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エミリーがアディナ達の踊りに見惚れていられたのも、初めのうちだけだった。アディナの予告通り、ダンスの申し込みが後をたたなかったのである。
(アディナ様に特訓していただいて本当に良かった…)
不慣れなものの、どうにか形になっているのは、ひとえにアディナのおかげだ。しかし、もうそろそろ足が限界に達しそうだった。エミリーは曲の切れ目がやって来ると、必死の思いで人の波に紛れ、次の声がかかる前に会場を抜け出した。
(どこか座れそうな所は…)
何せ初めて訪れた場所なので、エミリーは休み場を求めて、当て所なく彷徨うほかなかった。けれどもその途中で、彼女は中庭にあるものを見つけ「あっ」と声を上げたのだった。
(あれはもしかして…"女神像の噴水"?)
女神像の噴水について、以前アディナが教えてくれた事がある。「お城の噴水を使ったおまじないがあるのよ」と。
『噴水の水面に浮かぶ月を両手で掬って、その水を女神像が持つ甕に入れるの。それから願い事をすれば叶うって噂よ。掬い上げた水を甕に入れるまで、月を映し続けないといけないから、なかなか難しかったわ』
彼女の口ぶりからして、すでに経験済みなようだった。
『でも一つだけ失敗しちゃったのよ。ルカと結ばれますようにってお願いしたのだけど、これだといつ叶うのか不鮮明だったわ』
だから願い事は慎重かつ具体的に、と締めくくられた言葉を思い出して、エミリーはくすりと笑っていた。偶々だったとは言え折角見つけたことだし、王城を訪れる機会なんてそうそうない。この際だから自分も願い事をしてこようと思い、中庭へと向かう。
(お願いかぁ…どうしようかな)
おまじないなんて気休めだろうが、それでもアディナは真剣に取り組んだに違いない。だとしたら、エミリーも真剣にお願いしようと心に決めた。
月明かりに照らされる豪華な噴水はとても綺麗で、時間を忘れて見入ってしまいそうだった。しかし、今はパーティーを抜け出している最中。あまり長居はできない。
「まず水面に浮かぶ月を両手で掬って…」
アディナの説明を反芻しながら、エミリーはおまじないの手順を踏んでいく。
「月が消えないように…」
「そこにいるのは誰ですか?」
「ひゃあっ!?」
いきなり背後から予期せぬ声が聞こえてきたため、エミリーはびっくりして肩を大きく跳ね上げる。その拍子に、両手で掬っていた水は全部落ちてしまった。
「驚かせてすみません」
「いっ、いえ…私こそ、声を上げてしまい申し訳あり…」
月光の下で佇む人物を見た瞬間、エミリーは鼓動が止まったかのような錯覚を起こしていた。実際に止まっていたのは息遣いだ。
(……オーウェン様が…どうして、ここに…)
黒髪を夜風に揺らす青年の名はオーウェン・イゾレ。つい最近までエミリーが暮らしていた、孤高の国イゾレの第二王子である。恐らく自国の代表として、今夜のパーティーに参加していたのだろう。
「どうしました?」
柔らかな問いかけに、エミリーはハッと我に返った。お忍びで街に出ていたところを偶然見かけたエミリーは彼を知っているが、オーウェンからしてみれば初対面の相手だ。
(どうしよう…何とお答えすれば…)
逸るのは気持ちばかりで、言葉が出てこない。
緊張、歓喜、興奮、畏敬…たくさんの感情がいっぺんに流れ込んできて、気を失いそうになる。
「噴水に物を落としてしまったのですか?」
「!い、いけませんっ」
びしょ濡れのままだった両手を目に止めたオーウェンは、ハンカチを取り出して彼女の手に当てた。慌てて止めに入るエミリーだったが、ハンカチは水分を吸ってしまっていた。
王子の私物を汚してしまい、エミリーは青ざめる。そんな彼女を安心させるかのように、オーウェンは微笑んだ。
「それは差し上げますから、お気になさらず」
「差し…!?そんなっ、頂けません!」
「いいんですよ。それよりも何をしていたのか、教えてもらえませんか?」
さりげなくエミリーにハンカチを渡しながら、オーウェンは質問を重ねる。何が起きているのか、ちっともわからないエミリーは、たどたどしく噴水にまつわるおまじないの話をした。
「へぇ…水の国ならではといったおまじないですね。興味深い。それで君は何をお願いしようとしていたのですか?」
「私にはとてもお世話になった方がいるのですが…その方のお願いが一日も早く叶いますように、とお祈りしようと思って…」
エミリーはぼうっとする頭で、懸命に喋る言葉を探した。
「君自身の願いは?」
「…?どういう意味でしょうか」
「…いえ。あれこれ聞いてすみません。最後に一つだけ、君の名前を教えてください」
「エミリー、です」
「ありがとう。ではエミリー嬢、おまじないの続きをどうぞ。僕も一緒にやってみようと思います」
「……えっ!?ご一緒に、なさるのですか!?」
「もしや、二人で行うと効果がないのですか?」
「い、いえ。そのようなお話は聞いておりませんが…」
「良かった」
何故かエミリーは王子とおまじないをすることになり、熱をもった顔のまま、女神像の甕に一緒になって水を入れたのだった。何をお願いしたのだろうかと、麗しい横顔を眺めていたら、不意にオーウェンと目が合ってしまった。途端にエミリーは彼から目が離せなくなる。
「…エミリー嬢の心に秘められた願いが叶いますように」
「えっ……?」
「そう、祈りました」
暫し、見つめ合う二人。
静寂を破ったのは、真っ赤になって慌てふためくエミリーだった。
「あああのっ、これ、宜しければお使いくださいっ!安物ですが、水気はしっかり拭き取れるはずですので!」
乾いている自分のハンカチを、オーウェンに差し出すエミリーは、もう彼の顔を見ることができなかった。
「じゃあ、僕のと交換としましょう」
とりあえずこくこくと頷くエミリー。
ふっと笑う気配があったかと思うと、オーウェンは「思い出の一夜になりました」と言い残し、去っていったのだった。
(……今のは…都合のいい夢…?)
しかし、中庭にぽつんと立つエミリーの手元には、手触りの良いハンカチがある。それが夢でも幻でもない証であった。じわりじわりと身を震わせるような感動が押し寄せてくる。
(オーウェン様に…名前を、呼んでもらえた…)
遠くから眺めるだけの存在だった人。彼の視界の端に止まるかどうかもわからなかったはずなのに…
(…大変です、アディナ様。ほんとうに真正面から映り込んでしまいました…)
オーウェン・イゾレ、彼こそがエミリーの身分差恋愛の相手であった。
ふわふわした足取りは治りそうになかったが、顔の火照りが静まると、エミリーは会場に戻っていった。
丁度、アディナは何人目かの令息と踊り終えたところで、グラスを片手に休憩していたのだが、すぐに戻ってきたエミリーを見つけていた。正確には、エミリーの死角で何事かを企む令嬢達が目に付いた、である。きっと、お目当ての令息がこぞってエミリーに声をかけていたのが腹立たしいのだろう。報復する機会をうかがっているのが明らかだった。
(ぼーっとしてないで、周りを見なさい!)
アディナは心の中でそう念を送るも、エミリーはぼんやりとしたままで、どこか様子がおかしい。また喝を入れてやらねばと、アディナは腑抜けている後輩に向かって一歩を踏み出す。そうこうしているうちにエミリーの近くを、水の入ったグラスを運ぶ給仕役が通り過ぎようとしていた。
(お約束にもほどがあるわ…まったく仕方がないわね)
これから起こる事が容易く予想できてしまい、アディナは笑いたくなった。典型的だが、そこそこダメージを食らう嫌がらせだ。国王の前で水をかぶるなど、恥以外の何物でもない。
一人の令嬢が給仕役の足を引っ掛けたタイミングを見計らい、アディナはエミリーとの間に上手いこと割って入る。
「ここにいらしたのですか、殿下…」
その際、クライヴに用がある振りをするのも忘れなかった。あくまでも偶然を装い、エミリーを守ることが目的だったと、周囲に気取られないようにする為である。
アディナの目論見通り、グラスの水は彼女の真紅のドレスを濡らしたのだった。顔にはかからなかったが、首から下はびしょびしょだ。
「アディナ様っ!?」
彼女の名を呼ぶ声が四方から聞こえる。その中には当然、エミリーのも、犯人達のも含まれていた。砕け散ったグラスの音で、皆の視線がアディナに集中する。三者三様の思惑が交錯する中でも、彼女は凛と立っていた。
「大丈夫ですか?給仕役の方」
「もっ、申し訳ございません!!どうかお許しを!!」
「わたしは平気ですわ。失敗など、誰にでもあることです」
手をついて謝る給仕役に、アディナはできるだけ穏やかな声で告げた。彼は女同士の諍いに巻き込まれた、哀れな被害者にすぎない。速やかに給仕役を逃したアディナはその後、集まってきた人々へ向けて、優美に微笑みながら声を張る。
「お騒がせして申し訳ありません。皆様、引き続きパーティーをお楽しみくださいませ」
会場から立ち去る間際、アディナは顔色を悪くしていた令嬢達を睨んだ。見ていたわよ、そんなメッセージを込めてやったが、彼女達の狼狽えっぷりからして、正しく伝わったらしい。
「…アディナ様っ!」
颯爽と廊下を進むアディナを追いかけてきたのはエミリーだった。いつぞやのように泣きそうな顔をしている。エミリーは、アディナのぴんと伸びた背中の向こうに、意地悪く笑う人達の姿を見つけていた。そして、彼女達の狙いが自分であった事、それに気付いたアディナが咄嗟に庇ってくれた事を悟ったのだ。
「ごめんなさ…」
「お礼を言うわ、エミリーさん。これでルカに会いに行ける口実ができたもの。まさしく『水も滴る良い女』作戦ね」
今日のドレスがルカに選んでもらったものであると、エミリーは知っていた。アディナが嬉しそうに話してくれたからだ。それをエミリーの不注意で台無しにさせられたのに、彼女は責めず、むしろエミリーが罪悪感を抱かないような台詞を口にした。ほぼ本音だったのだが、後輩を思い遣って言ったのも事実で、エミリーはますます申し訳なくなった。
「さっきまでお花を飛ばしていたのに、忙しい人ね。そのみっともない顔を何とかして、はやく会場に戻りなさい」
「……はい」
「あなたが濡れなくて良かったわ」
アディナの最後の言葉で、エミリーの瞳に張られていた水の膜が決壊するのだった。
ちなみに『水も滴る良い女』作戦の結果は、割と上々であったといえるだろう。
「お嬢様!?その格好はいったい…!?」
「濡れちゃったわ」
「そんなの見ればわかりますよ!俺が聞きたいのは濡れた経緯です!万が一、風邪がぶり返したらどうするんですか!」
「いつの話をしてるのよ」
「ああもう!着替えをもらってきますから待っていてください!」
濡れたアディナは艶めかしく、非常に目の毒であり、ルカはすぐさま替えのドレスを借りるべく、廊下を全力疾走する羽目になった。残されたアディナは、彼が着せてくれた大きなジャケットに包まれて、幸せそうな表情を浮かべていたのだった。




