛けてもらえる経験をしたことが無いのだ。そもそも経験する必要があるとも思っていなかった。
それがここへ来て、まさかの展開である。喧嘩を売ったはずの先輩から頼み事をされ、仕方なく引き受けたら、あれよあれよという間に親しくなってしまった。正確には、アディナからほぼ一方的に距離を詰められた。
(それを悪くないと感じている時点で、わたくしも……)
アディナと居ると自分のペースを大幅に崩され、終いには絆されて終わる。今までのパトリシアからしたら、考えられない事だった。
「……精々、ご旅行を楽しめば宜しいですわ」
窓の外を見上げて、こんな台詞を呟いてしまうくらいには、パトリシアも良い感じに『つっけんどんのち照れ屋さん』へと変化を遂げているのであった。
パトリシアが妙な負け惜しみをこぼしている頃、アディナとルカは海の上にいた。
「ねえ、ルカ。船旅には難破の危険が付き纏うものよね?」
「不吉なことを言わないでください」
「船が沈んだら、泳ぎ方を知らないわたしは溺死まっしぐらね」
「不吉すぎることを言わないでください」
「だからルカ、人工呼吸は任せたわよ」
「難破したら、俺も海に投げ出されるのですが」
「ルカは鈍いわね。こんなもの、キスをしてもらいたい口実に決まってるじゃない」
「だとしても、回りくどすぎません?」
「面と向かってキスを強請るなんて、憚られるもの」
「俺としては、海上で難破の話題を出すのも憚ってほしかったです」
灼熱の国へは、船で海を渡る必要がある。そのため二人はこうして、初めての船旅を満喫しているところなのだ。
新婚旅行は文字通り、新婚の夫婦二人で行くものだが、アディナ達の場合はそうもいかなかった。アディナはクリュシオン公爵家の次期当主。いくらルカが護衛の術を心得ているとはいえ、海を隔てた異国の地に二人きりで行かせるなどあってはならない。という訳で護衛の騎士も付けられているし、アディナの世話係としてマーニャも一緒という、結構な大所帯である。
しかし、皆が空気を読んで初々しい…こともない普段通りの二人を邪魔しないように配慮していた。おかけでアディナとルカは、心ゆくまで旅行を楽しめている。
「若奥様、そろそろお召し替えを。ルカさんは自分でやってください」
まもなくガーバ国に到着する。あちらは雨がほとんど降らない熱帯の国。ソルジェンテ国で着ているようなドレスでは、三十分と持たずに倒れてしまうだろう。
マーニャは出国前に手配しておいたガーバ国の民族衣装を手に、二人へ声をかけた。若奥様と呼ばれるのに、まだくすぐったさが拭えないアディナは、ほのかに頰を染めていた。
当初は一応体裁を気にして、ルカに対しても相応しい敬語を用いようとしたのだ。ところが違和感が強烈すぎて、双方の腕に蕁麻疹が出る結果となったため、公の場でもなければ今まで通りという方向になったのは余談である。
「イゾレ国の衣装とも全然違って、新鮮な感じね」
「俺は落ち着かないです」
異国の装いをしたアディナは、相変わらず完璧な着こなしを披露しており、ルカもまた凡庸な顔立ちが幸いして、別段おかしいところもない。
「ルカに擦り寄ってくる女性がいたら、思いっきり牽制してやらなくちゃ」
「それは俺の台詞なんですけど!?」
美人な妻を持つと気苦労が絶えなさそうなものだが、肝心のアディナがこの有り様では何とも。
船を降りてもしばらくは、ふわふわとした感覚が消えなかった。しかしそれ以上に、とにかく暑い。別の要因でふわふわしてきそうだ。
「春がやって来て、溶けるのを余儀なくされる雪の気持ちが痛いほどわかるわ」
「詩人目線で語っていないで、早く宿屋へ行きましょう」
「ええ。でも案内人がまだ…」
アディナが言いかけた丁度その時「アディナ様ー!!」という大きな声が聞こえてきた。すっかり異国の空気に馴染んでいるエミリーだった。それでも駆け寄ってくる姿は、相変わらず可憐だ。少し遅れて、彼女の夫であるオーウェンもやって来る。
「お久しぶりです!」
「ご無沙汰しています、アディナ嬢」
「お元気そうでなによりだわ、エミリーさんも、オーウェン様も」
着ているものは王子であった頃と雲泥の差なのに、生来の気品とでも言うのだろうか、オーウェンの佇まいには風格が漂っていた。王族の身分から一変して亡命者となり、暮らしに順応するのは生半可なことではなかったはずなのに、彼からはそういう苦労を一切感じなかった。
「もう私、アディナ様の花嫁姿に感動して…教会のステンドグラスを突き破ってでも、間近で見たかったです。それに結婚式ではお話することができませんでしたが、」
「エミリー、ひとまず宿屋へ行くのが先決じゃないかな」
「話なら炎天下じゃなくて、屋根の下で聞くわよ」
「そ、そうですね。すみません、つい嬉しくて…」
灼熱の太陽も意識の外に弾き出されるほど、エミリーはアディナとの再会を喜んでいるのだ。
手紙で惚気てくるので知っていたが、大切な後輩が幸せそうにしているのを実際に自分の目で見ると、やはり安心する。隣にいるルカは、穏やかな眼差しを向けるアディナに負けないくらい、温かな瞳で妻を見つめていたのだった。
「アディナ様にイゾレ国を案内すると言ったのに、それが叶わなかったのでずっと心残りだったんです。場所は違いますけど、やっと約束が果たせますね!」
「そういえば、そんな話もしたわね」
学生時代に戻ったような感覚に、エミリーはわかりやすく舞い上がっている。ひっきりなしに話しかけ、アディナもまた煩がらずに聞いてあげていた。
「明日の夜からはカーニバルが開かれて、国中が連日大賑わいになるんですよ」
「楽しそうね」
「一緒に参加しましょう!アディナ様」
「わたしは新婚旅行で来ているのよ?ルカと手を繋いで回るわ」
「じゃあ反対の手は私と繋いでください」
「嫌よ。迷子みたいじゃない。自分の夫と繋ぎなさい」
盛り上がる妻達の後ろで、夫達は微笑ましい視線を送っている。愛する妻が楽しそうなのは大変良いことだ。
「噂のルカ殿とお話するのは初めてですね」
「噂の…?」
「ルカ殿の淹れる紅茶は絶品だと聞いていますよ。是非とも、ご相伴にあずかりたいものです」
「まったくアディナ様は…」
「素敵な方ですね。アディナ嬢も、貴殿も」
「え。あ、お褒めに預かり光栄です?」
クライヴ以上に物腰が柔らかい青年だ。今まで周りにいなかったタイプなので、ルカも少々たじたじになる。
宿屋に到着してもエミリーはまだ話し足りないらしく、夫を放ったらかしにして、アディナにくっついていた。「流石に妬いてしまいそうです」と告げたオーウェンに対し、ルカは「そんなもの、俺はアディナ様をとられた瞬間からしてますよ」と返したのだった。妻達が楽しそうなのはいいが、ぼちぼち寂しくなってきた。
「僕の最大のライバルは、アディナ嬢かもしれませんね」
「ちなみに勝算はいかほどですか?」
「正直、あまり…」
「俺は応援してます。是が非でも頑張ってください」
「…善処します」
寂しい夫達はこそこそと話しながら、妻達の会話にもちゃっかり耳を傾けている。案外、気が合う二人かもしれない。
「そういえば髪の毛を少し切ったのね」
「はい。この方が涼しいので…」
「そう。短いのも可愛いわ」
「えへへ…そうですか?アディナ様はずっと長いままなんですね」
「ええ。ルカの好みがショートでもロングでも対応できるように備えた結果よ。短い方が好きと言われたら、すぐに鋏を入れる心づもりでいたわ」
その理由は、ルカも初耳であった。
しかしながらルカは、アディナが美しい髪をなびかせて、しゃんと歩く姿が好きなので、奇特な理由でもロングヘアでいてくれたのは有り難い。
「もう一つの理由は、髪が売れるって聞いたからよ。ルカと駆け落ちした時に、生活の足しになればと思って」
「備えあれば憂いなしですね。さすがアディナ様です!」
「俺がツッコむべきですかね…」
「さ、さあ…?」
二人が咲かせる会話の花は、まだまだ枯れそうになかった。美しい花の傍らで萎れかけている存在に気付いてもらえるのは、当分先になりそうだ。




