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生憎の雨天だろうと、読書が趣味の令嬢にとって、落ち込む事案にはならない。相も変わらず恋の教科書、もとい恋愛小説の活字を真剣に目で追っている。
「ふむふむ…なるほど…」
何やらぶつぶつ呟くアディナに、ルカはもう嫌な予感しかしなかった。紅茶に眠り薬でも仕込めば、一時的にだが大人しくなるかもしれない。そんな誘惑と闘う執事は、多分この国でルカだけだろう。
「ねえ、ルカ」
「…はい、お嬢様」
「そこまで辛くないけれど、仕事にはわずかに支障が出る程度の熱を出してくれない?」
「仰ってる意味がわかりません」
「ルカを看病してみたいわ」
「仰ってる意味がわかりません」
後にこれは『熱で弱っているところに優しくされるとコロッと落ちる』作戦と命名される。余談だがクライヴの感想は「長い」であった。
「看病するっていう体験をしたいから、軽めの風邪を引けと言っているのよ」
「仰ってる意味が!わかりません!」
「治療代はわたしが持つわよ」
「ちょいちょい変な優しさを挟まれてもお断りですよ!」
熱に苦しむルカを手厚く看病する…そんな情景が浮かんだアディナは早速実行しようと思ったのだが、やはり無理がありすぎたようだ。本を閉じると、諦めの吐息も自然に出てくる。
「…そうね。やっぱり、ルカが寝込むなんて可哀想だったわ」
「お嬢様の良心が正常に機能してくださって良かったです」
「そういえばルカって、昔から風邪ひとつひかないわね」
「俺の仕事は体が資本ですし、お嬢様にうつしでもしたら大変ですから」
ルカは自分の体調管理に神経を使っている。それは何故か。答えは単純、アディナのためだ。休めばアディナと過ごす時間が減るのも勿論だが、ルカが一番避けたいのは彼女が病気で倒れることである。
見ての通り頑丈なアディナなのだが、何故か風邪はひどくこじらせるタイプだった。元気な時と倒れる時の差が極端で、珍しく風邪を引けば必ずと言っていいほど高熱を出す。そうなると、さしもの彼女も覇気を無くし、辛そうに横になっている。
大人しくしてくれと、散々心の中で念じてはいても、いざ実際に寝込まれると、尋常じゃないほど心配になるものだ。しかも決まって嫌な夢を見るのか、ひどく魘されることもしばしばで、ルカは気が気ではなくなる。
そういう訳で、ルカから風邪をうつすなんて事は、あってはならないのだ。
「ふふっ、じゃあわたしも、ルカにうつさないよう、気をつけるわ」
「是非そうしてください」
そんなやりとりを交わしたのが三日前のこと。
「…これが伏線回収、というやつね……」
アディナはものの見事に風邪をひいていた。しかも、予想通りというか何というか、起き上がれないほどの高熱だった。喉に激痛が走るそれは、まさしく夏風邪である。下らないことを口走る声は、ひどく掠れて力が無かった。
「お嬢様。食事をお持ちしましたが、食べられそうですか?」
衣類の交換はマーニャが、食事の世話はルカがしてくれた。トレーを持つ彼は、焦げ茶色の瞳に心痛をありありと滲ませている。
(ああ…また心配をかけてしまったわ…)
苦しげな呼吸をしながら、アディナは小さく唇を噛んだ。
「……ごめん、なさい…」
「でしたら、お薬だけでも飲んでください。喉の痛みが和らげば、食べやすくなりますよ」
「ええ…そうするわ。ねえ…ルカ。起こしてくれる?」
「はい、お嬢様。失礼いたします」
アディナのおねだりは、甘えではない。本当に一人では起きられないのだ。
体にまったく力が入らず、ルカの腕にはアディナの全体重がかかっているはずなのに、彼は物ともせずに抱き起こしてくれた。その男らしさに、アディナはときめきと安心感を覚える。手袋越しに触れられている肩が、異様に熱い気がした。
「ご自分で飲めますか?」
「…『あ〜ん』って、してくれるの…?」
「良かった、ご自分で飲めそうですね」
そう言いつつルカは、匙を持つアディナの手を、飲み終わるまでずっと支えてくれた。
「横になりますか?」
「もうちょっと、このまま…」
「かしこまりました」
今度は完全なる甘えだった。普段から優しいルカであるが、こうしてアディナが寝込むとその優しさに際限が無くなる。ルカに体を預ける彼女は、こっそり笑っていた。
そして、黙って支えているルカの方は内心、大変なことになっていた。ただでさえ見た目は一級品の美人が、熱のせいとは言え、瞳をとろんとさせ、頰を赤らめているのだ。さっきから心臓が大暴れして、困り果てている真っ最中である。
なにしろアディナはあまり赤面しないたちだった。貴族として感情をいつでも制御できるよう育てられてきたので、ルカに色々仕掛けても慌てふためいたり、あからさまに頰を染めたりしなかった。ルカは意識的にそうしているが、アディナの場合は無意識的にそうなるのだ。
だからルカは、アディナの煽情的な表情に慣れていない。こんな非常時に煽るもくそもないのたが、悲しいかなルカも男だ。少しばかり不謹慎な目で見てしまうのは、逆らえない本能なのである。彼女の着る大胆なドレスには慣れつつあるものの、こういう表情は滅法駄目だった。
「…はやく元気になってください」
本当に、切実な願いであった。
「善処するわ…」
「旦那様も奥様もフローラ様も、寂しがっておられましたよ」
「…そう」
「あと、クライヴ殿下からお見舞いの花束が届きました。『夏風邪は馬鹿が引くと言うが、まさか本当だったとはな。お大事に』というメッセージ付きです」
「…治ったら、誤解をとかないと」
「別にいいんじゃないですか。半分くらい当たっていると思いますよ」
「じゃあ、残り半分の誤解をとくわ…」
「そう返してきますか。それともう一つ、小ぶりの花束も届いたのですが、差出人の名前がなくて…」
「……花の、色は?」
「桃色ですが……ああ、なるほど。良かったですね。慕ってくれる後輩ができたようで」
「………」
「お嬢様?」
薬が効いてきたのか、アディナはルカの腕の中で寝息を立てていた。安心しきった寝顔を無防備にさらすアディナを見ていると、許されない欲望が頭をもたげてくるのが、自分でもわかった。
堪らずルカは薄い肩をぐっと抱きしめると、艶めく黄金の髪に頰を寄せた。アディナが目を覚まさないと確信できなければ、こんな真似は絶対にしない。
(……今だけの特権だと、お許しください)
熱もないルカの方が、遥かに苦しげな表情をするのであった。




