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 水の国ソルジェンテ。

 入り組んだ運河を流れる水は今日も澄み渡っている。水音の鳴り止まない壮麗な国で、一・二を争うほどの大きな屋敷を構えるのは、クリュシオン公爵家だ。さすがは筆頭貴族と名高いだけのことはある。


「ねえ、ルカ」


 そんな立派な屋敷の一室で、優雅に読書を楽しむ公爵令嬢───アディナは、読んでいた本を閉じ、執事の名を呼んだ。


「はい。アディナお嬢様」


 読書が終わる頃を見計らい、紅茶を淹れようとしていたルカは手を止める。しかし、アディナの赤い薔薇のような瞳がきらきらしているのを見て「これはまた、碌でもないことを口走るな」と直感した。


「わたしと恋愛してみない?」

「いや、無理ですけど」


 ピーチチチ…と窓の外で鳥が鳴いていたのが、なんとも調子外れであった。


「どうして?」

「どうしても何もお嬢様は公爵令嬢、俺は執事ですよ!?明らかに釣り合ってないじゃないですか!俺の実家は一応、準男爵家とつきますけど、要するに平民ですからね!?」


 淹れていた紅茶をソーサーごとひっくり返さずに済んだのは、彼が敏腕執事だからではない。ひとえに、このお嬢様に仕えて長いからである。出会った日から数えるなら、それこそアディナが赤ちゃんだった頃からの付き合いだ。


「はあ…あなたは流行りに疎いでしょうけど、巷で人気なのよ?身分差って」

「それはどこの巷ですか。この国の常識に当てはめてください」


 溜息を吐きたいのは、ルカの方だった。

 アディナの趣味が読書なのは大いに結構。たとえ読むのが恋愛小説ばかりでも別に良い。けれども問題は、このお嬢様がすぐに読んだ小説の影響を受けてしまうことであった。

 ある時なんて、狼男との恋物語を読んだばっかりに、愛犬のラッキーに向かって「わたしの運命の相手はあなたかもしれない」と話しかけ、ルカを戦慄させた。本気で医者を呼んでこようかと迷ったくらいだ。もちろん頭の、である。

 またある時は、主人公の家にやってきた義弟と恋をする話を読み「ちょっとお父様に相談してくる」と椅子から立ち上がったため、ルカは大慌てで引き止める羽目になった。


「今回はご令嬢と使用人のお話だったんですか…?」

「ええ。それでどうなの?わたし、見た目もそんなに悪くないと思うし、駆け落ちだって余裕で受け入れるわよ」

「変なところで寛大さをみせられても困ります」

「禁断の恋って燃えるわよね」

「勘弁してください…」


 見た目も悪くない、どころではない。

 アディナは超が付く美人だ。十人とすれ違えば、必ず全員が振り向くほどである。黄金の髪はまっすぐで艶やか、且つ、真紅の瞳との対照が非常に綺麗だ。顔のパーツも人形のように整った配置を為している。


「いい?ルカ。このリボンを見て」

「?」

「こっちの端が公爵家で、こっちの端が準男爵家ね。端っこ同士だけれど、こうして輪っかにしてしまえばほら、一番近いもの同士になるのよ。序列なんて所詮こんなものだわ」

「…もしかして酔っているんですか?」


 こんな頓珍漢な事を言わなければ、完璧な公爵令嬢なのだ。もう酔っているとしか思いたくないが、生憎と彼女は素面である。見てくれは最高なだけに、ルカはつくづく残念でならなかった。


「まだお酒の飲める年齢に達していないのに、飲むわけないじゃない」

「そういう常識はあることを喜ぶべきですかね…とにかく、この話は終わりです。何と言われようと無理ですから」


 心なしかしゅんとするアディナに、ルカは若干罪悪感を覚えたが、これ以上被害を拡大させる訳にはいかない。ここは心を鬼にして、と言い聞かせた直後。


「身分差がダメなら、年の差ね。わたしの知ってる方だと…ブラスト伯爵あたりかしら?」


 ルカは自分の口元が引き攣るのがわかった。ひどく疲れた顔をしながらも、彼は律儀にツッコミ続ける。


「もうそれ、お爺ちゃんと孫ですよ」

「ルカはだめ出しばかりね」

「だめ出ししかさせてくれないのは、お嬢様の方でしょう!?」

「…こうなったら、いよいよあの本に手を出すしかないわ」

「…どの本です?」

「わたしも読むのに勇気がいるけれど、新しい扉を開けるのも悪くないかもね」

「ま、まさか…同性同士の恋愛を描いたもの、とか言いませんよね?」


 ルカは生唾をごくりと飲み込んだ。そんな執事の不安をよそに、アディナは不思議そうにしつつ隠してあった一冊の本を取り出した。


「すごいわね。どうしてわかったの?」

「それだけはいけません!!」

「あっ!?ちょっと!!」


 アディナの手から素早く本を抜き取ると、ルカは後ろ手に隠してしまった。


「入手困難な本なのよ!?」

「だめです!こっちの世界は危険なんです!二度と戻れなくなりますよ!」

「…やたらと詳しいのね。ルカ」

「…身内に堕ちた人がいるんです」

「堕ちた?」

「何でもありません。忘れてください」


 げっそりしながら、ルカは咳払いを一つする。


「…恋愛の王道と言えば幼馴染でしょう。ちょうどお嬢様には、クライヴ殿下がいることですし、そんな禁断の道に走らなくてもいいじゃないですか」

「殿下のことはどうでもいいの。その本を返してちょうだい」

「我が国の王子を『どうでもいい』なんて言っちゃいけません!!」


 ルカの悲鳴が木霊する、長閑な昼下がりであった。




 ルカがアディナの自室に出入りするのは、基本的に日中だけだ。朝晩の身支度はメイドのマーニャが担当している。赤ちゃんの頃からの付き合いとはいえ、男のルカが着替えや入浴の手伝いをするわけにはいかない。


「今日も成果なしだったわ…」

「残念でございましたね」


 一日の終わりに、悩ましげな吐息を漏らすアディナ。寝間着の彼女は、マーニャを相手に愚痴を語っていた。


「結局、本も取り上げられたままだし」

「まだ秘蔵のご本があるのでは?」

「そうね。惜しいけれど、一冊くらい我慢しましょう。ところでマーニャ」

「はい。何でございましょう?」

「透け透けの衣装で夜這いするのって、どう思う?」

「はしたないと思います」


 ルカには劣るが、マーニャも公爵家で働き始めてそこそこになる為、ぽんこつアディナへの耐性がついている。


「でも、男の人はそういう淫らな女性も好きだって書いてあったわ」

「趣味趣向は人それぞれですし、少なくともルカさんは怒ると思いますよ。しばらく口を聞いてくれなくなりそうです」


 しかしながらマーニャの方が、ルカよりもアディナの扱いには長けていた。


「それは嫌だわ。ルカとお喋りできないなんて退屈だもの」

「では、夜這いは廃案ですね」


 神妙な顔で考え込むアディナは何を隠そう、自分の執事に恋する乙女だった。ちょっとばかり方向性を見失っているが、ルカを振り向かせようと一生懸命なのだ。


「…どうすれば、ルカの気を引けるのかしら」

「間違いなく気は引けてますよ」


 ただし恋愛的なアレではなく、心配的なソレである。


「お嬢様の頑張り方は独特ですから…」

「正攻法は試したわよ。ほら『降って湧いた好色(=ラッキースケベ)』とかいう…でも、全然効果が無かったわ」


 恋愛小説の描写をそのまま実行に移そうと、アディナはよろけるフリをして、ルカに抱きついたことがあった。もちろん、しっかりと自身の豊満な胸も押し当てて。

 ところがルカは「お嬢様が躓くなんて珍しいですね。大丈夫ですか?」だなんて平然と返してきた。微塵も慌てふためく様子が見られず、内心がっかりさせられたのは記憶に新しい。


「逆にルカの足を引っ掛けて『壁ばさみ(=壁ドン』とやらもやってみたけれど、反応はイマイチだったし」

「果たしてそれは正攻法だったのでしょうか…」


 相手をわざと転ばせて壁ドンさせるなど、もはや熟練者の為せる技だ。ちなみにその時のルカはというと「鍛錬が足りませんでした!」と、自分の体幹を責める始末であった。


「胸元の開いたドレスを着ても、赤面すらしてもらえないなんて……わたしはまだ子供だと思われているのね。もうすぐ十八になるっていうのに、失礼な話よ。まったくもう!これだけ色々試しているのに、ルカの好みがさっぱりわからないわ!」


 扇情的な衣装を着ようが、ルカの対応はいつも通り。よくお似合いですよと言うだけ。くびれるところはくびれ、出るところは出ているアディナは、同性から見ても魅力的な体躯であるにも関わらずだ。正直、マーニャは羨ましくてならない。


「お嬢様は充分、素敵ですよ」

「ルカもいつかそう思ってくれると嬉しいのだけれど…」


 肩を落とすアディナには悪いが、マーニャは知っている。


(お嬢様が鈍感…というよりは、ルカさんの忍耐力が凄すぎるんですかねぇ)


 二人はとうに、両想いだという事を。


(ルカさんが自分の気持ちに素直になれば、丸く収まるのですが……難しそうですね)


 アディナがラッキースケベを試みた時、ルカは後からちゃんと真っ赤になって、大量の汗を流していたのを、マーニャは目撃している。

 アディナが露出の多いドレスを着ようものなら、休憩室で延々と嫉妬混じりの文句を呟いているのも、マーニャは耳にしている。

 しかしルカは、そのあからさまな態度を、絶対にアディナには見せないのだ。あまりの徹底ぶりに、思わず感心するほどである。あれでは察しの良い人間でも、そうそう気付けまい。


「…私は応援していますよ。相談ならいつでものりますから」

「ふふっ、ありがとう。マーニャ」


 お嬢様と執事、その険しい恋路を知るメイドは、心の中で上手くいくようにと祈るのだった。

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