49、 別離の日 / 俺と離れたら死んじゃうの?
今思うと不思議なのだけれど、 私はあの日のその瞬間まで、 たっくんに性的な欲求とか、 お互いの身体の違いを特別に意識するとかと言うことが、 全くもって無かった。
指を絡め、 手を繋ぎ、 背中に負ぶわれ、 抱きしめられる。
指で髪を梳き、 結われ、 優しく撫でられる……。
瞬きをする時にいちいち数を数えないのと同じで、 それらの行為は私とたっくんの間では日々繰り返される日常の一部であって、 息をするように自然なことだった。
もちろん、 たっくんと手を握ったり髪に触れられれば、 ドキドキしたりトキメいたりしたし、 ギュッと抱きしめられれば胸が苦しくなり、 嬉しくなる。
けれどそれは、 私の中ではたっくんへの好意に伴うごく自然な感情であって、 性的なソレとはかけ離れたものだった。
例えばたっくんが女の子であったとしても、 キスやそれ以上の触れ合いが出来ないとしても、 別に構わない。
ただ一緒にいられれば、 それだけでいい…… ということだ。
だから、 たっくんに、「じゃあ、 キスしてもいい? 」と聞かれて、 そう言えば、 あんなにいつもくっついていたのに、『キス』はした事が無かったな…… と思い至ったとき、 これから行うことが、 すごく特別で大事な儀式のように思えた。
「キスしたい。 小夏に」
その言葉を聞いて一瞬戸惑ったのは、 その言葉を呟いたたっくんの瞳に真剣なものを感じたから。
彼も私と同じように、 これからする事を特別に感じてくれているのが伝わってきたから。
「うん…… いいよ」
そう答えた私はもう、 たっくんを絵本の中の王子様でも隣の優しい男の子でもなく、 私に触れていいただ1人の異性として見ていたのだと思う。
そして私も、 たっくんともっと近くなりたいと願っていた。
ベッドライトだけの薄暗がりの中で、 たっくんが私の頬にそっと手を寄せた。
「ハハッ…… なんか震えるな…… 」
そう言われて初めてたっくんの指先が震えていることに気付き、 緊張しているのは私だけじゃないのだと分かった。
シンとした病室の中で、 私の心臓の音だけがドッドッと大きく響いている。
「小夏…… 見ないでよ」
「えっ? 」
「ジッと見られると、 やり辛い」
ああ、 そうか。
緊張のあまり、 ひたすらたっくんの唇を見つめていた。
薄くて形の良いその唇が、 ちょっと困ったように端だけ上がって、 それからキュッと固く結ばれた。
「目…… 瞑ったほうがいいんだよね? 」
「うん、 瞑って」
言われた通りに目を瞑ると、 柔らかい髪が私の鼻先を掠め、 一瞬ののちに、 唇に柔らかいものが触れて、 すぐに離れた。
目を開けたらすぐ近くに私を覗き込む青い瞳があって、 それが優しく細められて閉じたから、 私も釣られてもう一度目を閉じた。
今度はさっきよりも長く唇が重なって、 ゆっくりと離れて行った。
そのままギュッと強く抱きしめられると、 身体中が熱くて、 満足感で満たされて、 今まで以上にたっくんを愛しく思った。
耳元でたっくんが、 ふぅ〜っと息を吐いて手を緩め、「行かなきゃ…… 」と呟いた時、 夢のようなこの時間が終わりを告げるのだと悟った。
時計の針は、 もう午後9時を指している。
看護師さんが巡回に来る時間だ。
「それじゃ小夏、 俺、 行くよ。 裏の救急入り口の方で母さんが待ってるから」
「そっか…… それじゃ窓から見えないね…… だけど、 私は明日の昼前には退院できるからね」
「うん…… 小夏、 元気でな。 気をつけて」
「たっくんも気をつけて帰ってね。 外は雪が降ってるから寒いよ」
たっくんは一旦立ち上がったけれど、 ちょっと考えてから、 もう一度私をガバッと抱きしめて、 髪を優しく撫でた。
「小夏…… お前、 俺のこと好き? 」
「うん…… 大好きだよ」
「俺も小夏のことが好き。 大好き。 ずっと一緒にいたい」
「うん…… ふふっ、 さっきからたっくん、 同じことばかり言ってるね」
「うん…… 小夏は俺と離れたら寂しい? 」
「ん? …… もちろん! たっくんと離れたら寂しくて死んじゃうよ! 」
「ハハッ…… お前、 俺と離れたら死んじゃうの?」
離れるだなんて、 冗談じゃない。
私はガバッと体を離すと、 たっくんの両肩を掴んで必死に訴えた。
「冗談でもそんな怖いこと言わないでよ! 絶対にいなくならないで! ずっと一緒にいてよ! いなくなったら本当に死んじゃうからね! 」
「お前…… 俺がいなくなったら本当に死ぬの? 」
「死ぬよ。 ネズミーランドでたっくんが誘拐された時、 心臓が一瞬止まったもん」
あの時のことを思い出すと、 今でも身がすくむ。大切な人が、 一瞬であっけなく消える恐怖。
私が涙ぐみながら表情を硬くしていたら、 たっくんは、 「ハハッ、 心臓が一瞬止まった…… って…… 」とクスクス笑うと、 私の顔を覗き込んでニカッと白い歯を見せる。
「笑いごとじゃない! 笑うな! たっくんのバカ! 」
感極まって、 涙を溢したら、 たっくんが打って変わって心配そうな困ったような表情になって、 また私を抱き寄せた。
「小夏、 ごめんな……。 分かったよ、 離れない。ずっと一緒にいてやるよ。 お前が死んだら幽霊になって呪われそうだからな」
「うん、 一緒にいて。 たっくんが裏切ったら、 幽霊になって出てやる。 一生呪ってやるからね! 」
「ハハッ、 怖っ! 分かったよ、 分かったからさ…… 小夏、 笑顔を見せて」
たっくんは私をグイッと引き離して、 顔をジッと見つめてきた。
「ほら…… 笑えよ」
「…… うん」
たっくんの青い瞳に、 私の顔が小さく映り込んでいる。
私が無理やりニッと笑うと、 たっくんはフワッと微笑んで、 私の左だけの三つ編みからゴムをスッと外し、 自分の手首に掛けた。
「これ、 もらってくわ」
「えっ?…… うん」
たっくんはドアへと歩いて行き、 扉に手を掛けて、 もう一度振り返った。
「小夏、 お前は俺のもんだからな! ずっと俺を呪ってろよ! 」
ーー えっ?!
そう思っている間にたっくんは扉の向こう側に消えてしまって、 私は『バイバイ』も『またね』も言う暇を与えられなかった。
慌てて廊下を覗き込んだけど、 そこにはもうたっくんの姿は無くて、 白く静かなリノリウムの廊下の先に、 真っ暗な階段が続いているだけだった。
遠くの方で、 ペタンペタンと鳴り響くサンダルの音が、 徐々に遠のいて消えて行った。