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ルカの一日はいつも、アディナの声で始まった。「ねえ、ルカ」と呼びかけられ、次にどんなとんでもない言葉が飛び出すのか身構えつつも、心のどこかで楽しみにしていた。
それが失くなった日常はひどく虚しく、静かすぎた。胸にぽっかり空いた穴から体の芯が冷えて、再び温まることはない。目映い黄金と赤薔薇の色彩が消えた世界は、すべてのものが色褪せて見えた。
(…イゾレ国の王妃に気に入られるなんて、素晴らしい事じゃないか。オーウェン王子の評判もすこぶる良いし、きっとお嬢様なら上手に、やって…)
仕事に明け暮れていたルカの動きが止まる。
『大好きよ、ルカ』
あの瞬間のアディナの瞳が、声が、仕草が、触れ合った感覚が、ルカを捕えて離さない。彼女の告げた「好き」が、主従関係を越えた深い親愛を持つことくらい、もうさすがにわかっていた。そうでなければ、口付けなんて交わさない。
(……なんで、今になって…っ)
よりにもよって後戻りできないこんな時に、アディナの想いの丈を知る羽目になるとは。いや、最後だったからこそ、告げていったのか。
(でも俺は…っ!)
アディナは家族を守る道を選んだ。だとすれば、ルカは心を殺してでもアディナの選択を尊重する。今更、彼女を抱き寄せることはできない。
だがもっと前に…身動きが取れなくなる前なら、手を伸ばすことくらいは許されたのかもしれない。そんな考えが膨れ上がり、ルカを蝕んでいた。
仕事を朝から晩まで詰め込み、強引に没頭する傷心のルカに思わぬ来客があった。クライヴである。一介の執事に会うために、王子自ら足を運ぶなど普通はあり得ない。否、あってはならない。
あのアディナの友人を長年やってきたのは、伊達ではないという事だ。
「…これは美味いな。アディナがしつこく自慢していたのも頷ける」
「お褒めにあずかり光栄です…」
王子は執事の戸惑いなど我関せずといった風体で、上品にティーカップを傾けている。クライヴたっての希望で、応接室にはルカしかいない。
「…私は仮定の話が好きではない。が、敢えて言わせてもらうよ。文句の一つも言わずに旅立った、私の友人のために」
「………」
カップを置いたクライヴは、射抜くような瞳でルカを睨んだ。
「君が葛藤を克服してアディナの手をとっていれば、すべてが丸く収まった。そうなるよう、彼女は手を尽くしてきたからな」
「…どういう、意味でしょうか」
ルカは体を強張らせ、情けなく震える声で聞き返す。
「彼女の母親のことは知っているか?」
「はい…お嬢様を捨てて出て行ったと、聞いています」
「その話には続きがある。アディナには口止めされていたが、もう時効だろう」
アディナがルカの通っていた養成所にひょっこり現れたあの時、屋敷では何が起きていたのか、クライヴは話して聞かせた。
一つ、また一つと真実を知るごとに、強張る力が強くなっていく。
「『"あの人"のようにはなりたくない』…それがアディナの口癖だった。私はまるで呪いだと思ったよ」
愛する人と結婚したい。そんな誰もが抱くごく普通の願いのために、アディナは全てを懸けていた。努力の方向性がおかしかろうと、いつだって全力だった。そうまでしたのに、彼女の希望は叶えられずに終わってしまった。
「まだ七歳の子供が父親を脅すとは、昔からアディナはアディナだな」
「ま…待ってください。俺は、そんな話は一言も…」
「さっきも言ったが、アディナが口止めしていたんだ。同情されたくなかったらしい」
「そんな、ことって…」
「…君の気持ちもわからなくはない。アディナを大切に想うが故に、拒み続けてきたんだろう?」
「っ、そうですよ!俺は、お嬢様の幸せが何よりの願いだった…っ!だから今までずっと…」
平民の自分では到底与えられない祝福を、アディナには享受してもらいたかった。それができるのはクライヴだと思い、身を引こうとしたのに。アディナは遠くへ掻っ攫われてしまった。
奥底に仕舞い続けてきた気持ちをぶつけるかの如く、ルカは呻いた。しかしそれは、クライヴがテーブルを叩いた音によって掻き消されてしまう。そして、聞いたことのない声でルカを怒鳴りつけたのだった。
「彼女の幸せを願うなら、どうして気付こうとしなかった!君と居る時のアディナは、この上なく幸せそうに笑っていた!アディナの笑顔には、君という存在がなくてはならなかったんだ!!」
ルカは血が滲むほど強く、唇を噛んだ。
その鮮血を見て、クライヴは少しだけ声量を落とす。
「アディナは自分を身勝手だと評していたが、それは違う。彼女の母親は、他人を踏みつけて自分の幸せを追い求めた。でもアディナが望んだ幸せは、他人の幸せの上に成り立つものだった」
段々と母親に似通っていく自分を嫌悪していたアディナだが、その実、母親とは根本から異なっていた。クライヴに言わせれば、アディナの人柄からして"あの人"のようになることなど、考えられないのだ。
「こうなると分かっていたら、私がアディナを力づくでも奪っていた。彼女は……私が恋心を抱く隙さえくれはしなかったが。それでも、かけがえのない友人であることに変わりはない。臆するだけの君に渡すよりマシだった」
「…生まれながらにお嬢様と釣り合う立場におられた殿下に、俺の気持ちが理解できるはずがないでしょう」
「そうかもしれないな。でも、アディナは違うんじゃないか。誰よりも君の気持ちに寄り添おうとしていた。いつだったか話していたよ。どんな結果になっても『ルカに選んでもらえなかった、わたしが悪いのです』と」
アディナは決してルカを責めない。
自分だけを責め、他の誰をも責めることはない。自分の我儘を貫いているように見えて、そのくせ誰よりも他者の幸せを願っていた。破茶滅茶で、妙に頑固で、時たま乙女らしい一面をのぞかせる、人情に厚い、愛すべきぽんこつ令嬢であった。
もう二度と、彼女の隣どころか半歩後ろにも立てなくなってしまった。押し寄せる過酷な喪失感に、ルカは片手で目を覆い、歯を食いしばる。
「…とまあ、彼女が責めない分、怒ってやろうと思った次第だ。きつい言葉をぶつけてすまなかった」
クライヴは震える肩を軽く叩くと、音も無く応接室を後にした。
(…きっと、彼がまずアディナを愛しんだから、アディナも彼を愛したのだろうな)
忙しい父親が常に意識を傾けるのは難しく、母親に至っては産まれた事さえ疎まれたアディナは、絶えず誰かからの愛に飢えていた。そんなアディナに、惜しみない愛情を注いだのがルカだったのだ。結婚相手を想像した際、彼しか思い浮かばないのも道理である。
(あの二人ほど深い結びつきは、またとないだろうに…残念でならないよ)
遠い地へ旅立ってしまった友人を憂い、クライヴは目を伏せたのだった。
いつまで経っても出てこないルカを心配したマーニャは、応接室の扉を叩いた。返事はなかったが構わずに開けると、長椅子に座り込むルカの姿があった。
「……君も知っていたのか?お嬢様が旦那様に持ちかけた話のこと」
「……はい。お嬢様からお聞きしました」
「そうか…知らなかったのは、俺だけか…」
アディナのことなら何でもわかっていると自負していたルカにとって、彼女が自分だけに隠し事をしていた事実は、手酷いショックだった。失意のどん底は、思っていた以上に深い所にあるらしい。こうなると一周回って笑えてくる。
「馬鹿みたいじゃないか…俺だけ必死に我慢して…っ」
「…そうですよ。馬鹿ですよ!お二人とも大馬鹿です!!」
マーニャはエプロンが皺になるくらい強く握り締め、責め立てた。しかしながら、それはルカに対してではなく、自分自身に対して言っているようにも聞こえた。
「大馬鹿者同士、さっさと素直な気持ちを伝えておけば良かったんですよ!行動的なのにお嬢様は変なところで奥手だし、ルカさんは腰抜けだし!」
「…おい待て」
「なんで私、黙って見守ってたんでしょう…山のようにお節介を焼いておけば、こんな結果にはならなかったかもしれないのに…っ」
「頼むから落ち着いてくれ。俺には君を慰める余裕が無い」
「腰抜けの慰めなんか結構です!」
「さっきから酷いな!?」
毎日あれだけいっぱい、やりとりしていた癖に、アディナもルカも肝心な言葉を口にしなかった。僅かなすれ違いが、取り返しのつかない結末を招いてしまった。
両者の気持ちを知っていたマーニャは、悔やんでも悔やみきれないのだ。
「…お嬢様、ルカさんを振り向かせようと一生懸命でしたよ」
「一生懸命、あらぬ方向へ突っ走っていたのか…」
「…そうですね」
少し落ち着いてくると、鼻声のマーニャはアディナが立案してきた作戦の数々を、初めてルカに明かした。
傍目には馬鹿げた奮闘に見えただろう。実際、ルカもからかわれていると感じていた。でも、アディナの胸中を知った今では、なんて彼女らしいやり方だったのだろうと納得してしまう。ルカの笑みが、自嘲じみたものから苦笑へと変わっていった。
「胸のところが大きく開いたドレスを着ても、ルカさんが見向きもしないと愚痴をこぼしていましたから、作戦が成功していたと知れば喜んだでしょうね」
「見向きをしないよう、頑張ってたんだよ」
「お嬢様の目を盗んで、ちらちら見ていた癖に」
「今日の君はやけに手厳しいな」
「誰に怒りをぶつけていいかわからなくて、身近な人で手を打ったまでです」
「クライヴ殿下にも怒鳴られた後に、それはキツい」
「殿下もお嬢様には振り回されていましたから」
「あの王子を振り回すって…」
「本当、奇想天外なお嬢様ですよ。驚かされるばかりでしたけど、笑いの絶えない毎日でした」
せめてイゾレ国でもそうであってくれれば、気休め程度には救われる気がした。




