33、 こんな奇跡、信じられるか?
ーー ああ、 負けた。
なんだかそんな気がした。
自分の心と身体ぜんぶで好きだという気持ちをぶつけている紗良さんは、 正直で潔い。
少なくとも、 聞きたいことも本人に聞けず、 こんな所でコソコソとバイト先を探っている私よりはズルくないだろう。
だけど…… 司波先輩や私のような考え方が間違っているとは思いたくない。
「私は…… 体の繋がりが無くても心を通わせることは出来ると思うし、 理由があったとしても、 やっぱり恋人じゃない人とそういう関係になるのは抵抗があります。…… だから、 たっくんにもそう言いました」
「何って? 『私の体だけで我慢して』とでも言ったの? それで拓巳が納得したってわけ? 良かったわね、 みんなの拓巳を独占出来て。 彼のセックスは気持ちいいでしょ? 」
その言葉を聞いて、 眩暈がしそうになった。
嫉妬と羞恥心で首筋がカッカする。
「私は…… まだ…… していません」
「えっ? 」
「そういう関係には…… なってません」
「拓巳が?! ……嘘でしょ」
私の言葉に紗良さんは片手で口元を押さえ、 目を見開いた。
それからしばらくすると、 今度は薄っすら笑みを浮かべて、 呆れたような口調で言う。
「…… あなたにバイト先を言わないのって、 そういう事なんじゃないの? 」
「えっ? 」
「あなたが勿体ぶってサセないから、 外で適当に遊んでるってことよ」
「そんな…… 」
ーー だけど、 たっくんは……。私は……。
「たっくんはそんな事をしていないと思います」
「どうしてそう思うの? 」
「たっくんは私を本当に好きでいてくれるから…… その気持ちが伝わってくるから…… たとえ以前にいい加減な事をしていたとしても、 私と付き合ってからは、 そんな事をしていないって…… 信じています」
言っているうちに感情が昂ぶって、 涙が溢れてきた。
「私…… あの写真を見て、 嫉妬して責めて…… 喧嘩したんです。 だから…… たっくんに謝らないと…… 」
ヒックヒックとしゃくり上げていたら、 紗良さんが綺麗なレースのハンカチを私の手に握らせて、 溜息をついた。
「悪かったわ…… 嫉妬してたのは私の方。 悔しいから虐めたくなったのよ」
「えっ? 」
「拓巳はあなたに本気よ。 浮気もしてないと思うわ」
「……。」
「私は愛人の娘でね。 よくあるパターンで捻くれて、 夜遊びばかりしてた時に拓巳と出会ったの。 それでカラダの関係になって…… 愚痴を聞いてもらってた時に、 拓巳も共感したのか、 自分の事をポツポツと話してくれるようになってね」
紗良さんのお父さんは市議会議員で、 お母さんはその愛人…… 前にたっくんから聞いていた事だったけれど、 私は黙って頷いた。
「拓巳は自分の事をあまり話したがらないから、 詳しくは言ってくれなかったけど…… 虐待されて死にたいと思った時に、 幼馴染の女の子だけが希望だったんだって。 お下げ髪のその子の笑顔に救われたんだって。 …… 私、 学校で拓巳があなたに駆け寄った時、 すぐにあなたがその女の子なんだって分かった。 だって、拓巳が嬉しそうに話していた女の子そのままだったんだもの」
話しながら紗良さんが涙ぐんでいたけれど、 私が見てはいけない気がした。
だから私はそれに気付かないフリをして、 遠くの家の屋根を見つめていた。
「あなた、 校舎裏にいる私たちを見たわよね? あのとき拓巳が何て言ってたと思う? 『こんな奇跡、 信じられるか? 俺の希望をやっと見つけたんだ。 頼むから傷つけないでくれ』って」
「えっ…… 」
「それならキスをしてくれって言ったら、 頬にチュッって。…… あの拓巳が頬っぺにって…… 笑っちゃうわよね。 …… もう、 私がどんなに足掻いても駄目なんだなって思い知ったわよ」
ーー ああ……。
あの時たっくんはそんな風に言ってくれていたのか。
私のために紗良さんに頭を下げて、 必死になってくれていたのに…… 私は……。
紗良さんが目を真っ赤にして涙を流している。
私は紗良さんから渡されたハンカチを、 彼女の手に戻した。
今ハンカチが必要なのは、 彼女の方だ。
紗良さんはハンカチで涙を拭い、 カバンを開いて中から小さなカードを取り出すと、「あげるわ」と私に差し出した。
名刺大の真っ黒なカードには、金色で書かれた店名の下に、 小さく住所と電話番号も書かれている。
「これって…… 」
「毎週、 月、 水、 金曜日。 不定期で土曜日も。 今日は水曜日だから、 夜の8時から12時の間に行けば会えるはず」
「…… ありがとうございます」
「言っておくけど、 私はまだ拓巳が好きだから、 これからだってお店に通うし、 もしも誘われたら喜んで寝るわよ」
「えっ?! 」
「ふふっ、 それが嫌なら綺麗事ばかり言ってないで、 自分の醜いところも曝け出しなさいよ。 まあ、 拓巳の方が大事な女神様に手を出せてないんでしょうけどね。 じゃあ、 サヨウナラ」
そう言うと、 紗良さんは大人の香水の香りを残して颯爽と去って行った。
紗良さんは派手で奔放な感じがするけれど、 ただ単に好きな人に対して真剣で必死だっただけなんだ。
そしてたぶん…… そんなに悪い人ではない。
私は右手に残されたお店のカードを、 改めてじっと見つめる。
「エスケープ…… 」
『 Shot Bar escape』
このお店に行けばたっくんがいる。