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 ルカとのデートは、翌日から三日続いた雨により延期されていた。その間、アディナは恋愛小説を熟読し『ツンデレ』に対する理解を深めようと試みた。実際深まったかどうかは不明である。

 そして本日、雨が上がりカラッと晴れた空を見上げたアディナは、絶好のデート日和だと気分を高揚させる。


「でも浮かれすぎは禁物ね。今回はあくまで雰囲気作りのためのデートなのだから」

「そうですね。髪型はどうなさいますか?」

「あげてちょうだい。女性のうなじを見ると興奮するタイプの男性がいるらしいの。もしルカがそうだったら、魅了できるかもしれないわ」

「かしこまりました」


 今まで何度も髪を結い上げていることは都合よく忘れ、アディナは弾む声で注文をつけた。いちいちツッコんだりしないマーニャは、艶やかで豊かな金髪を丁寧にまとめていく。


「いかがでしょう?」

「マーニャの仕事はいつだって最高よ。どうもありがとう」

「頑張ってくださいね」

「ええ。頑張って『つっけんどんのち照れ屋さん』作戦を決行してくるわ!」


 苦笑まじりのマーニャに見送られ、アディナは意気揚々と出掛けていったのだった。




 海辺の街には、クリュシオン家以外の別荘も点在している。そのため、貴族街には及ばないが治安も割と良かった。店は露店が多く、大通りを散策するだけでも楽しい。


「ねえ、ルカ」

「はい、お嬢様」

「エミリーさんへのお土産は何がいいと思う?」

「!?」

「どうしたの?」

「…いえ。珍しくまともな質問だったので、動揺してしまいました」

「どういう意味よ!」

「そのままの意味ですけど!?」


 てっきりまたいつもの奇怪な問いかけがくるかと思ったが、アディナの質問は至極まっとうな内容だった。それなのに逆に驚愕しまうとは、かなりアディナに毒されている。


「ごほん…えぇと、お土産ですよね。この街の特産品ですと、やはり珊瑚ではありませんか?」

「そうね。でもお菓子と髪飾りは差し上げたから別の物がいいわ。ルカも欲しい物があったらプレゼントするわよ。遠慮なく強請ってちょうだい」

「プレゼントなら以前いただきましたので、お気持ちだけで充分です。あと、欲しい物くらい自分で買いますから大丈夫ですよ」

「お金は余っているところから搾り取るべきよ」

「凄いこと仰いますね!?ちなみにですけど、俺そこまで貧乏じゃないですから!」


 彼の名誉のために断っておくが、公爵令嬢付きの執事として、ルカはなかなかの高給取りである。アディナだって、ただ純粋に喜んでもらいたいだけで、ルカの財布の中身を心配している訳ではない。


「目的はエミリー様のお土産で…って、クライヴ殿下には良いんですか?」

「先日拾ったガラスで良いわ」

「良くないですよ!」

「じゃあ貝殻にするわよ」

「そういう問題じゃなくてですね!不敬罪で捕まりたいんですか!?」


 アディナは決してクライヴを蔑ろにしているのではなく、王子として何の不足もなく暮らしてきた彼に物欲が無く、むしろ拾ってきた貝殻の方が興味深く眺めてもらえることを知っていたからだ。ただし、クライヴの性格を事細かに知らないルカからすれば、その辺に落ちていた貝殻を献上するなど言語道断であった。


「不敬罪が適用されるなら、わたしはとっくの昔に牢屋へ入っているわ」

「偉そうに言うことじゃありません」

「とにかく殿下は貝殻で大丈夫だから。エミリーさんのお土産を探しに行くわよ!」

「はあ…了解しました」


 その後、アディナはお土産選びに集中するあまり、当初の計画をすっかり忘れ去り、空がオレンジ色になるまで思い出さなかった。


(逆に夕暮れ時ってロマンチックじゃない?)


 しかし転んでもタダでは起きないのが、アディナである。夕焼けを見上げて落ち込むどころか、前向きな見方をしていた。オレンジ色に染まる海を眺めて『ツンデレ』を発動する…我ながら完璧な作戦だと思った。


「お嬢様、お土産も買えたことですし、そろそろ戻りませんか?」

「ええ。でももう少しだ、け……」


 ルカの呼びかけに振り返った刹那───アディナは言葉を失った。


「…お嬢様?アディナお嬢様っ!」


 ルカの声を意図的に無視することはあったが、今のアディナには何の音も届いていないみたいだった。

 瞬きも、呼吸すらも忘れて立ち尽くす彼女は、明らかにおかしかった。常日頃から珍妙なアディナであるが、これはそういうおかしさではない。

 その異常ともとれる様子にルカは大きな焦りを感じ、何度もアディナの名を呼んだ。だが、彼女は目を見開いたまま微動だにしない。夕陽に照らされる顔は青ざめているようにも見える。


(いったい何が…っ)


 埒があかないルカは、硬直するアディナの視線を辿った。その先にいたのは一組の親子の姿。フローラと同い年くらいの男の子と、その母親だろうか。


(あの母親、どこかで……まさか…っ!)


 遠目では判断しかねるが、男の子を抱き上げた母親は、アディナによく似ている気がして、ルカは愕然となった。

 アディナよりも褪せた金色だったが、癖のないストレートの髪の女性は、抱えた我が子と笑い合っていた。心底、幸せそうに…


「…っ!」

「お嬢様!?」


 アディナの喉から、息を呑むような音が聞こえたかと思うと、彼女は突如として親子から目をそむけて逆方向へと走り出した。やや出遅れたルカだったが、すぐさまアディナを追いかけるべく地面を蹴った。

 これでもそれなりに鍛えているルカは、あっという間に追いつくことができ、夢中でアディナの手を捕らえた。細い手が小刻みに震えるほど強く握り締められているのに気付き、ルカは胸が疼いた。


「………放して…」

「…その靴で疾走するのは危険です。もう走らないと誓ってくださるなら、放します」


 アディナがわずかに頷いたのを確認してから、ルカはそっと掴んでいた手を解いた。

 マーニャが結ってくれた髪は解け、儚げに揺れている。こんなにも頼りない背中を見せるアディナは初めてだった。ややあって、ふらふらと歩き始めたアディナに、やはり半歩後ろからルカも無言でついていった。




 アディナは別荘には戻らず、ひと気の無い海岸でようやく足を止めた。太陽は地平線に沈み、夕焼け空から星空へと変わりつつあった。


(……あの人…本当はあんな顔も、できたのね)


 出て行けと怒鳴りつけてから、はや十年。

 それでもあの女性が、かつて母だった人だとすぐにわかった。一緒にいた男の子は"本当に愛した人"との間に生まれた子供だろう。


(わたしには…抱っこなんて……してくれなかったのに…)


 愛情に満ちた『母親』をやっているあの人を目にして、アディナは痛烈なショックを受けた。立っている地面が割れて、ひたすら落ちていくかのような感覚だった。心臓のあたりが痛くてたまらない。

 アディナは母親に愛されていなかった。本当の本当に、いらない子供だった。

 問答無用で再び叩きつけられた辛い現実。十年前に持て余した激情が、腹の底から突き上がってくるのを感じて、アディナは目の奥がちりちりした。


「……ルカ」


 ルカが黙って控えていることは、気配でわかっていた。アディナは彼に、泣いているところを見られたくなかった。何故なら、この涙がルカの弱点であると、彼女自身も知っているからだ。

 昔、アディナが泣けば、ルカは絶対に根負けして何でも言う事を聞いてくれた。けれど、もうそんな甘え方はしたくない。いつまでも子供扱いされるのは御免だった。


「はい、お嬢様」

「…ちょっと、どこかへ行ってて」

「……では、失礼します」


 アディナは夜の海に顔を向けたまま、振り返らなかった。

 アディナが独りにしろと言うのならば、それに従うのが執事として取るべき行動である。しかしながらルカの足は、命令とは違う方向へ動いていた。

 確かにルカは、アディナの涙に弱い。だがそれ以上に、泣いている彼女を放っておくことなどできやしないのだ。月光に輝く雫が滑り落ちていくのを見て、ルカは手を伸ばさずにはいられなかった。

 ルカの気配が遠ざからないことに、アディナが不審感を覚えた時には、すでに後ろから抱きすくめられていた。


「る、ルカ!?なにを、して…っ」


 背中から伝わってくる熱に、アディナは平静でいられなくなる。首の下で交わる固い腕に手をかけるものの、振り解くには至らない。


「…泣きたいのでしたら、胸ぐらい貸します」


 降り注ぐひどく切ないルカの声が、アディナの胸に甘い痛みを生じさせる。


「だから…どこかへ行けなんて、言わないでください」


 海の波音をもってしても、高鳴る鼓動は掻き消せなかった。

 アディナは、奥歯を噛み締めて嗚咽を飲み込んだ。さっきとは真逆の温かな感情がせり上がってきて、とても苦しかった。でも、それを辛いとは感じない。


「…っ、わかった……もう…いわない、わ」

「約束ですよ?」

「ええ…っ」


 ルカの腕に縋り、アディナは静かに泣いていた。そうすると、回された腕に力がこもり、アディナの瞳にいっそう涙が溢れてくるのだった。


「…ねえ、ルカ」

「はい、お嬢様」

「ルカがいてくれて、良かった…」

「俺も、同じ気持ちです」

「…みんなには内緒にしておくから、もう少しだけ胸を貸して」

「ええ、喜んで。旦那様に知られたら大目玉を食らうので助かります」

「ふふっ…大丈夫よ。そうなっても、わたしがルカを助けるわ」

「それはとても心強いですね」


 涙を拭って笑うアディナ。

 やはり彼女には涙より笑顔の方が似合うと、ルカは強く思う。恋愛小説を片手に奇抜なことをやらかすアディナが、彼女らしくて一番良い。


 アディナの涙が止まっても、体を離すのが互いに名残惜しくて、しばらくそのままの体勢で言葉を交わした。


「ルカ、本当に欲しいものはないの?今日のお詫び兼お礼がしたいのだけれど」

「…では、お嬢様が拾った貝殻の中で、一番だと思ったものをください。ガラスでもいいですよ」

「そんなものでいいの?」

「いいんです」

「じゃあ張り切って、とびっきりの貝殻を見つけてくるわ」

「お願いします」


 二人して帰りが遅くなったために、結局はランドルフから大目玉を食らう羽目になるのだが、アディナは自分の言葉を曲げない人間だった。ちゃんとルカを庇い、お咎め無しとした上に「罰として残りの休暇中、わたしがお父様のお食事をご用意いたしますわ!」と豪語し、ランドルフを戦慄させるというオマケ付きで。

 嫌な結末が目に見えたランドルフは、ただ大人しくしていなさいと必死に宥めることとなり、何に対して怒っていたのかわからなくなったと後に語る。

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