41、 分かるだろ?
夏休みを終わった9月に入ってから、 たっくんが学校を休む日が多くなった。
それは大抵、 壁の向こう側で大きな物音や怒鳴り声がした翌日。
2〜3日休んでから登校してきて、 また数日したら休むの繰り返し。
9月の終わり頃に児童相談所の人が男女ペアで家庭訪問に来ていたけれど、 穂華さんが、「拓巳は風邪で寝ています」と言って追い返していた。
職員さんが、 ドアをちょっとだけ開けて様子を窺っていた私に気付いて歩いてきたけれど、 私は彼らに話し掛けられる前にバタンとドアを閉めた。
たっくんに『何も言うな』と言われていたから。
私と母が名古屋から帰ってきて公園でたっくんを発見したあの日。
母は、 トイレを貸して欲しいと言うたっくんをアパートに連れ帰って、 どうにかしようと説得を試みた。
「拓巳くん、 穂華さんと離ればなれにならないよう私がかけ合ってあげるから、 今から一緒に警察に行かない? 警察が嫌なら児童相談所でもいいわ」
「…… ダメだよ早苗さん。 俺、 図書館に行っていろいろ調べたんだ。 俺んちみたいなパターンだと、 母さんが育児能力がないと判断されて、 引き離される事が多いんだ。 俺は保護施設に入れられる」
賢いたっくんは既に自分でいろいろ調べていたらしく、 難しい単語がどんどん口から飛び出してくる。
「施設に入ると、 下手したら学校にも通えなくなるんだ。 そしたら母さんどころか小夏とも会えなくなる。 そんなの絶対にイヤだよ。 殴られる方がマシだ」
「拓巳くん…… どうか『殴られる方がマシだ』なんて言わないでちょうだい。 あなたの身体はあなた自身のものなのよ。 あなたには自分の心と身体を大事にする権利があるの。 他の誰にも傷つけさせちゃいけないわ…… 」
母はたっくんをギュッと抱きしめて、 声を殺して泣いた。
その姿を見て、 最近は母の涙をよく見るようになったな…… と思った。
元々感情表現が豊かで、 よく喋り、 よく笑う人だったけれど、 泣くことはそんなになかったように思う。
こんなふうに泣かせているのは私でありたっくんなんだ。
そしてその元凶はあの男……。
アイツは他人のために流す涙も持ち合わせていないのだろう。
たっくんは前にアイツの前で泣きたくないと言った。
私だってアイツのせいで泣くのなんかまっぴらごめんだ。
強くなりたい…… 。
アイツにも自分にも負けない強い心が欲しい。 心からそう願った。
「それじゃ、 俺、 もう行くね」
「行くってどこに?! 」
私が反射的にたっくんの手を掴むと、 彼は困ったような顔をして、 少し首を傾げた。
「公園。 小夏にだって分かるだろ? 俺がここから出てくところをアイツに見られたら、 何か嫌がらせをしてくるかも知れないんだ。 俺さ、 早苗さんや小夏に迷惑をかけたくないんだよ。 だからここにもあまり来ない方がいいと思うんだ」
「いいじゃん、 迷惑かけたって。 いいよ、 うちにおいでよ! 」
「うん…… でも、 それだと俺が嫌なんだ。 小夏に何かあったら、 俺は一生後悔する。あっ、 でも…… トイレだけ貸してくれる? ドアの外に立たされるのも、 外に逃げ出すのもいいんだけど、 トイレに行けないのだけが困るんだよね」
こんな事を当たり前みたいにサラッと笑顔で話して、 当然のことのように受け入れて…… たっくんは公園に戻っていった。
せめて裸足では行かないで…… と母に履かされた、 大人用のビーチサンダルを履いて。
この翌日、 母はたっくん用の予備のビーチサンダルを買ってきて、 玄関の靴箱に並べた。
また裸足でトイレを借りにきた時に履いて帰れるように。
たっくんはこうなるまでに、 どれだけ、 何回、 辛い思いや痛みを経験してきたんだろう。
もしもたっくんが、 親を、 大人を、 社会を恨んで石を投げたとしても、 拳を振り上げたとしても、 誰にも彼を責める権利なんてありはしない。
なのに尚、 自分よりも私たちのことを想い、 彼は外へと出て行くのだ。
天使のような笑顔を浮かべて。
だから、 限界が近付いていたのは、 全てを諦めて受け入れていたたっくんではなくて、 希望を諦めきれずに悪あがきしていた私の方だったんだ。