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 清らかな水音が聴こえてくると、夏の暑さも少し和らぐ気がした。こういう時、水の国に暮らしていて良かったとしみじみ感じる。


「ねえ、ルカ」

「はい、アディナ様」


 とは言え、立派な屋敷の別邸では季節に関係なく、お馴染みの応酬が交わされていた。


「新婚旅行はどこへ行きたい?」

「そうですねぇ…」


 今日のアディナは恋愛小説ではなく、地図を広げている。別邸での夫婦生活にも慣れてきたので、そろそろ新婚旅行の計画を立てるつもりなのだ。お互いに「二人一緒ならどこでもいい」という意見で一致しているため、行き先が定まらずにいたが、いい加減決めなければならない。


「灼熱の国ガーバはいかがです?」


 ルカはアディナの表情を横目で窺いながら、そう提案した。確かに何処でも構わないとは思うものの、アディナには一つだけ旅行先の候補が思い浮かんでいた。でも、ルカの行きたい場所があるなら、そちらを優先する気でいたので、奇しくも彼と希望が被ったのはアディナを大いに喜ばせた。


「わたしもガーバ国がいいんじゃないかと思っていたの!決まりね!」


 嬉しそうに手を叩くアディナに同調し、一緒になって笑うルカだが、彼はちゃんと解っていた。

 灼熱の国ガーバには、亡命していったエミリーとオーウェンがいる。

 未来の公爵夫妻が海を渡る長旅へ、ほいほい出掛けられる訳もなく、手紙でのやりとりが精々だった。新婚旅行のついででもなければ、顔を合わせる機会が無い。アディナはおくびにも出さないが、可愛い後輩に会えない寂しさを抱えている事をルカは見抜いていた。

 そして、優しいルカが気を遣ってくれたのだと、アディナもまた感付いており喜びも倍増だ。


「じゃあ今夜のパーティーは、さくっと済ませましょう!」

「建国記念パーティーを『さくっと』で済ませちゃいけません!」


 結婚しても相変わらず、ルカの悲鳴は木霊するのであった。




 執事だった頃は会場入りを許されなかったルカだが、今年からは違う。アディナの夫として、パーティーに同伴できるのだ。


「やあ、二人とも。楽しそうで何よりだ」

「わたし達の結婚式以来ですわね、クライヴ殿下」

「その節は重ね重ね、ありがとうございました」

「ごく普通の式で、いささか拍子抜けだったよ…なんて冗談だが」

「やはりインパクトに欠けましたわよね」

「冗談でもやめてください。感謝の気持ちが薄れそうです」


 有ること無いこと噂される二人だが、クライヴからしたら、どこまでもしっくりくる光景なだけである。ここに至るまでのアディナの努力を知る数少ない友人だからこそ、いっそう深い感慨があった。


「殿下は楽しくなさそうなご様子ですが、笑顔の振り撒きに疲れたのですか?」

「ははっ、『共謀者』がいないと、なかなか苦労があってね」

「でしたら一刻も早く、新たな『共謀者』を据えるべきですわ」

「君ほど打たれ強さに定評がある人間は、そう簡単に見つからないだろうな」


 アディナはあのランドルフが唸るほどの、肝っ玉の持ち主なのだ。へこたれなさは天下一品、嫉妬の荒波に突き落とされても、平然と泳げるような令嬢はそうそういない。


「人は誰かを好きになると、思いもよらない力を発揮するものです。か弱いご令嬢でも、覚醒して倍の力を出せれば、何とかなりますわよ」

「謎の理論を展開しないでくれ」

「では、か弱くないパトリシアさんはいかがですか?」


 秋のパーティーでの振る舞いは浅慮だったが、その後の働きは悪くなかった。実際、アディナは少々生意気な後輩を気に入っている。主に『ツンデレ』のお手本として。

 まあそれはともかくパトリシアはクライヴに気があるので、決して彼の悪いようにはしないだろう。


「パトリシア嬢か…」

「あの方は絵に描いたような『つっけんどん娘』ですもの。殿下の婚約者としても推奨したいところですわ」

「推奨される理由が皆目わからないが…パトリシア嬢の事は検討しておくよ」


 パトリシアはアディナが気骨を買い、それに応えた令嬢だ。『共謀者』となって、良い働きをしてくれる期待は高い。クライヴとて揉め事を起こした令嬢だからと、はなから度外視することはできなかった。

 恋愛にかまけて盲目になり冷静な判断が下せなくなるのは困るが、それを抜きにすればパトリシアも良く出来た令嬢だ。家柄も申し分無いし、学業の成績も優秀である。アディナではないが、あの一件が惜しまれるというものだ。しかし本人も自覚が出てきたのかあれ以来、分別のある行動をしている。


「殿下のお役に立てると知れば、きっとパトリシアさんも喜びますわよ」


 濡れ衣を着せられそうになったのに、アディナはパトリシアを気に掛けていた。彼女は一度水に流したことは一切無かったことにする、潔い人間である。ルカとクライヴは互いに目を合わせ、苦笑いを浮かべるのだった。


 さて、たったいま話題にのぼったパトリシアだが、当然のごとく彼女も会場に来ていた。秋のパーティー以降、パトリシアの取り巻きだった令嬢達は去っていき、現在彼女は孤立中である。もとより純粋な友情など在りはせず、損得勘定だけの繋がりだった。だからパトリシアは薄情だと逆恨みすることもなく、淡々と現実を受け入れていた。


(これはこれで、煩わしくなくて結構ですわ。それよりもクライヴ殿下にお祝いを申し上げませんと…)


 軽く後れ毛を整えてから、パトリシアはクライヴの姿を探した。シャンデリアの下で輝く銀色の髪は見つけやすい。だがしかし、同時に眩いばかりの黄金色も見つけてしまい、パトリシアはあからさまに眉を顰めた。

 恋敵でも何でもなかったことが判明し、しかも、どうにも憎めない先輩のようなので以前みたいに敵視してはいない。ただ何となく、素直になるのが躊躇われるというか、癪というか。今更、親しくするのもおかしい気がして、パトリシアは未だにアディナが苦手だった。


(…殿下へのご挨拶は、後にいたしましょう)


 アディナのペースに巻き込まれたら最後、また逃亡を余儀なくされそうな予感がする。綺麗に回れ右をしたパトリシアは、適当に会場内を彷徨き始めた。


「失礼、パトリシア嬢とお見受けしますが…」

「はい。わたくしに何かご用でしょうか」


 見ず知らずの令息に声をかけられたのは、空になったグラスを給仕役に返していたところであった。訝しみながらも、彼女は微笑みを浮かべて対応する。


「かねてより、パトリシア様とお話してみたいと思っていたのです。ああ、申し遅れました。僕はサイラスと言います。ダミム家の者です」

「ダミム辺境伯の…遠路はるばる、大変でしたでしょう」

「慣れておりますから。それよりも、僕と一曲いかがでしょう?」


 スマートなエスコートに逆らえず、仕方なく彼のダンスに付き合うパトリシア。サイラスは柔和そうな顔をしている男だったが、何故だか少しも好きになれなかった。

 それでもにこやかに踊り切った後、もう終わりだと言わんばかりに、パトリシアはさっさと離れようとした。ところが、サイラスに行く手を阻まれてしまう。


「もう少しだけ、お付き合い願えませんか」


 そう熱心に言われてしまえば、パトリシアとしても断りにくかった。ちらりとクライヴの方を見遣れば、アディナ達は居なくなっており、挨拶に行けるチャンスだった。溜息が出そうになるのを我慢しながら、パトリシアは渋々サイラスに向き直る。


「少し涼みに、バルコニーへ出ましょうか」

「…ええ。いいですわよ」


 夏の夜空はとても綺麗だったが、気疲れしているパトリシアに、楽しむ余裕は生まれなかった。


「パトリシア様の噂は辺境にも届いていますよ。アディナ様に敗れた惨めなご令嬢だと」


 徐々にサイラスの瞳が怪しさを増していくのに気が付き、パトリシアは身を固くした。


「あの方を怒らせたとあっては、もはや社交界において貴女の居場所は無いに等しい。どうです?僕と来ませんか?惨めとはいえ、貴女はノートロス侯爵のご息女。それにお綺麗だ。決して悪いようにはしませんよ」

「…そのような甘言に、わたくしが乗るとお思いですか」


 舐めるなと、声を大にしてなじってやりたかった。パトリシアを馬鹿にするにもほどがある言い草だ。


「下らない同情には吐き気が致します」


 それだけ言い捨てて、パトリシアは背を向けようとした。だが、サイラスに乱暴に腕を掴まれ、自由を奪われてしまう。痛みに顔を歪めながらパトリシアが視線を上げると、そこには苛立ちを露わにする男の顔があった。思わず、ヒュッと息を呑む。


「この僕が情けをかけてやるって言ってんだ。負け犬は黙って頷いておけばいいんだよ」


 女性の価値は容姿と家柄で測る、これがサイラスの本性のようだ。落ちぶれた女なら、簡単に靡くとでも考えたのか。しかしこんな事で気位を捨ててしまえば、それこそ惨めな負け犬である。

 パトリシアは体を捩って抵抗するが、力で男性に敵うはずもない。声を上げようとした、その時。


「わたしの大切な後輩に、何をなさっているのかしら」


 突如として、バルコニーに乱入者が現れた。

 艶やかな金髪を夜風に揺らし、真っ赤な瞳を好戦的に燃やす令嬢、アディナだった。

 パトリシアも開いた口が塞がらなかったが、サイラスも同様で、呆然と固まっている。それをいいことに、アディナは無礼な男の手を払い除けると、後輩を庇うように立ちはだかった。


「好かれてもいないのに、しつこく迫る殿方は嫌われますわよ」

「…これはこれはアディナ様。話で聞く以上に麗しい方ですね。しかしながら何故、貴女様が仲違いしたご令嬢を庇われるのです?」

「仲違い?何のことでしょう?」

「お二方が派手に争ったことを、知らない貴族はおりません」

「そうですか。でしたら上出来ですわ。何せ、全て自作自演ですから」

「……はい?」

「わたし達には、振り向かせたい相手がいましたの」

「……はい?」

「派手に立ち回った方が、手っ取り早く相手の目につきますでしょう?なので、パトリシアさんと結託して、一悶着起こしてみたまでのことですわ」


 アディナの後ろで、パトリシアは絶句してしまった。暴論を押し通すにも限度があるだろう。お粗末な言い訳が通用すると本当に思っているのか、澄ました顔からは判断しかねる。


「それが事実ならば…」

「噂好きなお方のようですのでご存知かと思いますが、わたしが腹を立てる前に辺境へ帰られた方がよろしいのでなはなくて?」


 アディナが凄めば、彼女に関する恐ろしい噂が嫌でも思い起こされた。すっかり顔色を失くしたサイラスは、脱兎のごとく撤退していく。その情け無い後ろ姿を見たアディナは「手応えのない方ね」と酷評するのだった。


「……別に助けていただかなくても、自力で切り抜けられましたわ」


 苦情を訴える声は覇気が無い。アディナが振り向くと、俯き加減のパトリシアがいた。するとアディナは先程までの毅然とした態度を崩し、柔らかな声を出した。


「パトリシアさんには余計なお節介だったかしらね。でもわたしって、売られた恩は忘れない主義なのよ」

「…普通、売られるのは喧嘩です」

「あら、恩を売るって言うじゃない」

「あまり良い意味では使いませんわ…」


 気の抜けた会話のせいか、パトリシアの視界がぼやけ始めていた。繕っていてもやはり、男に乱暴されそうになったというのは、女性として強い恐怖を感じるものである。正直、アディナが割って入ってくれて、心底ホッとした。


「とにかく、こうなった原因はわたしにもあるもの。だから困った時は、遠慮せず呼びなさい。あなたに代わって怒ってやるわ」


 確かに、悪評を広めろと頼んだのはアディナだが、元々の原因を作ったのはパトリシアである。自分の蒔いた種なのだから、結果を刈り取るのは自分だ。孤立し、碌でもない男に絡まれるのも、全て自業自得。パトリシアとて承知の上だった。けれどもアディナは、パトリシアだけの非とはせず、助けに駆けつけてくれた。

 孤独となったパトリシアは、今後は自分の力だけで何とかしなければと、絶えず気を張り詰めていた。だからこそ、守ってもらえた事にただただ安堵し、意思に反して目頭が熱くなる。


「…っ、今のわたくしに恩を売っても、大した利益はございませんわよ。そもそも!結果的には良かったですけど、あっ危ないではないですか。凶暴さを秘めた男の前に躍り出るなどっ!こういう時こそ、惚れ込んでいる旦那様を頼るとか、もっと慎重に…っ」


 気恥ずかしいのを誤魔化そうとして、パトリシアは捻くれた事を羅列してしまう。しかしそこで「これぞ『つっけんどん娘』の真髄ね!」と嬉しがるアディナには微塵も通用しない。やたら浮かれた様子で、アディナは腰に両手を当てた。


「人の話を聞くという点では、エミリーさんの方が優秀だったわね。利益なんか知った事ではないわ。あなたが『わたしの大切な後輩』だから。理由はそれで充分よ」


 いつのまにかパトリシアは、アディナの中で大切な後輩という括りに入れられていたらしい。目を大きく見開きながら、パトリシアは肩を小刻みに震わせていた。


「ど…どうして……だって、わたくしは…アディナ様を嵌めようと…」

「もう忘れちゃったわ。わたしの脳は、自分に都合の悪いことを消去する仕様になっているの」


 まだ秋のパーティーから一年も経っていないのに、アディナはもう忘れたと言う。無駄に賢いアディナが忘れるはずがないし、都合が悪い側はパトリシアだ。

 しかしアディナは、先輩後輩として一から関係を築くことを選んだのだ。パトリシアの喉から引き攣ったような音が鳴る。


「あと、わたしに危険が迫れば、いつでもどこでもルカが飛び出してくるから、安心してちょうだい」

「…アディナ様は何者と結婚なさったのですか」

「第一、ルカがパトリシアさんを格好良く助け出したら、うっかり惚れてしまうでしょう?」

「……は!?誰が誰にですって!?」


 ルカが絡むとぽんこつ令嬢に逆戻りするのは健在だった。おかげで溢れそうになっていた涙も、一瞬で引っ込んだ。


「パトリシアさんが、ルカに」

「わたくしは殿下以外あり得ません!!」

「いいわね!その調子よ!」

「何なのですか本当に!もう!!」

「今の勢いのまま、殿下に突撃するわよ!」

「ちょ、やめっ…押さないでくださいませ!!」


 他人を振り回す、迷惑極まりない先輩。

 たけど心安らぐ温かさがあって、引き寄せられずにはいられなかった。パトリシアは逆立ちしても勝てないと、改めて感じ入るのだった。

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