26、 泣いてるの?
「やあ、 いらっしゃい。 とうとう本入部してくれる気になったのかな? 」
パイプ椅子からガタッと立ち上がった司波先輩に私たちは揃って頷き、 清香が代表して挨拶した。
「私たち3名、 文芸部に入部希望です。 よろしくお願いします」
「こちらこそ、 お陰で廃部の危機を脱することが出来たよ。 大歓迎だ」
ブレザーのボタンを全部しっかり留めて、 黒いフレームの四角い眼鏡に七三分けの髪。
絵に描いたような優等生から差し出された手を順に握ってから、 私たちは促されるまま椅子に座った。
陽向高校の文芸部は、 廃部直前の状態だ。
元は部員30名以上の大所帯だったのだが、 私たちの中学の時と同様、 名前だけで顔を出さない幽霊部員と、 漫画を読みたいだけの部員が大半だったのだという。
そして、 部費で好きな漫画を買い漁って喜んでいる部員と、 普通に文芸を語り合いたい部員との間に亀裂が出来、 昨年の秋にとうとう分裂騒ぎとなった。
部員の大半は『漫画部』なるものを新たに旗揚げしてそちらに移り、 文芸部に残ったのは3年生3名と、 当時1年生だった小説家志望の司波先輩の4名。
その先輩たちが卒業してからは、 司波先輩1名のみとなり、 部活の最低人数4名にならなければ廃部することが確定していた。
…… という話を部活見学の時に聞いた私たちは、 ゆっくり小説の世界に浸れる環境だと知って逆に喜び、 入部しようと決めたのだった。
「本当に君たちは救世主だよ。 さっ、 この用紙にサインして。 さあ早く」
気の変わらないうちにと思っているのか、 彼は3人の前に入部届けと鉛筆を置いてどんどん急かす。
3人がサインし終わった用紙をそそくさと回収すると、 司波先輩はようやく椅子に背を預けて寛いだ。
「えっと…… 3人は同じクラスなんだね。 ああ、 折原さんは有名だから知ってるよ。 この前ここまでくっついてきた和倉くんの彼女だね」
「えっ…… 私ってそんなに有名なんですか? 」
どんな噂になっているのかと不安になって聞いてみたら、 司波先輩はハハッと屈託なく笑って答えた。
「君が……っていうよりは、 和倉くんが有名だから、 その彼が追いかけ回してる折原さんが注目を浴びてるって感じかな」
「…… やっぱり有名人なんだね、 和倉くん」
千代美の言葉に司波先輩が頷く。
「そうだね、 和倉くんは中学時代から良くも悪くも目立っていたよ。 彼が転校してきた当時は教室前の廊下に女生徒が群がってたね」
「えっ、 司波先輩はたっくん…… 和倉くんと同じ中学だったんですか? 」
「ああ、 港中出身。 だから彼がこの高校に入学してきて実は驚いているんだ。 あの地区からここに通うにはちょっと距離があるし、 あの遊び人がここの特進クラスに入れる頭があるとは思ってなかったからね」
「遊び人…… ですか」
「ああ、 女を取っ替え引っ替え派手にやってたからね。 校門の前で女子高生と堂々とキスしてたよ。 ああ、 女子大生もいたかな。 まあ、 僕としては小説の題材として興味はあるけど、 あんなのの彼女になったら苦労すると…… 」
「先輩! 」
怒りを含んだ清香の声で、 先輩は残りの言葉を引っ込めた。
「先輩、 小夏の前でその言葉は無神経です。 やめてください! 」
そう言われて司波先輩が黙るかと思ったけれど、 彼はすぐにメガネのフレームをクイッと上げながら反論してきた。
「僕は無神経かな? だけど、 折原さんだって和倉くんのそういう過去を知った上で付き合っているんじゃないのかい? それとも彼は君の前では汚い部分を隠しているのかな? だとしたら彼が君に見せているのは、 沢山の女の屍の上に成り立っている、 見せかけだけの美しさだよ」
言われていることは辛辣なのに、 さすが小説家だけあって言い回しが詩的だな…… なんて考えている自分が可笑しかった。
思わずクスリと笑った私を見て、 清香たちは私の頭が変になったと思ったかも知れない。
「…… 先輩に私たちの何が分かるって言うんですか」
自分でも驚くほど凄みのある声が出た。
司波先輩の肩がビクッと動いたのを見ると、 彼も私の低い声音にたじろいだのだろう。
「たっくんには私が知らない過去がある。 女の人とも沢山付き合ってきてると思う。 だけど、 その人たちも、 あなたも踏み込めない私たちだけの心の傷があるんですよ。 たっくんの美しさを見せかけだと言うのなら、 あなたこそ彼の表面しか見てないんですよ。 彼の本当の笑顔を知らないあなたが、 偉そうに語らないで下さい」
妙に落ち着いた声でそれだけ一気に告げると、 私はバンッ! と机を叩いて立ち上がって、 そのまま黙ってドアへと向かった。
「あっ、 折原さん! 入部の件は…… 」
「私、 入部届けにちゃんとサインしましたよね。 大丈夫です。 こんなことで活動前から退部なんてしませんから」
目を見ずにそれだけ言うと、 ドアを勢いよく閉めて外に出た。
廊下を早足で歩きながら、 頬がプルプルと震えてきたけれど、 奥歯をぐっと噛んで堪えた。
ーー こんなことで泣くものか。
本当は自分でも気付いている。
私は今、 司波先輩の言葉に酷く傷ついているのだ。
自分の想像よりも奔放なたっくんの過去を聞いてショックを受けて、 だけどそれを認めたくはなくて、 強がっただけ。
だけど、 あんな風に言われて他にどうすれば良かったというのだろう。
私はもう引き返せないのに、 もうたっくんから離れるなんて選択肢はないのに……。
だから私は、 先輩の言葉に耳を塞ぎ、 私を好きだと言うたっくんの言葉に縋るのだ。
その時、 カバンの中の携帯電話が鳴り出した。
「…… たっくん? 」
『ああ小夏、 どうだった? 入部したの? 』
「うん…… 届けを出してきた」
『そっか。 浮気すんなよ? 』
「ふふっ…… しないよ」
『…… 小夏、 お前、 泣いてるの? 』
「泣いてないよ」
泣いてない、 泣かない。
今日の出来事を胸にしまったまま、 私は明日も、 たっくんの前で笑顔を見せる。