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アディナの過去編です。
アディナは、政略結婚をした夫婦の間に生まれた娘だった。彼女の母親とランドルフは、俗に言う仮面夫婦だったのだ。
アディナを産み落としてから七年後、とうとう我慢の限界に達した母は、公爵家から出て行った。
『こんな結婚したくなかった。愛してもいない人との子供なんて、欲しくなかった』
幼かったアディナも、母親から愛されていないことに薄々気付いていた。ランドルフは甘えれば抱っこしてくれたのに、彼女はひたすら鬱陶しそうに睨むのみ。娘のためにドレスの一着さえ選ぶこともしなかった。親としての務めを果たしていたのは、ランドルフだけだった。
忙しい合間を縫って、可愛がってくれた父にはとても感謝しているが、アディナは広すぎる屋敷でいつも寂しい思いをしていた。
『男の子ではなかったけれど、跡継ぎは産んだわ。妻としての役目はもう終わりよ。私は、本当に愛した人のところへ行く』
最後まで、母はアディナを愛さなかった。出て行く間際、やっと彼女は自分の娘に視線を向けた。そして、こう吐き捨てたのだった。
『その子は、いらない』
アディナだって好きになれなかったが、それでもあの人は母親だった。いつか抱きしめてもらえる日が来るのではと、淡い期待を抱いて待っていた。それを粉々になるまで踏みにじった女に、アディナは燃えるような激しい憤りを覚えた。
激情に駆られるまま、近くにあった花瓶を掴むと、思いっきり振り投げてやった。だが、七歳児の腕力では母の所まで届かず、足元の辺りで砕け散っただけに終わった。
『っ、わたしだって、お前なんかいらない!!大っ嫌い!!はやく出ていけっ!!』
並々ならぬ憤怒を真っ赤な瞳に宿らせ、空気を震わせるほどの怒声を浴びせる。使用人のみならず、対峙していた母親でさえ恐れをなした。唯一、ランドルフだけは怒り狂うアディナを押さえることができた。それが無ければ、アディナは母に襲いかかっていたかもしれない。
『すまない…アディナ……すまない…っ』
揺れる声でランドルフが繰り返し謝罪するうちに、アディナにも哀しみが膨れ上がってきて、大声で泣き始めたのだった。
いらない、とはっきり言われたことは、アディナに深い傷を残した。今でも時折、夢で魘される。
アディナは自分を冷たくあしらう女であっても、家族だと信じ、母親として敬おうとするだけの度量を持ち合わせていた。それだけに、ひとたび憎んだ時の反動は凄まじかった。アディナは「お母さま」と口に出すことすら忌避し、母が使っていた部屋にも二度と立ち入ろうとしなかった。
そうして、ある決意をする。
───わたしは"あの人"のようにはならない。
望まない結婚の果てに、家族を捨てるくらいならば…
───初めから"本当に愛した人"と結婚すればいい。たとえそれが叶わなくても、恨みごとは吐かない。絶対に誰も呪ったりしない。
愛し合った者同士でも、結婚生活が上手くいかない場合だってある。だが、その方がまだ良い。すべてを自分の責任として背負えるからだ。この先の人生がどう転ぼうとも、あんな風に自分の家族を…言葉の刃で滅多刺しにする人間には死んでも成り下がりたくない。
───幸せも、後悔も、すべて自分の意志で手に入れる。流されるまま抗わなかった"あの人"とわたしは違う。
そうは言っても、アディナは公爵令嬢。自分勝手な我儘で結婚相手を決められないのは理解していた。そこで彼女は一計を案じることにした。
『お父さま。わたしはいらない子のようですので、わたしもここを出ていきます』
ランドルフにしてみれば、青天の霹靂どころの騒ぎではなかった。今も昔も、突飛な事を言い出すのは変わらない。子供の癖に変な知恵が回ったアディナは、交換条件を持ち出して父親を脅す行為に出たのだった。
『止めたいのでしたら、わたしの望みをきいてください』
『……望みとは?』
『将来、すきな人と結婚させてほしいのです』
当然のごとく、ランドルフは娘を叱った。公爵令嬢としての振る舞い方を説き、母親のようになる気かと怒鳴った。しかし、アディナは怯まなかった。
『あの人のようにならないためです』
まだ意味が飲み込めなかったランドルフは、頭を冷やせと娘を部屋から追い出した。ところがアディナは、そのまま屋敷からも出て行ってしまったのだ。有言実行にもほどがある。流石のランドルフもそこまでされては、娘が本気だと思い知らざるをえなかった。ランドルフは騎士団によって連れ戻されたアディナと一晩かけて話し合い、こうして彼女の願いは聞き入れられることとなったのだった。
現在アディナが大っぴらに、ルカへアプローチできるのは、子供時代に起こした一悶着があったからである。
ちなみに、屋敷を出て行ったアディナが向かった先は、当時、使用人の養成所に通っていたルカのところであった。おかげで発見が早まったのだが、窓からひょっこり現れた小さな令嬢に、ルカは仰天するあまり、ひっくり返って一回転したらしい。
以上の顛末を知っているのは、ランドルフとマーニャ、それからクライヴだけである。実は、肝心のルカはこの事を知らない。
アディナは自分の口からマーニャには話したが、ルカに教えることはしなかった。だからルカは今でも、単にアディナが好奇心旺盛すぎて家出した事件だと思っている。
『わたしはルカに、同情で好きになってもらいたくないのです。だいたい、同情されるほど不幸な女でもありませんわ』
クライヴに洗いざらい事情を説明した折、アディナはそう締めくくっていた。彼はただ静かにその言葉を受け止め、以降、アディナに協力してくれるようになった。
幾度となくアディナとクライヴの婚約話は持ち上がってきたが、その都度、クライヴが自身の両親、つまり国王と王妃に待ったをかけていた。考え抜いた上で決定したい、というような事を言葉巧みに説明し、周りの貴族達をも納得させている。
アディナの意志が尊重されるよう、彼が便宜を図っているのを、アディナ本人もよくよく解っていた。彼女がクライヴに快く手を貸しているのは、彼が大事な幼馴染であると同時に、深い感謝の気持ちがあるからだ。だからアディナは、彼のための防御壁になることを厭わない。
母に捨てられず、ルカとも出会わなければ、きっとクライヴとの結婚に踏み切っていただろう。それを告げたところ、彼はひとしきり笑った後『私には君と添い遂げるだけの甲斐性はないよ』と言っていた。
『わたしが王妃になったら国が滅びそうな気がしますから、殿下のご判断は正しいと思いますわ』
『君は魔王にでもなる気かい?』
クライヴは馬鹿なことを言い合える、気心の知れた友人だ。かけがえのない人には違いないが、アディナの中でその立ち位置が変わる日は来ない。恐らくは、クライヴも同様であろう。
『…真面目な話、君には王妃としての素質はあると思うよ』
『でしたらわたしは"思う"ではなく、断言いたしますわ。クライヴ殿下は将来、名君になるでしょう』
『それはまた…きっぱりと言い切ったものだな』
『根拠があるからですわ。根拠の無い自信など、ただの自惚れですもの』
『…なら、その期待に応えられるよう、頑張らなくてはな』
『お体を壊さない程度に頑張ってください』
『ははっ、君らしい応援をありがとう』
『…わたしは産みの母には恵まれませんでしたが、代わりにとびっきり素敵な方々に恵まれましたのね』
アディナは不意に美しく微笑んだかと思うと、染み渡る声音で呟くのだった。




