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 連日働き通しで疲れたでしょう、と気遣う言葉をかけるのは、純白の花嫁衣装に身を包んだアディナだ。


「この程度、疲れたうちに入りませんよ。何と言っても、お嬢様の願いが叶う日なんですから」


 鏡越しに目を合わせるマーニャは、そう返して微笑む。

 アディナが前触れもなく帰ってきた際、マーニャは腰を抜かしかけたが、それでも目に涙を浮かべるほど嬉しかった。紆余曲折を経て、とうとうルカと気持ちを通わせ、結婚式を迎えることができたのだ。マーニャの歓喜もひとしおである。支度のために多くの時間を割いたが、その疲労さえも嬉しい気分だった。

 結局、式の方針はルカの希望が汲まれ、ハプニングは起こさない方向で決定した。当然である。ついでにアディナが着ているドレスも、ちゃんとルカの意見が取り入れられ、露出は控え目になっている。伝統的で古風なデザインだが、アディナの気高い容姿によく似合い、まさに堂々たる貴人といった風貌だ。最後の仕上げに、ベール付きのティアラを乗せれば、支度は完了である。


「マーニャがこれだけ手を尽くしてくれたんだもの。絶対にルカを魅了してやるわ」

「はい。頑張ってください」


 出会った頃からお互いしか見えていないのに今更、魅了もへったくれもないが、マーニャはいつものように微笑ましく見守っていた。この日常が途絶えた一ヶ月の間、自分達がどうやって息をしていたのか不思議に思えてくる。


「何冊も恋愛小説を読んで、色んな結婚式の予習をしてきたけれど…所詮は活字上の知識でしかなかったわね。今にも心臓が破裂しそうだわ。でも、それも道理よね。こんな素敵な気持ち、どうやって表現していいか見当もつかないもの」


 少しだけ困ったようにはにかむアディナの顔は、とても眩しかった。彼女から本物の笑顔を引き出せるのは、やはりルカしかいない。マーニャはどことなく悔しい心地になりつつも、仕様のない人達だと安堵してしまった。


「…おめでとうございます。心から、お祝い申し上げます」

「ありがとう」


 マーニャの目尻に光るものが見えた時、支度部屋の扉が開き、公爵夫妻とフローラが入ってきた。


「わあ!お姉さま、とってもきれい!」

「本当。すごく素敵よ、アディナ」


 美しい花嫁を目にしたフローラとブレンダは手放しで褒め、ランドルフは無言で頷く。感極まるあまり、声も出ないらしかった。アディナはそんな不器用な父親の前に立ち、いま一度、深く頭を下げるのだった。


「ありがとうございました。お父様のお許しがなければ、わたしは…」

「もう良い」


 ランドルフは娘の言葉を遮った。

 アディナが顔を上げると、そこには優しい表情を湛えた父親がいた。


「お前がちゃんと幸せなら、何も言う必要はあるまい」

「…はい、お父様。わたしは国一番の幸せ者です」


 両者の真紅の瞳が揺れる。

 ふとした瞬間にちらついていた暗い過去の影が、この日をもって完全に消え失せた気がした。


「行きなさい。彼が待っている」

「はい!」


 大切な家族とマーニャに見送られ、アディナは部屋を後にする。一秒でも早くルカに会いたかった。彼のためだけに着飾った姿を見て欲しくて、廊下を歩く時間すら惜しい。次第にもどかしくなってきたアディナは、ドレスの裾を持ち上げ、小走りに急ぐのであった。




 ルカは入場する扉の前で、優に一時間以上は待っていた。というのも、ランドルフのささやかな嫌がらせにより、身嗜みを整えた直後に連行され、ここに置いていかれたのだ。しかし、何だかんだ文句を言いながらも、アディナとの結婚を認めてくれているので、これくらいのいびりは目を瞑るべきだろう。律儀にもルカは、その場で姿勢を崩さず待機していた。


「ルカ!」


 いつになく明朗快活な声が、こちらに近付いてくる。

 アディナに呼ばれたら、自分はこう答えるのだ「はい、お嬢様」と。ところが、体の向きを変えたルカは、途端に言葉を失ってしまった。

 光に透けるベールをなびかせ、清らかな白いドレスを風に膨らまし、きらきら輝く赤薔薇の瞳をルカだけに向けた、とびきり綺麗な花嫁が駆け寄ってくるのだ。陳腐な言葉など出てくるはずもない。目を限界まで見張り、呆然とするのが関の山である。

 強靭な脚力を誇るアディナは、足を縺れさせて転ぶなんてことはせず、ルカの目の前できちんと止まった。そして、あどけない笑みを浮かべてから、くるりと一回転する。


「ねえ、ルカ」

「……はい、お嬢様」

「いちいち言わなくても、わかるわよね?」


 問いかけながら、アディナはちょっぴり意地悪そうな顔をした。無論、ルカにも彼女の言いたいことはわかっている。わかっているが、喉に熱い塊が詰まっているせいで、言葉が引っかかって出てこないのだ。代わりに出てくるのは、感涙であった。すみません、とルカの口が動く。


「…まだ、夢を見ているみたいです。貴女の隣を、それも生涯にわたって歩めるなんて……願うどころか諦めていましたから」

「…ルカの馬鹿。勝手に諦めないでほしかったわ」


 そう言うアディナの頰にも、ひと筋の涙が伝っていた。


「…でもいいわ。少し回り道になったけれど、ルカとならそれも悪くないもの。たとえルカが諦めても、わたしは諦めないから覚悟しておきなさいよ!」


 涙を拭い、アディナはびしっと宣言してやった。腰に手を当てて威張る花嫁に、ルカは苦笑いである。でも、その幸せそうな顔といったらない。


「諦める必要が無くなった以上、俺は面倒くさいくらいしつこいですよ。逆にお嬢様が諦めたくなっても、もう許しませんからね」

「望むところよ。その勝負、受けて立つわ!」

「別に勝負という訳では……まあ、いいですけど」

「それと、あと数分で夫婦になるのだから、そろそろお嬢様はやめてちょうだい。わたしを呼ぶ時は、名前かハニーかマイワイフかマイスウィートハニーよ」

「最初以外おかしくありません?ハニーに至っては二度出てきてますし」

「わたしもダーリンって呼んだ方がいい?」

「いっ、今まで通りでお願いします!」

「そう?わかったわ」


 ダーリン、ハニーなどと呼び合っていたら、ランドルフに視線だけで射殺されそうだ。


「ところでおじょ……アディナ様」

「なにかしら、ルカ。アディナでいいわよ」

「それはまあ、追々で勘弁してください」


 軽く咳払いをした後、ルカはアディナの手を取り優しく握りしめた。かと思えば、そっと自分の方へと引き寄せ、遠慮がちに腕の中へ閉じ込めたのだった。


「…どんな貴女も素敵ですが、今日は格別にお綺麗ですよ。できることならお披露目なんてせずに、いつまでも俺が独り占めしていたいです」

「………」

「アディナ様?」


 反応が無いので、心配になってきたルカは体を離そうとするが、背中に強い力がかかっていて動けなかった。辛うじて首だけ動かし、腕の中にいるアディナを見下ろす。ルカの目に飛び込んできたのは、艶やかな金糸から覗く耳が、彼女の瞳のような色を呈している光景だった。釣られてルカの顔も、じわじわと赤みを帯びていく。


「……今すぐに、新婚旅行に出発しても構わないわ」


 少しして、ルカの胸元からくぐもった声が聞こえてきた。それは願っても無いお誘いだが、頷く訳にはいかない。


「いや、構ってください。扉を開けたら新郎新婦が姿を消していたなんて、さすがに洒落になりません」


 皆の記憶に残る、というより笑い継がれそうな珍事件になること間違いなしだ。アディナは渋々といった様子で、ルカの背中に回していた手の力を抜く。彼女の顔はまだ、ベール越しでもわかるほど赤く染まっていた。アディナから好意を表す分には良いのだが、表される側に回るのには慣れていない。普通の女の子よりも初々しい反応に、ルカは面映ゆくなり、本当にこのまま二人で抜け出してしまいたい衝動に駆られた。しかし丁度その時、入場の合図として荘厳なオルガン演奏が始まった。


「…もし、今」

「はい?」


 ルカの腕に自分の手を絡ませながら、アディナが口を開く。


「わたしが行きたくないと言ったら、わたしを攫って逃げてくれる?」


 イゾレ国に旅立つ間際、互いに譲れない想いがあった。大切な人への愛を犠牲にしてでも、守らなければならないものがあった。それが少し形を変えた今、ルカの返答も変わる。彼に許された居場所は、アディナの隣なのだから。


「もちろんです。貴女がそれを望むのであれば、俺は全力で叶えます」


 ルカの返事に対し、アディナは喜色満面の笑顔で応える。


「じゃあルカの願いは、わたしが死力を尽くしてでも叶えるわ」


 実のところ、ルカの一番の願い事は既に叶えられたのだが、折角の申し出だ。断るのも野暮というものだろう。


「ありがとうございます」


 二人で笑い合っていると、目の前の扉がゆっくりと開かれた。常ならば、ルカをぐいぐい引っ張っていくアディナだが、今日は彼のエスコートに身を委ねている。執事には到底与えられなかった特権に、ルカは陶酔してしまいそうだった。

 赤い絨毯の上を歩きながら、未だに夢を見ているような心地になる。しかし、ルカの腕には確かな温もりがあって、視線を向ければ、彼が知る限り最も美しい花嫁が隣にいる。思い描くことさえ許されなかった景色の中にいるのは、奇跡だとしか思えなかった。その奇跡を起こすため、奮闘し続けてくれたアディナに、愛おしさが増すばかりであった。


「両名、宣誓書に署名を。立会人は私、クライヴ・ソルジェンテが務める」


 ソルジェンテ国では、結婚式にて交わされる宣誓をもって、初めて夫婦と見なされる。その際、神父と立会人の前で宣誓書に署名を行うのだが、クライヴ自ら宣誓に立ち会うことを立候補し、アディナ達が羽ペンを走らせるのを見届けていた。

 先に書き終えたルカは、不意にクライヴと目が合った。穏やかながらも真剣な眼差しは「友人をよろしく頼む」と言っているようだった。ルカは感謝の念を込めつつ、小さな頷きを返した。

 その後、神父から誓いの言葉が読み上げられ、それぞれに返答が求められる。二人にしてみれば、これまで抱いてきた気持ちを、これからも抱き続けるだけのこと。

 だからアディナもルカも、凛とした声で即座に誓う。健やかなる時も病める時もあなたを愛す、と───

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