22
アディナの言葉を借りるなら「人生で最高の夏季休暇」も終わりを迎え、再び学園生活が始まろうとしていた。
「行ってらっしゃい、アディナ。気をつけて」
「はい、お母様。行ってまいります」
アディナとブレンダの間に流れる空気が、随分と柔らかくなったことに、ランドルフも気付いていた。しかし、妻にその事を尋ねても「母と娘の秘密ですので」としか答えてもらえず、真相はわからず終いだった。
何となく寂しい心境の父親はさておき、いつにも増して絶好調なアディナに、クライヴもすぐ何かを察知した。
「最後の夏季休暇は楽しめたようだな」
「ええ、とても。こちらは殿下へのお土産ですわ」
「……君がくれるお土産には、毎度驚かされるよ」
小瓶に詰まった大小様々な貝殻を渡されたクライヴは、アディナの独特すぎるセンスに口元を引攣らせる。
「その中には『綺麗な貝殻決定戦』で準優勝を果たした貝殻も入っていますのよ」
「初めて聞く戦いだな」
「白熱の戦いでしたわ」
「そもそも、その情報は必要かい?」
優勝ならともかく、準優勝と言ってしまっている。堂々と二番目を宣言されても、喜んでいいのか微妙だ。
「一番綺麗なのは、ルカにあげると約束しましたから。それを破ることはできませんわ。ですが準優勝といっても、かなりの接戦でして、本当のところは甲乙つけがたく…」
「わかったわかった。もう充分だ。選りすぐりの貝殻をどうもありがとう」
長々と選考理由を聞かされそうな予感がしたクライヴは、素早く話を遮った。アディナのことだ、順位に関係なく一生懸命拾ってきてくれたのだろう。それが分からないクライヴではない。
「…まさかとは思うが、エミリー嬢への土産は最長の海藻とかではないだろうな?」
「いえ、珊瑚のブローチですが。殿下は海藻の方がお好みでした?」
「断じて違う。何となく釈然としないだけだ」
「べ、別に希望があれば聞かないこともないんだから!」
「は?」
「とある作戦の練習です。おかしかったですか?」
「何がしたいのかさっぱりだが、おかしいことだけは確かだ」
アディナに振り回されるのはいつもの事である。だがしかしそんな珍妙な土産の数々は、気分が落ち込んだ時に眺めると、不思議と元気がもらえるのだ。沈んでいるのが馬鹿らしくなってくるのかもしれない。クライヴは苦笑しつつ、貝殻の入った小瓶を鞄に仕舞うのだった。
一方、まともな土産を選んでもらえたエミリーは、アディナから手渡された小箱を見て、たいそう喜んだ。
「ありがとうございます!私もアディナ様にお土産があるんです。イゾレ国の恋愛小説で、今、すごく人気のシリーズらしいです」
「素晴らしいわ。ありがとう」
「いいえ、とんでもないです。ですが、全部で七巻でして、一度に全部持ってくるのは難しく…」
「それなら丁度いいわ。我が家へ遊びに来たついでに受け取るから」
「えぇっ!?こここ公爵家に、私なんかが!?」
思わぬ提案にエミリーは飛び上がり、ついでに後ずさった。
「なによ。わたしだって、あなたのご実家に伺ったじゃない」
「そうなんですけど…っ!」
「わたしのお母様が、ぜひお招きしてと言っていたのよ」
「ひえぇぇ…公爵夫人が……あの、手土産とか…何が…」
「恋愛小説があるでしょう?」
「それはアディナ様へのお土産です!ご家族の皆様には別の物が必要なんです!」
「その辺でむしったお花で十分よ」
「不十分すぎますっ!」
「察しが悪いわね。そう気負う必要は無いって意味よ」
要するに、友人宅を来訪するような気楽な気持ちで来いと。アディナが言いたいのはそういう事だった。その優しさに気付いたエミリーは緊張を解き、顔を綻ばせた。
「アディナ様…ありがとうございます」
「一応教えておくと、お母様は紅茶がお好きよ」
「わかりました!紅茶ですね!」
「茶葉の良し悪しに関係なく、美味しく淹れてくれる執事がいるから安心なさい。ルカは紅茶名人なの」
得意げに自分の執事の自慢を語る令嬢を前に、エミリーはますます笑みを深めるのだった。
そして週末。
エミリーは立派すぎる門の前に立っていた。マスキル家の屋敷の何倍の広さなのか、計算する気も失せてしまう。
本の入った木箱を両手で抱えているのでどうやって呼び鈴を鳴らそうかと、思案する必要もなかった。エミリーが到着するなり、門衛の騎士の一人が伝達に走り、アディナとルカが迎えに出て来たのだ。エミリーは恐れ多くて盛大に焦った。
「ありがとう。大切に読ませていただくわ」
「エミリー様、お荷物をこちらへ」
「さあ、どうぞ」
まごついているエミリーは、ろくに言葉も返せないまま連れて行かれる。クリュシオン家は門構えも立派だが、屋敷の中も豪華だった。流石は筆頭貴族である。
飾られている美術品を楽しむ余裕も無く、絨毯の柔らかさに慄いる間に、エミリーは公爵夫妻の前に立たされていた。自己紹介をしたはいいが、ちゃんと自分の名前を発音できたかどうかの記憶も無い。
「お会いしたかったですわ。どうぞ寛いでいってくださいね」
ブレンダにおっとりと微笑みかけられ、エミリーは少し赤くなりながらお礼を述べる。
「感謝申し上げます。あの…こちら、お口に合うかわかりませんが…」
「わざわざご丁寧に…まあ、これは紅茶かしら?」
「あ、はい。お好きだとうかがったので」
「ありがとう。早速いただきますわね」
その言葉にすかさず、アディナがルカに指示を飛ばした。
「ルカ、お願いね」
「かしこまりました。奥様、お預かり致します」
挨拶を終えて、アディナの自室へ向かう途中、エミリーは嬉しそうに話しかけてきた。アディナと二人になったことで、少しずつ普段通りの振る舞いに戻っていく。
「アディナ様とお母様、よく似ておられますね」
「え…」
「お優しいところが特にそっくりで……アディナ様?」
ふとアディナの方を見ると、彼女は真紅の瞳を丸くしていた。意表をつかれたような様子に、何か気に触ることを言ってしまったのかと、エミリーは不安になる。くるくる変わるエミリーの表情から、その考えを読み取ったアディナは、すぐに目元を和らげた。
「…似ていないって言われるのが常だったから、思いのほか嬉しかっただけよ」
沁み入る声音と、いつになく穏やかな横顔に、エミリーは暫し目を奪われるのだった。
部屋に入って間も無くすると、ルカがトレーを片手にやって来た。
エミリーの手持ちでは高級品など買えなかったはずなのだが、とても良い香りに鼻腔が満たされる。ティーカップの淵に沿って金色の輪が浮かび、口に含めば爽やかな甘みが広がった。アディナほど舌が肥えていないエミリーにも、自分の屋敷で飲むのとは段違いの味に、思わず感嘆の吐息が漏れる。
「美味しい…」
「自分の手土産を自画自賛するなんて、見かけによらず図太いわね」
「えっ!?違います!そんなつもりでは!」
「エミリー様。真に受けなくて大丈夫ですよ」
「そうよ。どうせなら高らかに顎を逸らしておきなさい」
「真に受けなくて大丈夫ですからね!」
「ふふっ、わかりました。でも、本当にルカさんは紅茶名人なんですね。私、こんなにも美味しい紅茶を飲んだのは初めてです」
「…お嬢様、学園でそんな話をしてたんですか?」
「いいじゃない。ありのままの事実を述べたまでよ」
ルカは若干きまりが悪そうな、くぐもった声になる。悪い噂を吹聴されるよりはマシだが、自分の与り知らぬところで褒めそやされていたというのも、くすぐったいものだ。
「失礼します。ご来客中、申し訳ありません。お嬢様のご署名が必要とかで商人の方がお見えになっています」
「ああ、仕立て直しが終わったのね。ごめんなさい、エミリーさん。少し外すわ。マーニャ、話し相手になって差し上げて」
「承知いたしました」
「行くわよ、ルカ」
「はい」
アディナがルカを伴って出て行った後、部屋に残った二人は名乗り合い、マーニャの方は聞いていた話の通りの令嬢だと感じていた。
(泣けば一発だとお嬢様は仰っていましたが、言い得て妙ですね)
そんな風に思われているとはつゆ知らず、エミリーは朗らかに話題を投げかける。
「公爵家の使用人さん達は、お茶を淹れるのが得意なんですか?コツがあるなら、ぜひ教えていただきたいです」
「そんな事はございません。ルカさんが飛び抜けて上手なだけです」
「へぇ、すごいですね!」
「あの人はお嬢様のことになると、見境いなくなりますから」
「え?それってもしかして…」
マーニャは意味有りげに微笑むと、ルカが紅茶名人になった経緯を語り始めるのだった。
養成所を卒業し、公爵家に戻ってきたルカであったが、いきなりアディナに仕えることはできなかった。見習い執事として、下積み期間を終えなければならなかったのだ。いくらアディナと面識があるからといって、特別扱いされたりはしない。
すでに働いていた専任執事からまず割り当てられたのが、アディナのお茶係だった。といってもルカの仕事は、厨房で紅茶を淹れるだけで、運ぶのは先輩だ。
習った通りの手順を踏み、ルカは毎度のお茶を準備していた。数ある仕事の一つ、しかも基礎中の基礎ということもあり、先輩も厳しくチェックはしなかった。何より、アディナから一切の苦情がなく、いつもティーポットが空になって返ってきたのが大きい。
だからルカは、下積み期間が中盤に差し掛かるまで知らずにいたのだ。自分の淹れた紅茶が不味いことを…
気付けたのは、先輩からアディナの様子を聞かされた時だ。いつもはストレートで飲む紅茶に、どうやらその日は砂糖を匙に二杯入れていたらしい。それでも何も言わずに飲み干していたため、先輩の話はそれで終わった。違和感を覚えたルカは、自分で紅茶を淹れて飲んでみた。するとどうか。渋みが強すぎて顔を顰めるほどだった。
屋敷には数種類の茶葉が置いてあったので、それらも試してみたのだが、ルカが淹れるとどれも美味しくない。
(……今まで俺は、こんなものをお嬢様にお出ししていたのか)
その時のショックといったらない。
急いで先輩に事情を説明し、アディナに謝罪する機会を作ってもらったルカは、背中に影を背負いながら扉をノックした。見習い使用人は、貴族に近寄ることもできないため、これは異例だったと言える。
数年ぶりに再会したアディナは、あどけなさが残るものの、記憶にある姿よりも大人びて綺麗になっていた。束の間、ルカは落ち込んでいたのも忘れて、見惚れてしまう。
『ルカ!久しぶり!』
アディナは薔薇色の瞳を喜びで輝かせ、ルカに駆け寄ってきた。こういうところは全然変わっていない。懐かしい思いが込み上げてくるのを飲みくだし、ルカは頭を下げた。どうしたの?と戸惑うアディナに、不味い紅茶を出し続けていたことを詫びたのだった。
『お出しできる味になるまで、精進してまいります。ですから…』
『ルカが淹れて』
ルカはしばらくお茶係を交代してもらおうと考えていたのだが、それを察したアディナがすぐさま嫌だと言った。
『ルカが淹れてくれたお茶がいいの』
『しかし…』
『今度からは、ちゃんと味の感想を言うわ。だからお願い』
そこまで言われてしまえば、ルカは頷かざるを得なかった。
『…不味かったら、無理して飲まなくてもいいんですよ?』
『もったいないじゃない。せっかくルカが、丁寧に淹れてくれたお茶なのに』
ルカはこの時、自分の視界がぼやけたのを今でも覚えている。渋くて、喉がいがいがするような液体を、アディナは『もったいない』と言い、更には『丁寧』だと、ルカの仕事を褒めてくれた。
直接顔を合わせる機会が無くても、アディナはルカが働いている様子を、いつも窓から眺めていた。新米に与えられる雑務は多い。忙しそうに駆け回っているルカの負担になりなくなかったので、紅茶が温かろうが、味が薄かろうが、砂糖を入れないと飲めなかろうが、文句はつけなかった。むしろ忙しいなか淹れてくれてありがとう、という感謝を伝えるべく、ティーポットは空で返すと決めていたくらいである。
そんなアディナの気持ちを知ったルカは、茶葉について猛勉強し、使用人随一の紅茶名人となった訳だ。
「以上が、ルカさんから聞いたお話です」
「…私、感動しましたっ」
「あのお二人に纏わるお話はたくさんありますよ」
「それだけ想い合っているのに、どうして…」
「…身分の壁というのは、強い想いをもってしても、簡単に打ち壊せないのですよ」
「アディナ様はそんな事を気になさるような方ではありません!」
「そうですね。ですが、ルカさんは違います。本来、手にするはずであった栄光を、己の身分のせいで失わせてしまうのが、どうしたって怖いのです」
マーニャは同じ使用人の立場から、ルカの気持ちを代弁する。
客観的に見て、現在のアディナに開かれている道は二つ。クライヴと婚姻を結び王妃になるか、高貴な出自の婿を迎えてクリュシオン公爵家を継ぐか。
ルカと駆け落ちする道を選べば、それらの華々しい誉れを捨てることになる。
「お嬢様を本気で想うからこそ、怯まずにはいられないのですよ」
アディナは家族の立場を極力悪くしないよう努力はしても、自分の立場だけが地に落ちることは気にしない。だが、ルカにはそれができない。だからこそ、二人は長いことすれ違ってしまっているのだ。
「どうにかできないのでしょうか…」
「ルカさんは、お嬢様の誘惑を悪戯だと思っているみたいですし、どうにも…」
二人してため息が出そうだった時、扉がノックも無しに開いた。エミリー達の悩みを吹き飛ばすほどの威勢で「待たせたわね!」と言ってのける。
「ルカさんはどうなさったのですか?」
「作戦会議をするために置いてきたわ。女性が三人も集まっているのだから、名案が出るに決まってるわよね。次こそルカにぎゃふんと言わせてやるわ!」
「お嬢様はいったい何の戦いをしておられるのですか」
ひとまず見守りましょう、とマーニャに耳打ちされたエミリーは、元気に頷くのであった。




