17
波乱のパーティーは終わり、明くる日には通常通りの学園生活が始まった。
しかし一人だけ、昨夜の夢心地から抜け出せていない令嬢がいた。
「……締まりのない顔ね」
「ハッ!すみませんっ、私ったらまた…」
制服のポケットに入れた白色のハンカチを、ちょこっと取り出してははにかむ…というのを繰り返しているエミリーだ。
『戦闘服』を台無しにしてしまったお詫びに、新たな恋愛小説を持ってくると言うので、休憩時間に会う約束をしたのはいいが、この体たらく。何かとても良い事があったのは嫌でも察せられたため、アディナは特に追及しなかった。
「そんな風にあからさまに大事にしていると狙われるわよ」
「そ、それは困ります!」
「宝物なら、そう気付かれないように持っておきなさい。それで、例のものは?」
「あっはい、こちらです。身分差の恋物語を探してきました」
「気がきくわね。今のうちに熟読して、夏季休暇までには実践できるようにしておかないと」
「そういえばもうすぐお休みですね。アディナ様は、どんな風にお過ごしになるのですか?」
「家族で別荘へ行くわ。そこで夏を過ごすのが毎年恒例なの」
「わあ!素敵ですね!」
「エミリーさんは?」
「私はまだ未定です…けど、イゾレ国に旅行へ行きたいなと思っています」
あわよくば昨夜のように、オーウェンに偶然出会えるかもしれない。エミリーの発言は、そんな淡い期待に基づいたものだった。
(…でもそれじゃあ弱気ですよね。アディナ様ならきっと「偶然を待っていないで、必然を求めにいきなさい」って仰るはず)
強気でいくと覚悟を決めたはずではないか。せっかくお近づきになれたのだ。ここで尻込みしていては、この先ずっと変われないままな気がする。エミリーはまた無意識のうちに、服の上からハンカチに触れる仕草をしていた。
「旅行というより、帰郷ではなくて?ずっとあちらに居たのでしょう」
「そうかもしれません」
「イゾレ国ってどんな雰囲気なのかしら」
「ソルジェンテ国とは全然違いますよ。腕利きの職人さん達が集う場所ですから、雑多な感じがします」
「面白そうね。一度行ってみたいわ」
「その時は一声かけてくださいね。私がご案内しますから!」
…なんて、アディナ達が楽しげに喋っている頃。クリュシオン公爵家の屋敷では、休暇に向けての準備が始まっていた。馬車で半日はかかる別荘には、プライベートビーチがあり、一家はそこで休暇の大半を過ごす。不便が無いよう支度を整えておくのがルカ達、使用人の役目である。
「すみませんがルカさん、運ぶのを手伝っていただけますか?」
「いいよ。どれ?」
「これです。ちょっと重たいので」
「うわっ…本当だ。中身は何?」
「お嬢様がお読みになる本です」
「よし。置いていこう」
「だめですよ。お嬢様たってのお願いなんですから」
「どうして服よりも、本の数の方が多いんだ」
マーニャが手にしている衣装は五着。対してルカが持っている木箱には、恋愛小説が十冊以上。明らかに比重がおかしい。
「衣装は洗って着回せば良いと仰っていました」
「お嬢様が時々、庶民くさいのはなんでだろ…」
「あとで私が何着か追加しておきますので、ご心配なく」
「今年も一番早く準備が終わるのはアディナお嬢様か」
「その点、フローラお嬢様の方が普通のご令嬢らしいですね」
休暇中の支度を、アディナはマーニャに丸投げで、フローラはあれこれと楽しそうに吟味するのが常だった。
アディナが考えているのは、ルカを落とす方法だけである。
「どうせまた、おかしな事を言い出すんだ。はあ…気が重い」
「…そんなに憂鬱なら、今からでも騎士に転向なさったらどうですか」
アディナの頓珍漢で懸命なアプローチを、ルカは本気に捉えていない。あの意味不明な行動から捉えろというのが厳しい話かもしれないが、彼女に長年仕えていれば気が付きそうなものだ。本人の意図しないところで、直感に歯止めをかけてしまっているのか。それはマーニャにも、ルカ自身にもわからない。
アディナの覚悟を知っており、そして使用人ゆえの諦めの気持ちも理解できるマーニャは、ただただもどかしかった。
「……それは嫌だ。本当の意味での騎士になったら、俺は守りたいものを守れなくなる」
低い声でそう答えるルカ。
その言葉の真意は、アディナがルカの名を呼べるようになったばかりの時分にあった───
アディナの夜泣きがおさまった後も、ルカは相変わらず公爵家に出入りしていた。母親は育児放棄、ランドルフは多忙のため娘に構う時間を作れず、代わりにルカが呼ばれていたのだ。
丁度いい子守役に抜擢されたルカだったが、とてもよく懐いてくれるアディナが可愛くて、喜んで引き受けていた。どれだけ懐いていたかというと、ルカが帰ろうとしようものならば、アディナが「かえっちゃ、いや」とぽろぽろ泣き出すくらいである。ルカは赤薔薇の瞳から溢れる涙に、一度として勝てた試しがない。ぎゅっとしがみついてくるアディナを引き剥がせず、困ったような嬉しいような、くすぐったい気持ちになったものだ。
このくらいの年齢になると、 ルカもアディナが高貴な身の上であることを理解し始めており、子供ながらに『たいせつなおんなの子』だと認識していた。騎士の家庭で育ったからか、守るべき存在と見るのが自然なことになっていたのかもしれない。
そんな折、ルカは父親から問われた。
『将来、お前は騎士になりたいか?』
父の背中を見て育ってきたルカは、自分も騎士になるのが当たり前だと思っていた。だからその問いに、すぐ首肯した。
『…そうか。だが、騎士には守らなければならないものが沢山ある』
ルカには、父が何を言いたいのかよくわからなかった。ところが、次の言葉を聞いた瞬間、体の芯が冷えたような気がしたのだった。
『この国の騎士になったら、アディナお嬢様だけをお守りすることはできないんだ』
この国に忠誠を誓った騎士が、命懸けで守るべき相手は国の頂点に立つ者である。極端な話をすれば、アディナよりも国王の命が優先されるということだ。ルカの父はその事を問うていたのだ。アディナを見捨てなければならない選択を強いられた時、お前にそれができるのか。周囲が納得したとしても、自分自身がそれを許せるのか、と。
会ったこともない王族より、至極大切な存在ができたルカは、どうしても首を縦に振れなかった。
『…おれは、騎士になれないの?』
『そんなことはない。お前が望むなら、アディナお嬢様だけの騎士になればいい』
『どうやって?』
ルカの髪をぐしゃぐしゃと撫でながら、父は『いずれわかるさ』とだけ言っていた。
そうしてルカが選んだのは、アディナの執事という道であった───
「…で、お側で見守れるようになったものの、見たくない光景まで見せられる苦行が待ち受けていたと」
「結構はっきり言うなぁマーニャは。俺だって最初は、お嬢様と殿下が婚約するって疑わなかったよ。というか、今でもそうなるだろうなと思ってるし」
「でもルカさんは嫌なんでしょう?」
「俺の気持ちなんか…」
あとはルカさえ手を伸ばせばいい、そういう状況に仕向けていったのは、ほかでもないアディナだ。彼女はずっと待っている。ルカが身分差の壁を、彼自身の力で乗り越えてきてくれるのを。
(そう伝えられたら良いのですが…)
沈んだ面持ちのルカを見遣り、マーニャは少しだけ眉を下げた。しかしマーニャが教えてしまうのは反則であろう。何よりアディナが望んでいない。
「ではもし、お嬢様がクライヴ殿下ではなく、ルカさんを選んだらどうするんですか?」
「あるわけないよ。そんなこと…」
「もしもの話です」
「俺に許されているのは、お嬢様の半歩後ろに立つことだけだ。隣に並ぼうなんて、夢にも思わない」
「………」
「ほら、はやく運ぼう」
「…とか言って、何冊か抜き取らないでください。全巻揃っていないと、拗ねられますよ」
「俺をからかって面白がるのは、勘弁してほしいんだよ」
肌身離さず持っている懐中時計が、ポケットの中で重みを増した気がした。
「そういう時こそ『俺がどんな思いでいるかも知らないで…!』とか言いつつ、怖い顔で迫るのが王道ですよ」
「君、お嬢様と同類だったっけ?」
「たまにはやり返してみてもいいんじゃないですか?お嬢様の貴重な赤面が見られるかもしれませんよ」
「…いや、蹴りが飛んでくるだけだろ」
マーニャの意見の方が正しいのは、言うまでもなかった。




