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更新再開です。

 アディナが孤高の国イゾレの第二王子と婚約した、という話は瞬く間に広がった。噂を耳にした人々の反応は、結婚相手がクライヴでなかった事への驚きが半分と、もう半分は納得であった。王族に釣り合う家柄と、アディナが培ってきた品格が評価された結果と言えよう。

 だが世間からの最高評価も、彼女の本心を知るひと握りの者達にとっては、喜びの理由にはなり得なかった。


「…アディナ、ちょっと良いかしら」

「お母様?どうなさいました?」


 マーニャと一緒に荷造りをしていたアディナは、ブレンダの声に振り返る。眉を下げたブレンダは、労わるような口調で切り出した。


「使用人は誰も連れていかないと耳にしたのだけれど…本当なの?」

「ええ。荷物もなるべく少なくするつもりですわ」

「どうして?」

「…思い出は全部、ここに置いていきたいのです」


 イゾレ国に嫁ぐにあたり、生活必需品はあちらが不足なく揃えてくれる手筈になっていた。だから、いざとなればその身一つで旅立つことも可能である。しかし普通は嫁入り道具として多少の荷を持参するものだ。そのためアディナも、こうして荷物をまとめている。ただし、公爵令嬢が持っていくには少なすぎる量であった。


「そう…でも、これだけは持っていって」

「これは……お忙しいのに、わざわざ作ってくださったのですか?」

「当たり前でしょう。貴女は私の娘なのだから」


 ソルジェンテ国では結婚前に母から娘へ、おくるみを贈る風習がある。母親が手ずから針を入れたおくるみは、名前の刺繍が無い未完成品だ。最後の仕上げは赤ちゃんが産まれた後、娘の手によって完成させるのがしきたりだった。二世代の母の愛情が込められたおくるみは、赤ちゃんを保護する力が宿ると言われ、古くからこの伝統は守られてきた。


「…ありがとうございます。お母様」


 そんな伝統など忘れかけていたアディナだったが、もう一人の母親のおかげで思い出すことができた。ブレンダらしい、丹念な刺繍を見て胸がいっぱいになる。

 おくるみがアディナの手に渡ると、ブレンダは娘を優しく抱きしめた。


「遠く離れていても、アディナの幸せを祈っているわ」


 目の前がぼやけてきたアディナは、慌てて瞬きをして誤魔化すのだった。




「……これで良かったのよ」


 少しばかり物が減った寝室で、アディナはぽつりと呟いた。マーニャは掃除の手を止めて、主人の言葉に耳を傾ける。


「ブレンダ様達を路頭に迷わせたりしたら、わたしは一生自分を許せなかったわ」

「お嬢様…」

「マーニャも今までありがとう。フローラのことをよろしくね」

「私のことも連れていってくださらないなんて、ひどいですよ…」

「ごめんなさい」


 謝りつつも、アディナは自分の決定を曲げなかった。ルカは勿論、マーニャでさえも随行するのを最後まで許さず、独りで旅立つことを選んだ。




 ───そして、出立の日。

 異国の正装をしたアディナは、また違った魅力を醸し出しており、美しい以外の賛辞が出てこない。アディナと離れ離れになることを毎日のように悲しんでいたフローラも、とても綺麗な姉を前に泣き笑いを見せている。


「慣れぬ地で大変だろうが、息災でな」

「自分の体を大切にするのよ」

「はい。お父様、お母様」


 家族から順番に熱い抱擁を受けた後、アディナはマーニャにも改めて感謝を伝えに近付いた。目元が赤いマーニャを慰めてから、小声でルカはどこかと尋ねる。彼とは今日まで極力顔を合わせないようにしてきた。荷造りが忙しいことを言い訳にし、執事の業務も大幅に減らしていたのだ。顔を見れば見ただけ、離れるのが辛くなるのは火を見るより明らかだった。


「恐らく、まだ部屋にいるかと。お見送りにも来ない気なら、是非とも叱り飛ばしてきてください」

「…そうね」


 馬車の準備が整うまでの短い間に、アディナはルカの使用人部屋を訪れた。扉を軽く叩けば、少し遅れてくぐもった声が聞こえてくる。

 彼は窓辺にひっそりと佇んでいた。


「…ねえ、ルカ」

「…はい、お嬢様」


 他愛のないことを言い合っていた日々が、ひどく懐かしい。これが最後かと思うと、お互いになかなか次の言葉が紡げず、しばし静寂が空間を支配する。だが、別れの時は刻一刻と迫っている。アディナはありったけの勇気をかき集めて、顔を上げた。こちらを見下ろす切なさを滲ませた焦げ茶色の瞳が、心の底から愛おしかった。

 ずっと見つめていてほしかったのは、彼の瞳だけ。そのためにダンスだって猛特訓して、身嗜みにも気を遣ってきた。来る日も来る日も恋の教科書を読んで、気を引こうとした。ルカに振り向いてほしかったから。本当の本当に、彼が好きだったから。

 でも、それももう…終わりだ。


「…行きたくないって言ったら、わたしを攫って逃げてくれる?」

「それは……」

「冗談よ。知ってるわ。あなたはそんな事しない。誰よりも、わたしのことをよくわかっているのは、ルカだもの」


 アディナが家族のために選んだ行動を、ルカは絶対に邪魔できない。それは彼が、家族を想うアディナの気持ちを正しく理解しているからだ。

 ただ一つだけ、アディナから向けられる愛にだけは、気付くことができなかった。そしてアディナも、ルカがひた隠してきた愛を知らないままだった。


「…ごめんなさい」

「え…なに、が……」


 ルカには、拒む隙も逃げる暇も与えられなかった。だからこその謝罪だったのだろう。

 アディナは執事服の襟を掴み、ぐっと背伸びをする。そして自分の唇を、ルカの唇に押しあてた。

 刹那、すべての音が二人の世界から消える。

 触れるだけの口付けは、彼女の勢いに反して泣きそうになるほど優しかった。


「……初めてのキスくらい、好きな人としたかったの」

「…っ!!」


 顔を離した時、アディナは笑っていた。

 アディナの頰は濡れていない。ここで泣いて、ルカに手を伸ばされたらきっと抗えない。それくらいわかっていた。だからアディナは王城で泣き尽くしてきたのだ。


「大好きよ、ルカ」


 ずっと言いたくて、言えなかった言葉。ようやく口にできたというのに、胸に残るのは痛みだけだなんて、あんまりではないか。

 それでも最後に、どうしても伝えておきたかった。できることなら、とびっきりの笑顔でお別れしたかったが、ちゃんと笑えていたかどうか、自分では確認しようがない。

 さよならは告げずにアディナは背を向け、そのまま振り返りはしなかった。これ以上ルカの顔を見ていることはできなかったのだ。

 彼の返答も待たずに、アディナは部屋から出て行く。追いかけてくる足音は、聞こえてこなかった。




 イゾレ国へは、馬車で十日の長旅となる。

 到着してすぐに挙式という訳ではなく、そこから一ヶ月あまりの準備期間が設けられるのだ。王族の結婚とは、得てしてそういうものである。

 そもそも、碌に話したこともないオーウェン王子との婚約が決まったのは、彼の母、つまりイゾレ国の王妃がアディナをいたく気に入ったからだった。どこから伝わったのか知らないが、エルド学園でのアディナの振る舞いを聞きつけたらしい。それに感銘を受けた王妃は、アディナに婚約者がいないことを調べ、善は急げとばかりにソルジェンテ国に打診したという。


(悪役令嬢呼ばわりされていたのに、いったいどんな風に伝われば王妃様に気に入られるのよ)


 こんな事ならもっと意地悪く立ち回れば良かったと思うが、悔やんでも遅い。


(花嫁衣装はルカのために着たかったわ…)


 乙女の憧れである純白のドレスに、アディナだって夢を抱いていた。ルカに見てもらうためなら、いくらでも時間をかけて悩み、その時間さえも幸せだっただろう。

 無意識のうちにアディナは自分の唇に触れていた。


(襲うような真似をしちゃったわ。ちょっと…いえ、かなりはしたなかったかしら)


 でも、よく知らない男に唇を奪われる前に、好きな人に奪ってもらいたかった。アディナが無理矢理奪う結果になってしまったが、向こうは犬にでも噛まれたと思って忘れてくれればいい。


(好きだって言えたし、充分よね。これで満足すべきよね…なのに……)


 膝の上で握りしめた拳に、煌めく雫が落ちて弾ける。俯くアディナの瞳から、涙は止め処なく溢れていた。


「…なんでまだ、涙なんか出てくるのよ…っ」


 こんなにも、胸が痛い。この痛みが無くなるのならば、心臓を抉り出して捨ててやりたかった。こんな息苦しさを抱えたまま、これから独りで生きていかねばならないのか。新しい家族を愛せるのか。

 本当は、夜の海でのように抱きしめてほしい。アディナが呼んだら「はい、お嬢様」と答える声が聴きたい。もっともっと一緒にいたかったと、心が叫んでいる。


(それでも…あの人のようにはなりたくない…っ!)


 アディナはかぶりを振った。

 アディナを捨てたあの人も、ずっとこんな気持ちを抱いて暮らしていたのだろうか。それを思うとほんの少しだけ、あの人が哀れになった。許せはしないが、あの人はあの人なりに苦しんでいたのかもしれない。


(…たとえ同じような道を歩むことになっても、わたしは諦めない。あの人とは違う結末を選びとってみせるわ)


 涙に暮れてもなおアディナは強い意志を貫き、前を向こうとした。

 そして彼女は後になって、天に見放されていなかったことを知るのである。

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