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 晩まで続いた披露宴も終わり、ルカは改装の完了した別邸で、ようやくひと息つくことができた。長椅子に体を沈めたルカの顔には、湯浴みしてもなお疲労が色濃く残っている。

 幼い頃から貴族社会の波に揉まれてきたアディナと異なり、ルカは大勢の矢面に立った経験が無い。知っているのと、実際に立たされるのとでは大違いだ。そんな中で背筋を伸ばし、笑顔を振りまき続けてきたアディナは尊敬に値する。


(本当に結婚したんだな…あのお嬢様と…)


 左手の薬指には、結婚式で交換した指輪が光っている。アディナの意向により、はめていても邪魔にならない、ほっそりしたシンプルなデザインのものが選ばれた。彼女の華やかな外見からして派手好きに思われがちだが、存外、実用性重視なのだ。ルカが持っている懐中時計が良い例である。

 アディナらしい指輪を見下ろして、ルカはじわじわと湧き出る幸福を噛み締めた。『お嬢様だけの騎士になる』と決めてから、短くはない年月が過ぎた。アディナへの好意は増すばかりで、一瞬でも衰えた日など無かった。許されないとは知りつつ、捨て切れなかった想いが、実はアディナも同じだったと知った時の歓喜といったら、何に例えて良いのやら。


「大丈夫?ルカ」


 ぼんやりしていたら、いつのまにかしっとりと濡れた髪のアディナが背後にいた。寝間着からのぞく肌が、血色よく赤らんでいる。非常に目の毒だった。それでなくても、湯上がりのアディナに会う機会などなかったものだから、見てはいけないような、瞼に焼き付けておきたいような、せめぎ合いが生まれる。こんな無防備な姿を許してもらえる唯一の男となれたのだと、ルカは何度目かわからない喜びを実感していた。


「大丈夫ですよ。気疲れしただけです」

「ここは温かい飲み物でも淹れてあげる場面かしら。わたし、淹れたことないけれど」

「お気持ちだけで充分ですから」

「でも、多分できるはずよ。これでも料理の経験はあるもの!」

「お気持ちだけで!充分ですからっ!」


 アディナを宥めながら、ルカは彼女が夜食を作ってくれた事を思い出した。あれが揶揄いなどではなく、本心からルカに食べてほしくて作ったのだと、今ならわかる。ただし、あの時は厨房の人間が結束し、アディナを補助してくれた功績が大きい。単独でやらせたら何が起きるか、未知数もいいところだ。そんな無謀な賭けには出たくないルカは、無理矢理話題を変える。


「そういえば!エミリー様は来られなくて残念でしたねっ」

「あら、来てたわよ?」

「へ?」

「教会の外に生えてる木の上にいたじゃない。気がつかなかった?」

「木の上!?気付く訳ありませんよ!逆に気付いたお嬢様がすごいですね!」


 木によじ登る元令嬢もさる事ながら、そんな遠くからの視線を感知するアディナも相当だ。


「これからはお嬢様って呼んだら、返事をしないわよ。招待状は送ってあったもの、大してすごくないわ。エミリーさんはともかく、オーウェン王子まで木の上にいたのは、ちょっとびっくりしたけれど」

「えぇぇ…仮にも王子だった人が…」


 落ち着いたら便りを出すと言っていた通り、エミリーからは十日に一通のペースで手紙が届くので、居場所はわかっている。当たり前だが、エミリー達は公に挙式することはできなかった。そのため出立前に、アディナの前で結婚の誓いを立てていった。さながら彼女は神父役だ。

 自分達の結婚式に立ち会ってくれたので、エミリーはアディナのために地の果てからでも駆けつけると話していた。なので、招待状を送った以上、何が何でも来るのはわかっていたのだ。


「マーニャ伝いで、その辺でむしった花も届けられたし、花マル満点合格ね」

「さすがはアディナ様の後輩ですね。今度お会いしたら、お礼を申し上げなければ」

「いつでもいらっしゃいって言っておいたから、そのうちふらっと来るわよ」


 もう一組の身分差夫婦が公爵家の別邸を訪れるのは、きっと遠くない未来の話だろう。


「ねえ、ルカ」

「はい、アディナ様」

「ちょっとこっちへ来て」


 和やかな会話を止め、おもむろにアディナは長椅子から立ち上がる。そして同じ指輪が煌めく指で、ルカの手を取った。いつもは白い手袋越しだったから、初めて触れた柔肌にどきりと胸が高鳴るのも無理はない。たかが布一枚、されど一枚だ。薄い布の壁は、アディナとの間にある大きな隔たりの象徴だった。本来なら決して埋めることはできない、大きくて深い決定的な溝。ほんの些細な事だが、ルカにはそれがどうしようもなく嬉しかった。


(それにしても、どこに行くつもりなんだ?)


 アディナが歩いていく方向には、二人のために誂えられた寝室がある。健全な男のルカの脳裏には、ついうっかり良からぬ妄想がよぎった。いや、夫婦なのだから何も良からぬ事は無い。

 疲れが吹き飛びかけたルカだったが、寝室の前を通り過ぎたあたりから、嫌な予感がし始めた。自慢ではないがアディナに関して、嫌な予感が外れた試しはない。


「ルカにお願いがあるの」

「……何でしょうか」


 アディナに連れて来られたのは、寝室から少し離れた小部屋だった。もうすでにアディナ専用の書庫と化しており、丸いテーブルの上には小説が山積みにされている。ルカは自分の口元が引き攣るのがわかった。


「この中で、一番好みだった本を教えてちょうだい」

「……ちなみにこの本は…?」

「官能小説だけど?」


 思わず頭を抱えたくなったルカは悪くない。どこをどう間違えば、新婚ほやほやの夫に向かってエロ本を読めと命令してくる新妻が出来上がるのか。

 ルカは肩をわなわなと震わせながら、ぽんこつ妻をたしなめにかかった。


「色んな趣向の本を集めたから、きっとルカの好みに合致する一冊があるはずよ」

「なんで俺は自分の奥さんに官能小説を勧められなきゃいけないんですか!?しかも何冊あるんですかこれ!?」

「お、奥さん…」

「そこは恥じらうのに!?」


 奥さんと呼ばれるのには頰を赤らめる癖に、何故、堂々と官能小説は取り出せるのか。照れるポイントがズレまくっている。


「いいからはやく読破して、あなたの好みを教えなさい!わたしも熟読して、台詞も仕草も完璧に再現してみせるわ」

「もう本当に勘弁してくださいっ!!いったいどうしちゃったんですか!?」


 何が悲しくて、自分の性癖を赤裸々に暴露しなければならないのだ。ちなみに、ルカの好み全般はアディナに起因しているので、どれだけ見本を積まれようが意味は無い。

 ルカは悲鳴のような声を上げた。しかし釣られるように、アディナも赤くなりながら、負けじと大声で言い返すのだった。


「照れ隠しに決まってるじゃない!察しなさいよ!!」

「すみません!?」


 ルカは悪くないはずなのに、アディナの剣幕に押されて反射的に謝ってしまった。


「わたし…こういうのって、よくわからないから…」


 突如として勢いを無くし、アディナの言葉は尻すぼみになっていく。落ち着かなげに動く指先が、いつも悠然と構えている彼女にしては珍しい。


「…ルカを失望させたくないの」


 か細い声で告げられた一言に、ルカはよろめきそうになった。無論、激しくときめいた所為である。

 つまりアディナは、男女の営みの経験が無いために、どうしたらルカが喜ぶか見当もつかないので、官能小説をお手本に頑張りますと、言いたかったのだ。

 行動は頓珍漢すぎるが、その動機が健気すぎてルカに強烈な一撃を与えるには充分だった。


「…アディナ様。お気持ちは大変嬉しいのですが、そう焦らなくても大丈夫ですよ」


 にやけそうになるのを必死に堪えつつ、ルカは手際よくアディナの手にあった官能小説を抜き取って山に戻す。


「そう…ルカは手練れなのね…」

「なんでそうなるんです!?違いますよ!」


 相変わらず極端なアディナだが、そんな彼女がルカは心底愛おしく、出会った頃から余所見すらできないくらい、お嬢様一筋だったのだ。


「俺の前では無理しないでください」


 そう言いながらルカはアディナに歩み寄り、滑らかな白肌に手を添える。


「…今はこうして触れ合っているだけで満足なんです」

「ルカ…」


 格好つけたい訳ではなく、これだけでも本当に幸せで胸がいっぱいなのだ。このまま、さらに深いところまで踏み込んでしまえば、幸福で窒息できる気さえした。

 高鳴る鼓動を感じながら、アディナはそっと広い背中に自分の手を回す。確かに今は、ささやかな触れ合いだけで目の前がくらくらする。でもアディナはルカが望むなら、たとえ無理矢理に求められても拒むつもりはなかった。だって、二人を隔てる手袋が邪魔だと思っていたのは、アディナも同じだったから。


「…そうね。あなたに触れてもらえるだけで、いっぱいいっぱいのわたしにはまだ早かったわ」


 アディナは甘えるように、ルカの手に頬擦りする。その瞬間、彼がカッと目を見開いた事など知らず、アディナは伏し目がちに言葉を続けようとした。


「気遣ってくれるのは嬉しいけれど、わたしだってルカに我慢してほしくないわ。あなたになら多少乱暴にされたって…」

「…すみません。ちょっと黙ってください」


 官能小説からの引用ではなく、自分の素直な気持ちをこれまた素直に言葉にするものだからタチが悪い。あまり余裕の無いルカの理性が焼き切れる前に、無自覚に男心を煽る口を塞ぐ。言うまでもなく彼自身の唇で、だ。ご要望にお応えして、今までよりもほんの少しだけ乱暴に重ねられた。しかしあくまでも、ほんの少しである。結局のところルカは、どこまでもアディナに優しいのだ。それがわかったアディナは、とても甘い感情に満たされて、顔を離そうとしたルカに再度、自分から唇を合わせにいった。

 次第に深くなりそうな口付けに、ルカは「山積みの官能小説の前で何をやっているんだ」と言い聞かせることによって、力づくで冷静さを取り戻すのだった。


「……とりあえず、今日のところは大人しく寝ましょう」

「ええ」

「あと、この官能小説は処分しますからね」

「それは駄目」

「俺と官能小説、どっちが大事なんですか!?」

「ルカに決まっているでしょう!でもそれとこれとは話が別よ!」

「同じですよ!」

「ルカも一緒に読めばいいじゃない」

「何の拷問ですかそれは!…万が一にもあり得ませんけど、俺が小説の女性に興奮しても、貴女は何も感じないんですか?」


 よくわからない類の羞恥で、ルカは唸るように尋ねた。アディナはというと、初めて気付いたと言わんばかりに、きょとんと目を丸くしていた。そしてどこか呆然として、呟きをこぼしたのだった。


「……ルカは、わたしに嫉妬していたの?」

「…そんなの、いつもしてましたよ。男の嫉妬なんて醜いだけですから、隠してましたけど」


 やけくそになって、ルカはぶっきらぼうに答えた。狂おしい嫉妬があったからこそ、アディナへの想いを自覚したのだ。嫉妬させようと躍起になってきたアディナは、申し訳なかったと思いつつも顔を綻ばせた。


「醜くなんてないわよ。ルカの気持ちはよくわかったわ。明日にでも官能小説は処分するわね」


 あっさりとルカの言い分を飲んだアディナを見て、ルカは何となく罪悪感を覚えるのであった。


「なんか…すみません」

「でも著者の方に悪いから、焼却処分はしないわ。売り払うだけよ?」

「充分です」


 曲がりなりにも初夜にあたる日なのに、官能小説の処分方法について話し合うとは。いかにもアディナ達らしい。


「ルカが嫌なら、普通の恋愛小説も読まないようにするけれど」

「そこまでしなくていいですよ。アディナ様の楽しみじゃないですか。度が過ぎなければ、何も言いませんから」


 ルカのためならば、最大の趣味でさえ我慢する所存のようだ。何ともいじらしいではないか。ルカは困った風に笑いながら、アディナの腰に手を回し、小部屋を出るよう促す。忘れていた睡魔がやってきて、そろそろ横になりたかった。


「良かったわ。昔から、ルカの紅茶をお供に本を読むのが好きだったもの」

「俺も、本を読みふける貴女の傍で、紅茶を淹れるのが好きでしたよ」


 長い睫毛を伏せて本に視線を落とす、至極美しい令嬢。それを誰にも邪魔されずに眺める時間は、ルカにとって至福のひと時だった。


「ふふっ、初めの頃の渋い紅茶が、時折懐かしくなるわ」

「…できることなら、忘れてください」

「わたしの大事な大事な思い出だから嫌よ」


 ルカを見上げてアディナは笑う。いつも以上に幸せそうな、蕩ける笑顔で。

 それは確かに、ルカと居る時にしか見せない笑顔だった。クライヴが怒っていたことの意味が、今のルカには痛いほど理解できた。


(俺は貴女の愛に、自惚れていいんですね)


 二人で過ごす初めての夜。

 心地よい互いの熱と大きな幸福に包まれながら、アディナとルカは眠りに落ちていったのであった。

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