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アディナ・クリュシオンの名が学園中に轟いたおかげか、それからの生活は平穏そのものだった。
行き帰りの二十分はルカと騒ぎ、学園ではクライヴを困らせたり、エミリーと談笑する体を装い作戦会議を開いたりと、あっという間に日常は過ぎていった。
そして迎えた卒業式だったが、アディナは平素とあまり変わりなかった。
「とうとう卒業してしまったな」
「殿下ともあろうお方が寂しいのですか?」
「私が感慨にふけったらいけないのかい?」
「いいえ。存分にどうぞ」
「君との下らないやりとりも、これで終いかと思うと、解放感と寂しさがあるよ」
「まだお終いではありませんわ。ルカに求婚されるまでは『共謀者』でいてくださらなくては」
「まだ続くのか…」
揉め事が付き物のパーティーだが、アディナ達の卒業記念パーティーでは何も勃発せず、終始穏やかであった。
ただ一人、例外はいた。アディナの卒業を惜しんで、ぽろぽろ泣き続けるエミリーだ。
一年しか共に過ごせなかったが、その一年間が非常に濃密だった。アディナに何度も助けられ、励まされてきた日を思い起こしては、また涙が溢れるというループに陥っている。
「また遊びに来たらいいじゃない」
「そうですけど、そうじゃないんですぅぅ…」
「何よそれ」
多少は悲しんでくれると思っていたが、まさかこんなにも泣かれるとは予想しておらず、実はアディナも密かに戸惑っていた。
「仕方ないわね。特別にわたしの弱点を教えてあげるから、泣き止みなさい」
「アディナ様に弱点なんてあるんですか!?」
「あるわよ。わたしだって普通の女の子なんだから。白状するとね、わたし超絶音痴なの」
「お、音痴!?あれ?アディナ様って確か、バイオリンをお弾きになりましたよね…?」
「楽器が演奏できるからって、歌が上手とは限らないのよ。ちなみにわたしの歌には、お父様の腹筋を痙攣させる程度の破壊力があるわ」
何故か威張るアディナに、エミリーは自然と笑い出していた。衝撃のあまり涙も引っ込んだが、それも一時的なことだった。続け様のアディナの台詞に、いとも容易く涙腺は緩んでしまう。
「…ありがとう。あなたのおかげで、刺激的な一年になって楽しかったわ。また恋愛相談にのってちょうだいね」
「アディナ様ぁぁぁ…ぐすっ…もちろんです!必要でしたらいつでも馳せ参じます!私の方こそ本当に、本当にありがとうございましたっ!!」
エミリーの涙に見送られながら、アディナは学園を去っていく。荘厳な門をくぐると、停めた馬車の前でルカが待っていた。
「ご卒業おめでとうございます。旦那様方がお祝いの準備をしてお待ちですよ」
「ねえ、ルカ」
「はい、お嬢様」
「毎日毎日、送迎してくれてありがとう。あなたと一緒の二十分間が、わたしは好きだったわ」
これがアディナに言える、精一杯の「好き」だった。結局、在学中は想いを告げることも、告げられることも叶わなかった。でもまだ時間はある。やはりアディナの方から伝えることはできないが、ルカが手を伸ばしてくれる日を待とう。それまではまた恋愛小説を読み耽って、試行錯誤を繰り返す毎日になるのだろう。
(それもきっと悪くないわね)
幸せそうにはにかむアディナの半歩後ろで、ルカは「勘弁してください」と独り言ち、熱が集まってきた顔を押さえるのだった。
春の息吹が感じられるようになった頃。
クリュシオン家に国王から登城命令が下った。父の執務室に呼ばれたアディナは手渡された書状を見て、怪訝そうな表情を浮かべる。
「…わたしが陛下に召集されたということですか?」
書状には、アディナを登城させるようにと記してあった。ランドルフもまた、彼女と同じく難しい顔をしていた。
「何か心当たりはないのか」
「無くはないのですが、やはり無いですね」
「それは有るのではないか…?ともかく、命令が下ったからには行かねば。早急に支度をしなさい」
「はい。わかりました」
国王から召集がかかるのは、重大な案件が発生した場合だ。国を揺るがすような緊急事態が起きたのなら、ランドルフだけが呼ばれるだろう。これがアディナまで絡むとなると一気に謎が深まる。
何にせよ、王命に背く訳にはいかないのでアディナは急いで正装し、ランドルフと共に城へ向かった。
「…クリュシオン公、ご足労感謝する。アディナも。卒業して以来だが元気かい?」
「お心遣い痛み入りますわ、クライヴ殿下」
謁見の間へと続く階段の前で、クライヴが待っていた。しかし、彼が浮かない顔をしていることをアディナは見てとり、嫌な予感を抱く。
「どうかしましたの?」
「………すまない」
「お二方とも、国王陛下がお待ちです」
クライヴの謝罪の真意を尋ねるより先に、国王の側近に呼ばれてしまう。アディナは彼を案じつつ、その場を後にするしかなかった。
王城には何度も訪れたことがあるが、そんなアディナといえど謁見の間に足を踏み入れた回数は、片手で数えるほどしかない。この場所の張り詰めたような空気も、あまり好きではなかった。
「拝謁します、国王陛下」
「ああ、そんなに畏まらなくて良い。急に呼び出してすまなかったな。アディナ嬢も、顔を上げなさい」
挨拶の口上もそこそこに、国王は気さくに声をかけた。歓迎されている様子に、何か悪いことで召集がかかったのではないと悟り、親娘揃って少しだけ肩の力を抜く。
(だとしたら、さっきの殿下の様子はいったい…?)
国王とクライヴとでは態度が正反対だ。その温度差に内心、首を傾げながらアディナは父の傍に控えていた。
「本日呼び出したのは、アディナ嬢に朗報が舞い込んだからだ」
「は…我が娘にですか?」
「うむ。実はイゾレ国からアディナ嬢に婚約が申し込まれた。相手は第二王子のオーウェン・イゾレ殿だ」
アディナは言葉も無く、立ち尽くす。
瞳孔は開き、体の前で揃えた両手が小刻みに震えていた。それなのに思考回路だけは妙にクリアだった。
「かの国とは良き貿易相手として、更なる友好関係を築いていきたいと思っていたところでな。アディナ嬢を手放さねばならないのは、私としても寂しい気持ちがあるが、是非とも両国の架け橋となってもらいたい」
ランドルフもまた、二の句が継げずにいた。国王の言い分は理解できる。アディナが嫁げばイゾレ国との親交は深まるだろう。しかしながら娘を想う父親としては、即座に頷くことができなかった。アディナと交わした約束もある。ここで頷けば、これまでの彼女の辛抱は全て水の泡になる。
束の間、葛藤するランドルフに代わり進み出たのは、アディナ本人であった。国王の前で深々と最敬礼した彼女は、静かな声色で告げた。
「身に余る光栄でございます。国王陛下のご意向に従い、イゾレ国へ赴きたく存じます」
目を丸くするランドルフとクライヴが視界に入っていないのか、国王は満足げに頷く。
「本当なら息子にと考えていたのだが…アディナ嬢ならばこの大役も見事に務めよう」
「ご期待に添えるよう誠心誠意、尽くしてまいります」
小さな笑みを浮かべるアディナの思考が読めず、クライヴは困惑した。
(君の願いはルカと結ばれることだろう!どうして大人しく聞き分けているんだ!)
アディナならば持ち前の奇抜な発想で、望まぬ婚約など蹴散らしてくれることを、クライヴは密かに期待していた。それしか、もはや希望はなかった。なのにアディナは、ただ静かに受け入れてしまった。クライヴは悲しみを伴った猛烈な苛立ちを覚えるのだった。
謁見が済むとすぐ、クライヴはアディナを私室へ連れて行った。人払いをすると、怒りを押し留めた声で彼女を問い詰める。
「何故、異を唱えなかった!君はこれでいいのか!?アディナ!」
「……異を唱えて、どうなると仰るのですか」
二人きりになった途端、それまでの無表情から一転し、いくつもの感情が入り混じった面持ちになる。彼女の瞳が徐々に潤んでいくのに乗じ、クライヴの怒気も急速に萎んでいくのだった。
「王命に背けば、いくら公爵家といえど反逆罪は免れません。殿下はわたしに、お父様達に牢屋へ入れと言わせたいのですか…っ」
「アディナ…」
良いはずがなかった。
アディナがずっと昔からルカを想い、やり方はおかしかったが彼を一心に愛し続けてきたのを、クライヴは間近で見てきた。ルカとつつがなく結ばれるためもあるだろうが、何よりも彼が気負わなくて済むよう、人知れず地盤を固めていたのも知っている。
「…わたしは自分の幸せのために、我儘を押し通してきました。その結果がこれならば受け入れます。幸せも、後悔も、すべて自分の意志で得たいと決めたのは、わたしですから」
「………」
「今なら少しだけ…あの人の気持ちが、わかる気がします。ですがわたしは、あの人とは違う。違わなければならないのです。絶対に」
アディナの白い頰を、透明の涙が伝う。それでも真紅の瞳は、強い決意で爛々と燃えていた。
「わたしは後悔から逃げません。たとえ夢に描いた家族の形でなかったとしても、決して捨てたりしません。誰も恨むことはありません」
「……君の強さには、感服するばかりだ」
「そんなことありませんわ。この通り、泣いていますもの。申し訳ありませんが、もうしばらく泣かせてください。ルカの前では泣けませんので」
「ああ。ここで存分に泣いていくといいさ」
クライヴに、彼女を慰めることはできない。できること言えば、静かに退散し、思いっきり泣かせてやることだった。
クライヴが退室した後、アディナは恥も外聞も無くその場に崩れ落ち、顔を覆って涙を流した。
(…ルカ……ルカ…ッ!)
真っ二つに裂かれたような鋭い痛みに襲われ、小さな呻き声を上げる。この痛みが消える日が果たして来るのか、アディナにはわからない。
「……ごめんなさい…っ」
痛ましい謝罪は、誰へ向けたものだったのか。
泣いた跡が消えるのを待ってから、アディナは部屋を出た。時間にしてそれほど長くは経っておらず、クライヴが「もういいのか」と聞いたくらいだ。
「殿下には、たくさん協力していただいたのに、不甲斐ないですわ」
「なに。君に迷惑をかけられるのは慣れているし、君だって私に色々と協力してくれただろう。『共謀者』なんだからお互い様だ」
「これで本当に『共謀者』も終わりですわね」
「そうだな」
「…ありがとうございました」
「…こちらこそ」
互いにぎこちなく笑い合い、それから背を向けた。
「……お前には、苦労をかけてばかりだな」
馬車の中の、重い沈黙を破ったのは、ランドルフだった。
アディナがどんな理由で婚約の話に頷いたのか、父にはお見通しだ。自由奔放にみえて、アディナはとても家族想いの娘である。家族の幸せを奪うくらいなら、自分の幸せを切り捨てることに躊躇いが無いのだ。
(だが知っておくれ。私達の幸せには、お前の笑顔も必要だと)
アディナを犠牲にして得る幸せなど、仮初めに過ぎない。しかしながら公爵家の当主として、アディナには王命に頷いてもらうしかなかったのも、また事実。
「いいえ。苦労をかけていたのは、わたしですわ。やっと、公爵令嬢らしい務めを果たせます」
そんな務めなどどうでもいいと、言い切ることができたならば、ランドルフもここまで苦々しい気持ちを抱かずに済んだ。
娘の我儘一つ、叶えてやれなかったことが悔しくてたまらなかった。
「…こういう終わり方を、予期していなかった訳ではありませんもの。大丈夫ですわ」
屋敷に帰るとランドルフが全員を集め、アディナの婚約について知らせた。
ほとんどの者は、思いがけない報せに祝福を表した。だがブレンダとマーニャは、笑顔で礼を述べるアディナに酷く当惑していた。
そしてルカは、色という色を失った顔で呆然と立っていた。アディナは一度もルカの方へ視線を向けず、目に見えない絶望だけが二人の間に落ちていくのであった。
続きを待っていてくださる皆様には申し訳ありませんが、今週の投稿はこの話で終わりです。
次回の更新は来週になります。




