46、 運命の日 / 上手く言えた?
私たちはひとしきり泣いたあと、 看護師さんにバレる前にと自分のベッドに戻ったたっくんと、 お互いのベッドに横になったまま、 いろいろな話をした。
窓から見える雲で私が得意の空想話を披露すると、 たっくんは「うんうん」と楽しそうに耳を傾けてくれて、 時折、 その空想話に乗っかって、 「それじゃあ、 あっちの大きい雲がお友達のクマさんなんじゃない? 」なんて盛り上げてくれた。
お互い約束したわけでもないのに、 あの男の話は一切しなかった。
一言でも口にしたら、 黒い悪魔がやってきて、 私たち丸ごと暗闇の中に飲み込まれてしまうような、 そんな恐怖があったから。
しばらくすると母が戻って来た。
家に私たちの着替えを取りに行っていたらしい。
穂華さんは昨日のうちに警察の事情聴取を受けて、 今日は家で児童相談所の職員の訪問を受けているそうだ。
あの男は、 警察に現行犯逮捕されて勾留中だという。
「拓巳くん、 足の痛みはどう? かなり酷いから、 治るまでに時間がかかるみたいよ。…… 長い間、 本当に頑張ったわね……おばさん、 気付いてたのに助けてあげられなくてごめんなさいね」
そう言いながら母が布団の上からたっくんの足を撫でると、 たっくんは「そんな事はないよ、 早苗さん」と首を横に振った。
「俺さ、 隣に引っ越して来たのが早苗さんと小夏で良かった。 小夏に会えて良かった。……俺、 幸せだよ」
こんな状況でもなお『幸せだ』と言えるたっくんは、 本当に強い心を持っている。
彼は、 強くてしなやかで美しい。
幸せだと語るその笑顔の裏で、 今までどれだけの涙を流して来たんだろう…… そう考えると、 彼をどうにか幸せにしてあげたい、 自分の手で笑顔にしてあげたいと思わずにいられないのだ。
午後になって、 年配の警察官と児童相談所の女性職員さんが揃って事情聴取にやって来た。
最初にたっくんが話を聞かれたのだけど、 片方の話に引きずられる可能性を考慮したのか、 たっくんが話している間、 私は車椅子に乗せられて、 病室から出ていることになった。
母に車椅子を押されて出て行く瞬間、 たっくんが「小夏! 」と呼んだ。
振り向いた瞬間、 「悪いのは全部あいつだ ! 」と叫んだたっくんと目が合って、 彼が私に伝えたいことが分かった気がした。
20分して病室に戻った私は、 交代で外に出て行くたっくんに向かって頷いた。
たっくんも私に頷いて、 母に車椅子を押されてドアの向こうに消えた。
「皆川亮司って言う男の人だけどね、 小夏さんは前から知り合いだったのかな」
質問は主に児童相談所の女性職員が行った。
その方が私が話しやすいと思ったのだろう。
待っている20分間で、 どう答えればいいのか考えてある。
たっくんが困るようなことは絶対に言わない。
「あの男は穂華さんの彼氏でした。 穂華さんは別れたがっていたけれど、 脅して無理矢理家にいるって拓巳くんが言ってました」
「穂華さんはとても優しくて、 いつも私や拓巳くんを守ってくれました」
「穂華さんも拓巳くんを庇って暴力を受けていたと思います」
「ビール瓶がどこから来たのか、 私は覚えてません。 気がついたらあの男がビール瓶を振り回して地面に叩きつけていました」
嘘と真実を織り交ぜて…… さっき考えた事をスラスラと語っていく。
自分がこんなに上手に嘘をつける人間だとは知らなかった。
私は穂華さんが好きではない。
だけど、 たっくんが母親の彼女を守りたいというのなら、 私も彼女を守るために協力しよう。
たとえ母親失格の女であっても。
大体の質問が終わって児童相談所の人が椅子から腰を上げた時、 後ろに立って聞いていた警察のおじさんが言った。
「君は穂華さんが、 いいお母さんだったと思う? 」
「えっ? 」
「いや、 確かに皆川亮司は悪い男だったけどね。 …… だけど、 こんな状況になるまで、 お母さんの穂華さんは何してたのかな…… って思ってね」
ドキッとした。
その口調は穏やかだったけれど、 なんだか心の中を覗き込まれているような気がして、 思わずフイッと目を逸らした。
「君は、 拓巳くんの足を見たかな? 紫色に変色して、 皮が破れて爛れて…… 酷いもんだよ。 あの足を、 サイズの合わない小さい靴に押し込めてたんだ。 ずっと痛かったろうね。 発見がもう少し遅れてたら、 彼は右足の親指を失うところだった」
「親指を?! 」
背筋がゾクッとした。
「皆川亮司はね、 悪いのは自分だけじゃない。 穂華さんも共犯だって言うんだよ。 小夏さんは、 穂華さんが拓巳くんのお母さんとしての役目を果たしていたと思うのかな? 」
穂華さんも共犯……。
共犯に違いないだろう。
私は知っている。 直接暴力を振るい、 暴言を吐き続けたのはあの男だったけれど、 何よりたっくんの心を傷つけたのは、 自分のために無関心を装い息子を見捨てた穂華さんだ。
「君は、 どう思う? 」
もう一度ゆっくり聞かれて、 私は舌が乾いたようになって、 上手く言葉が出てこなかった。
「…… 分かりません」
そう言うのが精一杯で……。
「それじゃあね、 君は…… 小夏さんは、 穂華さんのことが好きだった? 」
いきなり変化球を投げつけられたみたいだった。
好きか? 穂華さんのことが好きかって?
そんなの決まってるじゃないか。
…… 大嫌いだった。 憎かった。
たっくんに、『好きで母親になったんじゃない』という言葉を投げつけた。
自分を守るために、 たっくんを名古屋まで迎えに来たことを思い出すと、 今でも虫酸が走る。
あの人があの男を連れてこなければ…… 母親であることを忘れなければ…… あの長くて苦しい日々だって無かったはずなんだ。
だから私は……
「分かりません」
震える声でそう答えるのが精一杯だった。
たっくんが戻ってきて、「上手く答えられた? 」と聞いた。
私が「うん」と頷いたら、 たっくんはホッとしたように笑顔を見せて、「良かった、 ありがとう」と言った。
私は本当に嘘つきだ。