23、 早苗さんを責めるなよ?
カチッ
沈黙に耐えきれなくなった私は、 卓上調理器の電源を切ると、 ティッシュで目頭を押さえている母に向かって聞いた。
「お母さん、 6年前、 たっくんとお母さんの間に何があったの? どうして謝ってるの? 」
「小夏、 それは…… 」
「拓巳くん、 いいのよ」
困惑した表情のたっくんに目配せすると、 母はゆっくりと話し出す。
「小夏、 6年前にたっくんがアパートを出て行く時にね、 小夏にそのことを言わずに黙って行ってくれって、 お母さんが頼んだの」
そこまで言うと、 母は再び唇を震わせた。
「えっ?! 」
思わずたっくんの顔を見たら、 その困惑した表情が母の言葉を肯定していた。
「小夏…… 絶対に早苗さんを責めるなよ? あの日…… 児童相談所と警察の両方から母さんに電話が掛かってきたんだ」
涙を拭っている母の代わりに、 たっくんが口を開く。
「電話を切ってから母さんは酷く狼狽ていて、『早くここから逃げなきゃ』って言い出した」
穂華さんは、 児童相談所にも警察にも自分が疑われているから拓巳が連れて行かれる。 もうすぐ涼ちゃんも留置場から出てくると言ってパニックになり、 母に泣きついて来たという。
「母さんはその場で大家さんに『アパートを退去する』って電話して、 通帳とかアパートの契約書とかを全部早苗さんに押し付けて、 荷物をまとめだした。 俺は何が何だか分からなかったけど、 アパートを出るってことと、 小夏と離ればなれになるんだって事だけは分かった。 それで…… 」
たっくんの言葉を引き継ぐように、 母がぽつりぽつりと話し出した。
「穂華さんはね、 児童相談所からは、もう一度家庭訪問に来るって言われて、 警察には、 もう一度事件の時の様子を聞きたいって言われて……」
だから穂華さんがアパートに駆け込んできた時に、 母はこう言ったそうだ。
『管轄外になれば児童相談所の職員だって追いかけてこない。 あの男が留置場から出てくる前に逃げなさい。 そして今度こそ拓巳くんを大切にしてあげなさい』
「…… そしてね、 最後に小夏に会いに行くって言う拓巳くんに向かって、 私は残酷にも、 いなくなることだけは言わないでって…… 」
それは母親として当然の心情だったのだろう。
母は私がたっくんのためならなりふり構わなくなるのを知っていた。
たっくんがいなくなると知れば、 何をしでかすか分からない。
実際、 私がそのことを知っていたら、 裸足で病院を飛び出して追いかけただろうと思う。
その時たっくんは、 文句ひとつ言わず、 ただ笑顔で『分かった』とだけ答えたそうだ。
『早苗さん、 分かったよ。 ただ、 手紙だけは書いてもいいかな』
その場でランドセルからノートを取り出して破ると、 別れの理由も連絡先もない短い手紙をしたためたのだった。
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小夏へ
小夏、 退院おめでとう。
小夏、 ごめんな。
ずっと一緒にいるって言ったのに、 約束を守れなくて。
ウソをついたオレを、 小夏は憎むかな? 嫌いになるかな?
嫌いになってもいいから、 オレを忘れないでいて。
オレは小夏を忘れない。
ずっとずっと、 大好きです。
今から小夏にお別れを言いに病院に行きます。
さようなら。
月島拓巳
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あのとき私はあの手紙を読んで、 泣いて泣いて泣き暮らして、 たっくんのことを心から憎んだ。
だけど、 その手紙を書いた時のたっくんは、 どれほど苦しくて辛かっただろう。
長い長い虐待の連鎖からようやく解放されたと思った途端、 訳もわからぬままに荷物をまとめ、 絵本をランドセルに押し込んで……。
そして、 私に本当のことを告げることも出来ず、 たった10行の手紙を母に託し、 今度は逃げるように雪の夜道に足を踏み出して行かねばならなかったのだ。
私には、 残酷な言葉と口づけだけを残して……。
「拓巳くん、 私は何て言って謝ればいいか…… 本当に…… 」
母がまた顔を覆うと、 たっくんは優しい声音で話し掛けた。
「早苗さん、 俺は早苗さんに感謝しかないよ。 あの頃、 早苗さんちで食べた美味しいご飯とか、 フカフカの布団とかが、 俺にとってはすごく救いになってたんだ」
「でもね、 拓巳くん…… 私はね…… あの日、 病院から警察の方が帰る時に…… 『拓巳くんはお母さんの穂華さんからも虐待を受けていましたね』って聞かれて否定できなくて…… ずっとそれを後悔してて…… だから…… 」
ーー えっ?
その一瞬で、 私の脳裏にあの日の記憶が蘇ってきた。
『君は穂華さんが、 いいお母さんだったと思う? 』
『君は穂華さんのことが好きだった? 』
『分かりません』
『上手く言えた? 』
『うん』
ああ、 そうか…… 全部私のせいだ。
私が上手く嘘をつけなくて…… そしてたっくんに嘘をついたから……。
「お母さん、 お母さんのせいじゃないよ」
それまでずっと黙って話を聞いていた私が口を開いたので、 母もたっくんもギョッとして私を見た。
ーー ああ、 言いたくない。 言えばきっとたっくんは……。
だけど、 私はみんなを苦しませた罰を受けなくてはいけないのだ。
「警察にバレたのは、 私のせいだよ」