45、 運命の日 / なんで逃げなかったんだよ
目覚めてすぐに目に飛び込んできたのが白色だったから、 自分はまだ雪の中にいるのだと、 最初はそう思った。
徐々に焦点が合ってきて、 雪だと思っていたのが虫食いみたいなトラバーチン模様の天井だと分かって、 ゆっくり周囲に視線を動かした。
ほのかに漂う消毒液の匂いと白いカーテン。
ここは多分、 病院の病室だ。
窓の外が薄っすら明るい。
私は朝まで眠っていた?…… もしかしたら夕方なのかも知れない。
顔を横に向けたら、 ベッドサイドに誰も座っていない丸椅子が一つポツンとあって、 その後ろがカーテンで仕切られていた。
カーテンの向こう側にベッドの脚がチラリと覗いているから、 ここは2人部屋なのだろう。
ーー そう言えば……。
「たっくん! 」
あれからたっくんはどうしたのだろう。
額から沢山血が流れていた。 その前にもアイツに散々殴られたり傷つけられたりしていたはずだ。
そう思ったら居ても立っても居られなくて上半身をガバッと起こしたら、 足に違和感を感じて布団をめくった。
両脚が小さめの枕のような物の上に置かれていて、 足首から下が弾性包帯で保護されている。
ーー 足なんてケガしたっけ?
そう思いながら足の指をフニフニと動かしてみたら、 かすかに痒みと痛みを感じたので、 知らない間に何かが起こったのだろう。
そうこうしていたら入り口の引き戸がスーッと開いて、 母が現れた。
「お母さん」
「…… 小夏っ! 良かった! 目が覚めたのね! 」
母が駆け寄ってきて、ベッドサイドから私を強く抱きしめた。
「お母さん、 たっくんは? 」
「開口一番に『たっくんは? 』って…… あなたは本当に、 いつでも『たっくん』なのね」
母が肩をすくめ、 呆れ顔で後ろの仕切りカーテンをシャッと開けると、 そこには私が寝てるのと同じベッドがあって、 その上にたっくんが横たわっていた。
「たっくん! 」
立ち上がろうとして布団をめくったところで母にグイッと両肩を押され、 私はそのままコロンと元通りベッドに寝転がった。
「小夏、 しばらくはベッドから出ちゃだめよ」
「えっ、 どうして? 私はどこも悪くないよ」
正直いうと少し息苦しかったし足先にも違和感があったけれど、 そんな事よりもたっくんの方が心配で、 早く近くに行きたかった。
「あなたね、 風邪をこじらせて肺炎になりかけてたのよ。 足も軽い凍傷になってて、 軟膏を塗って休ませてるところだから、 歩いちゃダメなの」
「でも…… 」
チラリと横目でたっくんの寝顔を窺う。
「たっくんは疲れて寝てるだけ。 凍傷が酷いからまだ治療が必要だけど、 それ以外は問題ないわ。 たぶんずっと熟睡出来てなかったんでしょうね。 今は思う存分寝させてあげなさい」
「…… うん」
そばに行って近くで顔を見たかったけれど、 せっかく寝ているところを邪魔したくはない。
「お母さん、 今何時? 」
「朝の7時前。 あなたは救急車でここに運ばれて、 そのまま一晩中眠ってたの」
「一晩中…… 」
母が頷きながら、 私の肩まで布団を掛け直し、 上からポンポンと軽く手で叩いた。
それから丸椅子に座って話を続ける。
「お隣の田中さんが、 外で大変な事になってるって電話をくれて、 慌てて帰ってきたらパトカーが来てて…… お母さんね、 心臓が止まるかと思ったわよ。 どうしてあなたはいつもいつも無茶ばかりするの! 本当に…… 」
言いながら感極まったのか、 徐々に涙声になってくる。
「ごめんなさい…… 」
「とにかく…… 雪の中にずっと裸足でいたから足の裏が低温火傷になってるの。 皮膚が脆くなってるから、 歩かないでちょうだい。 朝食は食べられそう? 」
見るとベッドサイドの床頭台に、 食事の乗ったトレイが置かれていた。
食欲は無かったけれど、 お粥を少しとフルーツだけ食べて薬を飲み、 母に言われるままもう一度横になり、 目を瞑る。
やはり私も疲れていたのだろう。 いつのまにか、 再び眠りに落ちていた。
「……なつ…… 小夏」
ーーんっ?
名前を呼ばれたような気がして薄っすら目を開けたら、 目の前に誰かの顔……
「…… たっくん! 」
ガバッと跳ね起きたら、 たっくんが唇に人差し指を当てて、「シッ」と声を抑えるよう促した。
「静かにして。さっき看護師さんが来て、 絶対に歩いちゃダメって言われたばかりだから……」
「歩いちゃダメじゃん」
「うん、 すぐにベッドに戻る。 ただ、 小夏の顔を見たかっただけ」
そう言って私を覗き込んだたっくんの左眉の少し上には、 ガーゼがテープで留められている。
「それ…… ビール瓶の…… 痛い? 」
私がそっと手を伸ばしたら、 たっくんがその手を掴んでそのまま布団の中に戻し、 悲しそうに眉を下げて言った。
「俺はいいんだよ。 それよりも、 小夏の顔に傷がついちゃったな…… ごめんな」
「えっ? 」
言われて目線の先に手を伸ばすと、 確かに左のこめかみの辺りにガーゼが貼られている。
「ああ、 本当だ。 気付かなかった…… そうか、 私もあの時にケガしたんだ。 そう言えば血が出てた…… 」
そう口にした途端、 昨夜の恐ろしい出来事がフラッシュバックして、 今更ながら全身に震えが来た。
雪の中の悪魔。
狩られたウサギみたいなたっくん。
割れたビール瓶の欠片。
真っ白な雪に咲く深紅の花。
ポトリ、 ポトリと次々花開いて……。
「たっくん…… たっくんが死んじゃうかと思った…… 生きてて…… 生きてて良かったよ〜! 」
そう言いながらたっくんの首にしがみついてわんわん泣きだしたら、 たっくんも私の背中に手を回して抱きしめながら、 「うん…… うん」と頷いた。
「お前…… なんで逃げなかったんだよ。 俺のために…… あんなに必死になって…… バカだろ、 お前」
言いながらギュッと力が籠もったたっくんの腕が、 ちゃんと生きて目の前にいるのだと実感させてくれて、 私はタガが外れたように益々大泣きした。
たっくんの涙が、 私のうなじにポトリと落ちた。
それはほんのり温かくて、 私の心にじんわりと沁み込んだ。