2、 なんで逃げたの?
「なあ、 お前って、 小夏だよな? そうだろ?! 違うの? 」
私の肩をがっちりホールドしたまま、 彼は矢継ぎ早に質問を浴びせる。
ーー ええっ?! 何、 この人、 なんで私の名前を知ってるの? 怖いんですけど!
「あの…… 」
私がか細く声を発すると、 彼は私の反応を待ってましたとばかりに目を輝かせて、「うん、 何? 」と顔を近づけて来た。
ーー うわっ、 近い! そして綺麗すぎて迫力ある!
「あの…… とりあえず、 私がジッと見ていたことで気分を害されたならごめんなさい、 謝ります」
私がちょっと顔を後ろに下げて引き気味の態勢でそう言うと、 彼は期待していた答えとは違ったのか、 眉根を寄せて怪訝そうな顔をした。
ーー えっ、 怒ってる? 間違った?!
「えっと、 あの…… 私は確かに小夏という名前ですけど、 あなたは…… 」
「小夏っ! 」
「えっ? キャッ! 」
私が名乗った途端に被せ気味で名を呼ばれ、 有無を言わさず抱き寄せられた。
ーー ええっ?!
「ちょっ…… あの…… あのっ! 」
腕をすり抜けようと身体を動かしてみるけれど、 背中に回された腕は緩むことなく、 むしろギュウッと締め付けられていく。
「夢みたいだ…… 」
深く吐く息とともに、 耳元で溜息のように呟く。
彼はようやく身体を離すと、 改めて私の顔をジッと見つめた。
次に、 慣れた手つきで私の片方のおさげ髪を手に取ると、 感触を確かめるように、 手のひらの中で何度も親指を滑らせる。
その瞳は、 私の愛した透明な青とは似ても似つかない、 吸い込まれそうなほど真っ暗で深い、 漆黒の闇……。
こんな人、 私は知らない……。
だけど、 かつておさげ髪をこうして愛おしそうに撫でた手を、 その手の持ち主を、 私は知っている……。
「あなた、 一体…… 」
「ねえ、 タクミ、 何やってんの? 何よ、 その子」
勇気を振り絞って喉から声を発した時、 さっきの取り巻きの子達が近付いてきて、 私の小さなその呟きは、 あっという間に掻き消されてしまった。
「ねえ、 タクミったら! 」
女子の1人が彼の肩に手を掛けると、 彼はバッと乱暴にその手を払いのけて、 鋭い目つきで睨みつける。
「うるさい! 邪魔すんな! 」
あっという間にギャラリーが静まり返って、 皆の注目の中、 彼と私がただ向き合っている。
ーー この人…… 怖い。
「あのっ…… ごめんなさい、 さようなら! 」
私はペコリとお辞儀だけすると、 後ろで見守っていた千代美と清香に向き直り、 2人の手を取って走り出した。
「あっ、 ちょっと、 おい! 」
背中に投げられた声を無視して、 私は決して振り返ることなく、 ひたすら足を前へと進めた。
ーー 馬鹿ばかバカ! あんな人に一瞬でもたっくんの面影を探そうとしたなんて……。
なんだかたっくんの思い出を汚してしまったような気がして、 唇を噛み締めながら、 教室へと向かった。
「ねえ、 さっきの人って何なの? 」
千代美にそう聞かれたけれど、 そんなの私の方が教えて欲しい。
「たぶん誰かと間違えてるんだと思うけど…… 」
「間違えるって言っても、『小夏』なんて名前、 そうそういないでしょ? 」
清香の言う通りだ。 小夏なんて名前、 今まで自分以外に出会ったことがない。
だけど、 あんな人は知らない。 知らないものは仕方ない。
「あの人、 なんか怖かった。 肩を掴む力も強くて…… 」
「うん、 ワイルド系って感じだったよね。 女子をはべらせて軽そうだし…… 不良なのかな」
「同じクラスでは無さそうだけど、 今から入学式だから顔を合わせるわよ。 私と千代美で出来るだけガードしましょう」
「うん、 そうだね。 小夏を守らないと」
千代美と清香の言葉はありがたいけれど、 あんな怖そうな男子に目をつけられて、 無事でいられるのだろうか……。
入学早々にトラブルを抱えてしまったみたいで、 一気に憂鬱な気分になった。
***
「(ねえ、 めっちゃ見てるよ)」
斜め後ろの席から身を乗り出して、 千代美が耳元で囁きかける。
入学式の式場。
例の『タクミ』と言う名の彼は、 さすがに式の時まで近付いては来なかったけれど、 私が隣のクラスの列にいるのを見つけると、 途端にこちらをガン見してきた。
そして今もまだ、 あの真っ黒い瞳でこちらをジッと見つめている。
ーーほんと怖いんですけど……。
ちょっとでも目を合わせたら飛びかかってきそうで、 真っ正面から視線を動かすことが出来ない。
緊張のあまり、 校長の話も教師の紹介も耳に入ってこない。
ーー 駄目だ、 逃げなきゃ!
式が終わったらすぐに教室に駆け込もう。
そしてもしもの場合は先生に助けを求めて……。
講堂から出てすぐに、 教室までダッシュしようとして、 一瞬だけ後ろを振り返ったその瞬間、 後ろの方からこちらを見ていた黒い瞳と目が合った。
背中がゾクリと冷え込み、 心臓がドクンと脈打つ。
ーー やだ、 怖い!
私が列を無視して走り出すと同時に、 後ろの方からも誰かが掛け出す足音が聞こえてくる。
前を歩く生徒を次々と追い越し、 渡り廊下を進んで誰もいない校舎に入ったところで、 後ろから手首を掴まれ、 口を塞がれた。
「んっ…… んんっ! 」
そのまま体に手を回され、 引き摺られるように廊下を進み、 図書館の中に連れ込まれた。
内側からカチャリと鍵をかけ、 彼が耳元で囁く。
「小夏…… 今から手を離すから、 大声を出すなよ」
私が涙目で頷くのを確認して、 ゆっくり口から手を離す。
「はあっ…… はぁ〜っ…… どうしてこんな事! 」
「しっ! 小夏、 黙って! 」
怒りと恐怖で頭の中がゴチャゴチャになっていたはずなのに、 口の前で人差し指を立てる仕草と表情に懐かしいものを感じて、 なんでか気持ちがスッと落ち着いた。
ーー 違う。 この人は違う…… だけど……。
人差し指を立てている右手に両手を伸ばし、 震えながら、 その手を開いた。
手のひらの真ん中に、 丸くて茶色い痣。
ーー ああ…… この人は……。
「………… たっくん」
茶色い痣がみるみる滲んで、 ユラユラ揺れて、 視界から消えた。
何年か振りに流す涙は、 あんなにも会いたいと願っていた人の人差し指で優しく拭われた。
「たっくん…… 」
「小夏…… お前、 なんで逃げたの? 俺は一目で分かったのに…… 」
言いたいことも、 聞きたいことも沢山あるのに、 今は言葉にならない。
強く頭を抱き寄せられて、 彼の胸に顔を埋めながら、 6年分の涙を流した。