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「もの凄く嫌なことがあったけれど、ルカのおかげで、幸せな気持ちのまま一日を終えられるわ」


 出て行った実母との邂逅を果たした日の晩、寝床へ入る前にアディナはマーニャにそう言った。だが、内緒にすると約束した以上、詳細は語らなかった。それに"あの人"と会った、なんて聞けばマーニャは心配で顔を歪めるだろう。万が一、父の耳に入れば古傷を抉りかねない。あの時のことで苦く辛い思いをするのは、もうこりごりだ。

 アディナがルカの温もりを思い出して全身を熱くしていた頃、ルカも使用人部屋のベッドで強烈な羞恥に襲われ、身悶えていた。


(ついにやらかしたぁぁぁ…)


 夜の海に消えてしまいそうな後ろ姿に、たまらなくなって抱き締めてしまった。時間が経てども、アディナの柔らかな抱き心地が、腕から消えてくれない。


(あんなお嬢様を放置なんてできないけども!もっと、こう……うわぁぁああっ!!)


 泣いている女性を慰める方法なら他にもあったはずだ。ところが、ルカの体は自然と動いていた。それはまるで、ああしたかった願望が具現化したみたいだった。


「……お嬢様は大丈夫だろうか…」


 動揺が少しだけ収まると、今度は泣いていたアディナを案じ始める。実母との不和はルカも聞いているが、アディナの口からその話題がのぼったことは無い。

 ルカが知っているのは"自分を捨てて出て行った母親に怒り、今でも嫌っている"程度で、アディナの繊細な心境までは知らなかった。あんな風に震えて涙するほどだったとは考えが及ばず、ルカは歯噛みした。

 どうしようもなかったとはいえ、養成所へ通っていた期間に、アディナの傍にいられなかったことが悔やまれる。当時のアディナがどんな気持ちで毎日を過ごしていたのか、想像するだけで胸が張り裂けそうだった。


「……合わせる顔がない…色々な意味で」


 それでも夜は明け、朝がやって来る。

 皺のない執事服を着込んだルカは、形容しがたい感情を抱えながら部屋を出た。


「おはよう、ルカ」

「おはようございます、お嬢様」


 アディナもルカも、表面上はいつも通りであった。しかしお互いに、昨日のことが否応無く思い出され、服の下では鼓動がうるさく胸を叩いていた。

 照れてしまいそうではあったが、アディナは膨らむばかりの嬉しさから、黙っていることができなかった。


「ねえ、ルカ」

「はい、お嬢様」

「……ふふっ」

「なんですか?」

「なんとなく、呼んでみたかっただけよ」


 歯を見せて笑うアディナに、ルカは天を仰ぎたくなった。そういう不意打ち、今だけは本当に勘弁してほしかった。




 ランドルフに言われた通り、アディナは残りの休暇を大人しく過ごすことを決めた。ちゃんと反省している姿勢を見せるため、また、あの人との遭遇を避けるため、不用意な外出は控えていた。外へ出たとしても、精々プライベートビーチくらいだ。

 そんな訳で、優雅な読書タイムを堪能しているアディナだったが、ブレンダが扉をノックしたので、いそいそと恋愛小説を仕舞う。


「お邪魔でなかったかしら?」

「大丈夫ですわ」

「実はフローラが、今日の昼食はテラスで食べたいと言っているのだけれど、アディナさんはいかがですか?」

「わたしは構いません。せっかくの晴天ですもの。外の方がきっと食事も美味しく感じられますわ」

「ありがとう。シェフの方にも、そうお伝えしておきますね」

「お願いします。ではまた、昼食の時に」


 ブレンダが去った後、アディナは神妙な顔つきになる。


(いつまでも隠していてはだめよね…)


 ブレンダは、アディナが過去に起こした事件を知らずにいた。いつか自分で伝えるからと、ランドルフにも話さないよう頼んである。

 気立ての良いブレンダだが、アディナの行動によって、フローラに悪影響を及ぼすとなれば黙っていないだろう。公爵家の利益を無視した結婚を、ブレンダはどう思うのか。険悪になるのは避けたくて、伝えるのを先延ばしにしてきたがそろそろ潮時だ。


(…家族に亀裂をもたらす存在になってしまったら、わたしは"あの人"と同類ってことね。ああなりたくはないと思っている人に、似通っていくなんて酷い皮肉だわ)


 憂いた気持ちのまま、アディナは食事の席につく。美しい海が一望できるテラスで摂った昼食は、あまり味がしなかった。


「…お義母様。食後のお茶をご一緒にいかがですか?よろしければ、わたしの部屋で」


 言外に「二人きりで話がしたい」と告げれば、ブレンダは一も二もなく了承した。


「マーニャ、お茶の準備をお願い。ルカはフローラの遊び相手になってもらえるかしら」

「かしこまりました。お部屋にお持ちいたします」

「お安い御用です」


 親娘は連れ立って、アディナの部屋へと場所を移す。マーニャがお茶を持ってきてくれるのを待ってから、アディナは口火を切った。


「…まず初めに、お義母様とフローラには謝らなければなりません」


 そう前置きし、十年前、実母が出て行った後の顛末を淡々と語るアディナ。普通なら、前妻の話なんて耳にしたくもないだろうが、ブレンダは真剣な面持ちで相槌を打っていた。


「…クリュシオン家の長女として相応しくない願望であることは、重々承知しています。わたしの身勝手のせいで、公爵家の評判も、社交界での立場も悪くなるでしょう。特にフローラは、」

「もういいわ、アディナさん。よくわかりました」


 きっぱりとした声でアディナの言葉が遮られ、彼女はびくりと体を揺らした。膝の上に置いた手が、力み過ぎて白くなっている。


「辛い思い出は、もう充分ですよ」


 ブレンダはその白い手に優しく触れると、両手で包み込んだ。弾かれたように顔を上げると、慈愛に満ちた瞳がアディナを見つめていた。


「アディナさんはいつも、私とフローラに細やかな気遣いを示してくれました。とても嬉しかったです。でもね、その気遣いは特別なお客様に対するもののようで…少しだけ寂しさも感じていました。それは私にも原因はあるのですが…」


 アディナにとっては、赤の他人。

 ブレンダにとっては、再婚相手の連れ子。

 しかもアディナは、ブレンダよりも身分の高い義娘であった。双方に遠慮が生まれるのも無理はない。


「私はアディナさんに、迷惑をかけてほしかったんですよ。だってお客様にはそんな事、あり得ないでしょう?家族だからこそ、できるのです」

「…迷惑といっても、限度がありますわ」

「そうですね。しかしながら言わせていただきますと、アディナさんの望みは迷惑なんかじゃありませんよ」

「どうして…」

「家族が幸せになろうと頑張っているのに、それを迷惑だと思うのはおかしいでしょう」


 気が付けば、アディナの瞳は潤んでいた。泣いているような、笑っているような…歪ともとれる、そんな表情だった。わずかに震えるか細い声で、アディナはぽつりと呟く。


「……わたしも、ブレンダ様の娘が良かった…」


 いつも「フローラと似ていない」と言われるのが悲しかった。実母を彷彿とさせる真っ直ぐな金髪が、アディナはどうしても好きになれなかった。目を伏せるアディナに、ブレンダは「何を言っているの」と咎めるような声を出した。


「もうとっくに、あなたは私の娘よ。アディナ」


 まさにこの瞬間、心に溢れてきた感情は、とても言葉で言い尽くせない。アディナの記憶にある限り、"あの人"から名前を呼ばれたことは一度もなかった。だから、母親というのは我が子を呼ぶ際、こんなにも愛情を込めてくれるのだと、アディナは初めて知った。


「……お母様」

「なあに?」

「…もう一度だけ、呼んでもらえませんか?」

「これから何度でも呼んであげるわ。アディナ」


 同じ『おかあさま』でも、今しがたアディナが発した言葉には、これまでとはまるで違う響きがあった。


「それにしても…」

「?」

「アディナは自分の気持ちに真っ直ぐなのね。羨ましいわ。私も若い頃にそうできたら良かった」

「昔、何があったのですか?」

「私ね、ランドルフ様が初恋だったのよ。だけど全然素直になれなくて、つっけんどんな態度ばかりとってしまって…」

「!!」

「結局、失恋のショックから立ち直れず、ランドルフ様と結婚するまで独身だったの。呆れちゃうでしょう?」

「…お母様」

「はい?」

「つっけんどんな態度について、ぜひ詳しく」


 父とブレンダの馴れ初めについて、アディナは呆れるどころか、夢中になって尋ね始めるのだった。

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